39 契約
なんの変哲もないただの十字路。
駅に繋がる道は広く、舗装も比較的新しい。住宅街に抜ける道は二車線だが、広くはない。どの道路にしてもアスファルトが敷かれた現代の道だが、辻にひっそりと佇む祠は時代を感じさせる代物だった。
石の角は取れ、苔むし、刻まれていたはずの文字も判別が困難な状態になっている。
「来たね」
後ろから声をかけられ、知佳の肩がぴくりと反応した。
「うん、決心もついたみたいだ」
振り返ると先日の男が立っていた。線の細さは変わらず、今日もサングラスをかけていたが、身長はこんなに高かっただろうか?
「詳しい話はカフェでお茶でも飲みながら……って、そんな気分じゃないのは承知してるけどね」
「あなたは――どうやって私の願いを叶えるつもりなの?」
「それは知らなくてもいいことじゃない?」
確かに知ってどうなるものでもない。
――壊そう。そう思った決心が揺らいでいるとも違う。だが、商品を選んで、決済ボタンを押したらもう引き返せない。大きな買い物をする直前の、小さな躊躇が、知佳に余計なおしゃべりを促していた。
「それで、どうしたい?」
「私の考えが分かるんでしょう? わざわざ言う必要があるのかしら」
「それがあるんだなあ。契約のときは、具体的な要望を口に出さないといけないの」
「私の……願い、は……」
それを言葉にしようとしたとき、焦燥めいた敗北感が知佳の中を突き抜けた。その痛みをはっきりと感じながら、いったん閉じた言葉をまた繋げた。
「あの二人の未来、幸せの象徴。それを壊して」
知佳はサングラスの奥をしっかりと見つめながら、はっきりと口にした。
「うっ、ちょっと曖昧だねぇ――まあ、願いは受理されたよ」
男は身を屈めて、知佳の耳元で囁いた。
「君は、払えるのかな?」
払えるかどうか、ではなかった。何を願うかを決めたときに、もう差し出すものは決まっていた。
知佳は、ほんのわずかに視線を落とした。残された時間。終わりが見えている命。それで足りるはずだと、確信していた。ひとつの命で、ひとつの命を奪う。それが釣り合いだと、疑いもしなかった。
――生まれてくる必要はないわ。
そう、そんな未来があってはいけない。それを正すのが私の願い。
だが、その言葉は口には出さなかった。ただ知佳は、契約の印を静かに押しただけだった。
一瞬、時が制止したかのように、静寂が訪れた。またあの薬草の匂いがしたかと思うと、ゆっくりと時は動き出した。
*
「あ、チーフ! おはようございます。お体の具合はいかがですか? みんな心配していたんですよ」
久しぶりに出社したオフィスは、知佳に懐かしい気持ちを呼び起こした。
休んでいたのはほんの一週間足らず。それが今はもう遠い昔の出来事のように感じてしまう。清潔なオフィス、テキパキと働く有能な同僚たち。この秘書課を立て直し、ここまで成長させたのは自分だという事実が誇らしい。
だが、もう知佳がいなくても秘書課はスムーズに回っている。寂しい気持ちもあるが、先を見据えるとこれがベストなのだと理解できる。
「心配かけたわね。ところで、社長はもういらしてるかしら?」
「はい、つい先ほどお見えになりました」
知佳は社長室のドアをノックした。入室を許可する父親の声が低く響いた。
知佳が入っていくと、父はデスクから立ち上がった。
「知佳か。どうだ体調は。病院には行ったのか?」
まだ顔色の優れない娘の様子を見て、社長としてではなくすっかり父親の顔になって、保はソファを薦めた。
「ええ、大したことはなかったの。疲れが溜まっていたのね」
父は娘の向かいに腰を下ろし、知佳が運んだお茶を口にした。
「うん、お前の淹れたお茶が一番うまい」
――相変わらずなんだから。
仕事には厳しい顔を持つ保だが、家庭では良き夫で、良き父親だった。一人娘の知佳を目に入れても痛くないほど可愛がり、大切にしている。知佳もそれをよく分かっていた。
――私が対価を払わなかったら、どうなるのかしら。
契約を済ませたばかりだというのに、「支払わなければどうなるのだろう」という考えが一瞬だけ頭をよぎる。
願いが叶わずに終わるだけなら……実家に戻って、家族と残りの時間を静かに過ごしてもいいかもしれない。
そう思いながら秘書課のオフィスに、知佳は戻った。
オフィスには甘い香りが充満していた。営業課から、焼きたてのシュークリームが差し入れされたらしい。
「米沢さんもおひとついかがですか?」
そう言いながら、新人スタッフが晴美の前で箱の蓋を開けた。甘い匂いがさらにきつく香る。
突然、晴美は立ち上がり、口元を押さえながらオフィスを出て行った。
「あら、シュークリームはお嫌いだったかしら」
しばらくすると晴美は自分のデスクに戻ってきた。顔色は良くなかったが、知佳と目が合った途端、さらに青ざめたように見えた。
さきほどまでの穏かな気分は、まるで霞のように消えた。自分が望める景色はひとつしかないのだと、知佳は思い知った。




