35 通告
診察室の空気は、妙に乾いていた。
モニターに映し出された画像を前に、医師が淡々と説明を続けている。専門用語がいくつか並び、その意味を頭の中で整理するまでに、わずかだが時間がかかった。
「詳しい検査の結果ですが……」
一度言葉が区切られた。
「膵臓に腫瘍が見つかっています。進行の程度から見て、早期とは言えません」
知佳は頷いた。
医師の言葉を一つずつ頭の中で整理する。病名、進行度、治療方針。仕事で資料を読む時と同じように、正確に理解しようとしていた。
けれど、それが自分自身に向けられた説明だということだけが、どうしても現実にならなかった。
「治療というより、進行を遅らせるための処置を行っていきます」
その先の言葉は、はっきりと聞こえた。
限りがある時間。診察室を出ると、その事実が静かに輪郭を持ちはじめた。
目に入ってくる光景がすべて色あせて見えた。足に力が入らず、今にもくずおれてしまいそうになる。
知佳の横を小さな男の子が通り過ぎた。
「走っちゃだめよ!」
遅れて母親らしき女性が、すれ違いざまに軽く頭を下げた――大きなお腹に手を添えながら。
胸の奥が灼けるように熱くなった。おぼつかなかった足取りが急に生気を取り戻し、そのまま速足で病院を出て行った。
震える手でスマートフォンに文字を打ち込む。
『今日は早く帰って来てください』
短い一文を送信すると、すぐに既読がついた。
『分かった』
――これでいい。少しだけ画面を見つめてから、知佳はすぐタクシーに乗り込んだ。
*
知佳から帰宅を急がせる連絡が来たのは初めてだった。最近、少し様子がおかしいのは、体調が優れないせいなのだろうか。
”妻”を安心させるためにも、今日は真っすぐ帰宅しよう。裕磨がそう考えていると、またスマートフォンの画面に通知が光った。
『急ぎで話があるんです、終業後会えませんか?』
晴美だった。
裕磨は内心で毒づいた。どうしていきなり、しかも二人とも当日になってから。
画面に目を落としたまま、考える。最適解はどっちだ。
*
「今日はあんまり時間が無いんだ。で、どうしたの?」
裕磨は、グラスの水にも手を付けず、下を向く晴美に尋ねた。
「あの……わたし……」
言葉が一瞬途切れる。ふと顔を上げ、周囲を一度見てから続けた。
「妊娠したの」
呼吸を忘れたように裕磨は動かない。その視線は晴美の顔に注がれていた。
「……本当?」
「病院に行ってきたから」
それ以上の説明はなかった。
長い、沈黙が落ちた。
やがて、裕磨は小さく息を吐いた。窓外を見ているが、何かを言おうとして、言葉を選びかねているのが分かる。
そのとき、晴美が続けた。
「病院で知佳さんに会いました」
「えっ」
「母子手帳を受け取るところを見られました……もしかしたら、知佳さん、気づいているかもしれません」
想定した時間より遅くなった。時間を確認しながらマンションのエレベーターに乗ったが、頭の中には先ほどの晴美の表情がこびりついていた。
――知ってるって? 何を、一体どこまで……。
玄関のドアを開ける前に呼吸を整える。いつもと変わりないようにするんだ。
「ただいま」
知佳はリビングのソファに座っていた。背筋を伸ばし、ただ静かに。
「おかえりなさい」
――よかった、声は普段通りだ。
「遅かったわね」
靴を脱ぎながら、裕磨は息を飲んだ。
リビングに入ってきた裕磨の顔を見ても「夕食は?」と知佳は聞かなかった。そしてゆっくりと立ち上がった。
「少し、話があるの」
すぐそこにいる知佳との距離が、妙に遠く感じる。
「米沢さんのことなんだけど」
その名前が出た瞬間、裕磨の視線が揺れた。一瞬のことだったが、はっきりと分かる変化だった。
「うん……どうしたの?」
「先日病院で会ったの」
淡々とした口調で知佳は続けた。
「それで――母子手帳を受け取ってたわ」
裕磨は返す言葉が咄嗟に浮かばなかった。知っていたのはこのことか。それとも――。
「驚かないのね。今日遅かったのは、彼女と会っていたからなのね」
「い、いや……」
裕磨は息を飲んだ。自分を見つめる知佳の瞳は氷のように冷たい。それを見て、裕磨は全てを悟った。力が抜け、ドサッとソファに腰を下ろす。ソファは軋んで悲鳴を上げた。両手で顔を覆い、大きく息を吐く。
「ねえ、あなたはこれからどうするか、ちゃんと考えて。私も今日、病院に行ったの。検査結果が出たから……でも、まだ嘘みたいで」
後半は裕磨に、というより自分自身に話しているように、知佳はぽつり、ぽつりと口に出した。
「それから……おめでとう」
ほんのわずかに間があったのは、言葉を選んだのではなく、喉がうまく動かなかったから。
「私は今日から別に寝るわね」
客間で、という言葉までは口にしなかった。どこで寝るかなんて本当はどうでもよかった。
裕磨はハッと顔を上げた。この状況でも穏やかに話す知佳の声が、どこか震えて聞こえた。
「ち……」
背中を向けた知佳に声をかけようとしたが、言葉が続かなかった。何を言えばいい? 謝るのか、それとも晴美と別れると言うのか? 自分は本当はどうしたいんだ?
――選択肢どころか、逃げ場もない。
裕磨は知佳が去った客間のドアを見て、胸の奥が軋むのを感じていた。




