34 手帳
絵画教室を出て外の空気が頬を撫でると、さらに意識がはっきりした。
「絵は嘘をつきません」
庄司先生の言葉が、まだ耳に残っていた。
嘘をついているのは絵ではない。私自身なのかもしれない。
――病院へ行こう。体の不調が気分の落ち込みにも繋がる。不安の種になるなら、それだけでも取り除かなければ。
総合病院の自動ドアが開くと、消毒薬の匂いが知佳を迎えた。大病院ならではの人の多さやざわめき、動きが、現実に引き戻してくれるようで安心する。
受付を済ませ、番号札を受け取った。待合室には、同じように順番を待つ人たちが静かに座っていた。テレビの音が小さく流れているが、内容は頭に入ってこない。
空いている席に腰を下ろし、膝の上で番号札を握りしめる。手の中にあるはずの、紙の感覚がほとんどない。また呼吸が浅くなっていることに気づき、一度意識して息を整えた。
そのとき、視界の端に見覚えのある後ろ姿が映った。名前はすぐには浮かばなかった。ただ、「知っている」という感覚だけが先にやってきた。髪の長さ、立ち方、肩のライン。数秒遅れて、それが誰なのかを理解する。
――米沢さん。
声をかけるかどうか、一瞬だけ迷った。だが、ここにいる理由を思い浮かべるより先に、知佳は立ち上がっていた。
「……米沢さん?」
呼びかけると、晴美の肩がわずかに反応した。
「……知佳さん」
目を見開いた晴美の顔、それは少し不自然な驚きに見えた。
「どこか、具合でも悪いの?」
「えっと、はい……少し、体調を崩していて」
ぎこちなさを感じるが、体調が悪いならそういうものだろう。
「そう。無理しないでね」
「知佳さんも……まだ調子が良くないんですか?」
「ええ、そうなの」
会話は途切れた。それ以上踏み込む必要はなかったし、そうしようとも思わなかった。
知佳は元の席に戻ろうとした。そのとき、少し離れた通路の奥から、看護師の声が響いた。
「米沢さん!」
反射的に、二人ともそちらを見る。白衣の看護師が、小走りで近づいてきた。
「すみません、これ……母子手帳をお渡しするのを忘れてしまって」
看護師は息を整えながら、手にしていたものを差し出した。淡いオレンジ色の手帳が晴美に手渡された。
目の前の光景がスローモーションのように流れていく。二人の会話は、ノイズの混じったラジオから聞こえる声のようにはっきりしない。
紙が擦れる音。周囲のざわめき。誰かの咳払い。全部が均一な音の塊になって、距離を失っていく。
視線は晴美の手の中の手帳に固定され、知佳の体は石像のように微動だにしなかった。
「あの……知佳さん?」
気づけば、看護師はとうにいなくなり、晴美が気まずそうに知佳の顔を覗き込んでいた。
「これは……その……」
「そう……」
晴美の言葉を遮るように、口が勝手に言葉を返した。それ以上は言葉が出なかった。喉が張り付いたようになって、つばを飲み込むことすらできない。
その時、晴美がどんな顔で知佳を見ていたか記憶が曖昧だ。待合室に戻ると、すぐ知佳の順番がきて診察室に呼ばれた。
症状を伝え、血液を採取され、血圧を測り、検査が進んで行く。レントゲンも撮った。
一連の流れはスムーズに進んだが、知佳には台本通りに動いているような感覚しかなかった。
「レントゲンに気になる箇所があるので、CTスキャンをしてみましょう。検査結果は後日にお知らせします」
レントゲンの画像を見ながら医師が言った。
帰宅した知佳は疲れ果てていた。この部屋を出たのが、もう何日も前のような気がする。
ソファに座り込み、揺れるカーテンを眺めていた。まだ手の中に整理券の感触が残っている。喉の渇きを覚え、室内がすっかり暗くなっていることに気付いてやっと、知佳は立ち上がった。
照明を点けたとき、玄関が開いた。
「……ただいま」
「おかえりなさい」
「夕食は?」
「もう済ませたよ」
短いやり取りのあと、裕磨は着替えに行こうとリビングを出た。戻ってきたとき、ようやく知佳の服装に気づき、少し驚いた表情を見せた。
「あれ、今日は仕事休んだの?」
「ええ、まだ調子が悪くて……ねぇ」
自分でもなぜこんなことを言おうと思ったのか分からなかった。
「春になったら、少し時間を作れないかしら」
裕磨がこちらを見る。特に警戒する様子もなく、ただ問いの意味を探るような視線だった。
「どうしたの、急に」
「なんとなく……」
言いながら、自分の中にある“なんとなく”の正体を探る。けれど、まだ形にはならない。
「最近、忙しそうだから」
「ああ……まあ、少しね」
軽く頷く裕磨の仕草は、嘘かどうかを判断する材料には到底ならないほど、自然だった。
「じゃあ……少し落ち着いたら、旅行でも行こうか」
――その言葉を聞いた瞬間。知佳の中で、何かが静かに位置を変えた。裕磨の声は明るかったが、どこか「場を収めるため」の音に聞こえた。単に知佳に調子を合わせているのかもしれない。
「そうね」
知佳は小さくうなずき、それ以上何も言わなかった。言葉にしてしまえば、また思いが固定されてしまうような気がした。
もう、変わってしまったことは、間違いなかった。
それでも知佳は、その壊れた音を聞かなかったことにした。




