40 花かんざし
先週は調子が良かったぶん、その反動なのか、今週は体が言うことを聞いてくれない。背中の奥でじんわりとしていた痛みが、今日は一段と強く感じられる。
――今日は休もうかしら。
先週はきっちり働いた。自分がいなくても業務が滞らないように整理を終えた。やらなければいけないことは、もうほとんどない。
着替えだけを取りに部屋へ行こう。
裕磨と暮らしたマンションを出て、先週からホテルで過ごしていた知佳は、そう考えてフロントにキーを預けた。
だが、急に刺すような激しい痛みが背中に走り、知佳はその場にうずくまってしまった。
近くにいたコンシェルジュが飛んできた。救急車を呼びますか、と知佳に尋ねたが、知佳はそれを断った。
「いえ、タ、タクシーに乗せてください」
*
「症状が、思ったより進行しています」
そう告げた医者の表情に特別な感情は読み取れなかったが、横にいた看護師の目には、この若い女性に対する同情がありありと浮かんでいた。
「もう少し強い痛み止めを処方しましょう」
カルテに記入しながら、医者は顔を上げた。
「ご自宅で過ごすこともできますが、ホスピスで専門的なケアを受けることもできますよ。もしご希望でしたら――」
訪問ケアのシステムも万全だから、と医者は付け足した。
考えてみます、とは言ったが、それはただの口先だけのものだった。
――急がなくてはいけない。
ホスピスを勧められるということは、知佳に残された時間は長くない。立ち止まっている暇はなかった。仕事の整理はついた。他に、やり残したことは本当にないだろうか?
翌日、少し体調が戻った知佳は、辞表を出しに会社へ赴いた。
体調が優れないため入院することを伝えたが、あまりにも突然の出来事に、周囲はかなり驚きつつ受け止めていた。だが、半分は本当のことだ。
パスカードを返却して、社屋から出ようとすると裕磨が追いかけてきた。きっと晴美から連絡がいったのだろう。
「待ってくれ、知佳。話しを――少し、どこかで話をさせてくれ」
知佳は振り向いたが、歩みを止めることはなかった。
「安心して、あなたのことが原因で辞めるわけじゃないから。それに二人のことも誰にも話してないわ」
これも半分は本当のことだ。
「実家にも帰ってないんだろう? どこにいるんだ? お願いだから、戻ってきてくれないか」
知佳は静かに首を横に振った。
「私が戻ることはないわ。じゃあ、さようなら」
だが、知佳の背後でまだ裕磨の足音が続いている。
――まだ追いかけてくるの?
一瞬だけ、足が止まりかけた。けれど振り返りはしなかった。
「ち……」
裕磨の声を振り払うように、知佳は歩みを早めた。
裕磨は離婚には簡単に応じないだろう。だから生命保険も解約したし、遺産は母へ行くように、手続きは済んでいる。
裕磨には資産や預金が少ないことを知佳は把握していた。換金できそうなものはすでに処分してある。自分のもので二人が楽できるのは許し難かった。
それから一週間後、知佳は実家の母を訪ねた。
「知佳さん、よく帰ってきたわね。体調はどうなの?」
「ただいま、お母さん」
母は夕食の支度の最中だった。お手伝いさんもいたが、金曜はずっと昔から母の手料理の日と決まっていた。
料理の手を止め、母はお茶を淹れてくれた。知佳が好きな、どら焼きの皮だけのお菓子も添えてある。
「花かんざし……懐かしいわ」
「割といつもあるのよ。知佳さんがいつ帰って来てもいいように」
母は夕食前だからと、半分だけお菓子を食べた。知佳は食欲がなかったが、母につられて、自分も口にした。
「今日は何を作っていたの?」
キッチンに視線を向けて、知佳は尋ねた。
「今日は筑前煮よ。大分から立派などんこをいただいたの。あたなも食べていって」
「お母さん、ごめんなさい。今日はゆっくりしていられないの」
母は知佳が退職したことを知っているはずだが、何も聞いてこなかった。裕磨とうまくいっていないことを感づいているのかもしれない。
帰ろうとする知佳に、母は保存容器に入れた筑前煮を手渡した。
「またいつでも帰ってらっしゃいね。その時こそ、一緒にご飯を食べましょう」
たぶん、その時は来ないの。切なさが胸を締め付けたが、精一杯笑顔を作って、知佳は実家を出て行った。
お母さんには、笑顔の私を覚えていてほしい。どうか、私を許して――
車を運転するのは久しぶりだった。
決心したつもりでも、運転席のドアに掛ける手が震えた。怖くないと言ったら嘘になる。だが、恐怖から逃げだすわけにはいかない。
知佳はどうしても、あの二人の未来を許せなかった。まるで初めから自分は存在しなかったかのように、二人の時間が進んでいくことは認められない。
手が震えるのも構わず、ドアを開けて運転席に乗り込んだ。アクセルに足をかけようとしたとき、淡い黄色のスカートがドアに挟まっているのに気がついた。まだ小刻みに震える手で無理に引っ張ると、スカートの裾は音を立てて破れた。
「お気に入りだったのに……」
そう呟いた自分が可笑しくなって笑みが漏れた。不思議と震えは収まった。エンジンをかけ、車をスタートさせる。
ワイパーが一定のリズムで雨を切っている。
行き先は決まっていた。




