38 静かな確信
「誰、かぁ」
男は腕組みして、真剣な顔で首を傾げた。
「……その質問、難しいな」
痺れを切らした様子で、知佳はぐっと詰め寄った。
「どうして裕磨と晴美のことを知ってるの?」
「どうしてって、う~ん、顔に出てるから?」
男はつまらなそうに肩をすくめた。
「で? どうするつもり?」
「……そんな話、信じるわけないでしょう」
そう言いながら知佳は視線を外した。声の端が震えているのを、自分でも意識していたからかもしれない。
「ふーん。じゃあいいや」
あっさりと引いたかと思うと、男はふと笑った。
「三日あげるよ」
「……は?」
「考える時間、いるでしょ?」
押し黙ってしまった知佳を見て、男はため息を吐いた。
「仕方ないなあ。ちょっとした手品を見せてあげるから」
男はサングラスに手を掛け、少し下にずらした。
——目ではなかった。
真っ黒な闇がこちらを覗いているのが分かった。目はないのに、何もかも見られていると本能で感じた。
「はい、終わり。じゃあまた三日後ね」
「え……」
知佳は茫然と立ち尽くしていた。
ずっとあの男を見ていたはずなのに、その姿はいつの間にか消えていた。目を逸らした覚えはなかった。それなのに、もうそこにはいなかった。
*
駅からの帰り道、裕磨は同じ信号に二度も足止めを食らった。
スマートフォンを取り出しかけて、やめる。誰に連絡するつもりだったのか、自分でも分からなかった。
――どうする。
頭の中で同じ言葉が堂々巡りする。
晴美が子供の話をしたときの声と、顔が浮かんだ。それがすぐに、知佳の顔と重なる。
打ち消すように、歩く速度を上げた。どちらも上手くいく、そういう選択肢はないのか。――考えかけてすぐに首を振った。そんなものがあるはずがない。
じゃあ俺はどうなる?
スマートフォンを握る手に力がこもり、思わず舌打ちしていた。
マンションを見上げると、部屋には明かりが灯っていた。何をどうしたらいいか、まるで考えがまとまらないまま玄関に着いてしまった。
「……帰ったよ」
少し間があって、
「おかえりなさい」
返事があった。
その声の位置を確かめるように、裕磨は廊下を進んだ。知佳はダイニングの椅子に座っていた。背筋をピンと伸ばし、手は膝の上に綺麗に重ねられていた。
今日も知佳は仕事を休んでいた。
「その……まだ調子は良くないのか?」
「そうね」
その後が続かない。知佳の視線は何もないテーブルに注がれている。裕磨はネクタイに指をかけたまま、外すタイミングを失っていた。視線をどこに置くべきか決めかねて、壁の時計に一度だけ目をやった。
「昨日のこと……話したい。けど……どう言えばいいか……」
裕磨は“謝罪”という言葉を避ける。謝った瞬間に全てが確定してしまう気がして怖かったのだ。
知佳は、ゆっくりと息を吐いた。怒りでも、悲しみでもない。もっと乾いた温度のない呼吸だった。
「あなたが“わからない”なら、私が言うわ」
声は静かで淡々としているのに、逃げ道を塞ぐような響きがあった。
「昨日の時点で、私の中ではもう終わっているの。あなたがどうしたいかなんて、もう関係ない」
裕磨の肩がわずかに揺れる。
「謝る言葉を探すくらいなら、晴美さんのところへ行けばいい。子どもができたのよ。そっちを選ぶのが筋だわ」
淡々と告げつつも、一瞬だけ声が震えた。それが本音なのか、自分でも口にしながら迷っていた。
「……私は、あなたの“迷い”に付き合うつもりはないわ」
裕磨は、逃げるように背を向けた知佳の肩に、伸ばしかけた手を途中で止めた。触れていいのか分からない。触れたところで、何が変わるのかも分からない。ただ、このまま行かせたら二度と戻ってこない気がした。
「……待ってくれ」
声が震えた。自分でも驚くほど弱い声だった。
知佳の足は止まったが、振り返りはしなかった。
「話したい。いや……話させてほしい」
言葉が空回りしているのは分かっていた。謝罪なのか、懇願なのか、自分でも整理できていない。言葉を探しながら、裕磨は無意識に視線を泳がせた。今、知佳の背中が遠ざかる未来だけはまずい。
「その、ここまで……やってきただろ。俺たち」
それは思い出をなぞるようでいて、どこか確かめるような響きだった。
「知佳……俺は、まだ……」
“好きだ”と言おうとして喉が詰まった。そんな感情で、この知佳を引き留められるとは思えない。それでも、何か言わなければ。
「俺は……どうすればいい? 何をすれば、もう一度向き合ってくれるんだ?」
問いというより、叫びに近かった。だが問いかけながら、その実、何かを選び取る覚悟はどこにもなかった。
知佳はゆっくりと息を吸い、吐いた。その呼吸の音だけが、二人の間に落ちた。
そのとき、短い通知音が鳴った。
裕磨の視線が、反射的にテーブルの上のスマートフォンへ落ちる。
ほんの一瞬だった。だが、その動きには迷いはなかった。
会話の途中であることも、知佳が目の前にいることも、すべてを飛び越えて身体が先に反応していた。画面に表示された名前までは見えない。けれど、分かる。
――ああ。
揺るぎようのない事実がそこにあった。
――この人は、もう私を見ていない。
言葉を探していたはずの男は、視線を戻すのにわずかな遅れを見せた。取り繕うように息を整え、何かを言おうとする。
けれど、その前に知佳は口を開いていた。
「いいのよ、出ても」
裕磨の動きが止まる。
「大事な連絡なんでしょう?」
その一言で、すべてが終わった。言い訳も説明も、もうすべてが遅すぎたことを、裕磨自身が理解してしまった。
知佳の胸の奥にあった重苦しさは、いつの間にか形を失っていた。代わりに残っているのは、妙に澄んだ感覚だった。
裕磨と晴美はこれから先を生きていく。私には持てなかった家族を作って。
知佳は、無意識に食器棚を見つめていた。私にはもう妻という居場所も、母になる未来も残っていなかった。奪われた、という言葉すらもう正確ではなかった。
ただ、このまま終わることだけはできない。私のいない未来を、そのまま進ませることだけは許さない。
最後に残った考え。いま、それが確かな形を成していた。私にできる、唯一のこと。
知佳は目を伏せ、小さく息を吐いた。
――壊そう。




