36 愛
ドアを閉めた。白木の扉は鉛のように重く感じ、閉まるまでにやけに時間がかかった気がした。
使われたことのない客間は空気までもが冷え切っている。自分はなにを思い、ベッドの前に立っているのだったかしら?
客間のベッドのマットレスは、確か硬めのものを選んだはず。ぼんやりと考えながら、手を伸ばした。
体は――確かに心と繋がっていた。一歩踏み出したが、膝はガクンと折れた。硬さを確かめるはずの手は、体重を支えきれず、そのままベッドに倒れ込んだ。
滑稽だった。自分の姿がおかしくて思わず笑いがこぼれた。笑いながらも、なぜか涙が頬を伝った。――私は感情からではなく、理性で裕磨を選んだはずだった。
――なのに。知佳は裕磨を愛していた。
こんなふうに、息もできないくらい苦しい理由はもうそれしかなかった。
裕磨だって、すべてが計算づくというわけではなかったはずだ。あの人も、最初から私を裏切るつもりだったわけじゃない。
何がいけなかったのか、何を間違えたのか?
不自由さを感じない暮らし、責任ある地位。それは誰もが望むもののはず。それを手に入れていながら、どうしてこんなことを。
私が何かしたの? 私がもっと笑っていたら違った? 私がもっと甘えていたら……。
病院ですれ違った妊婦の姿と晴美が重なる。息が詰まって、吐くことも吸うこともできない。仰向けになって、喉元を強くつかんだ。
咳き込みながら、手探りで枕を引き寄せた。目を開き、白い天井を見つめる。
陽光の中、ベビーカーを押す裕磨と自分がぼんやり浮かんだ。
愛くるしい子供の笑みにつられて、自分たちも笑っていた。自分は夫を愛している。夫もいずれそうなってくれるだろう……。
目を閉じた。涙はもう乾いていた。そんな日は、もう来ないのだ。
その未来は、もう誰かのものになってしまったのだから。




