33話 通知
その夜、裕磨はかなり遅くなってから帰宅した。
となりのベッドに滑り込む気配がしたが、アルコールの匂いは纏っていないようだ。ほどなくして、安らかな寝息が聞こえてきた。
翌日、知佳はいつも通りに朝の支度を始めた。
朝はコーヒーではなく紅茶派の裕磨のために、たっぷりのダージリンを用意する。裕磨はあくびを噛み殺しながら、知佳よりだいぶん遅れて起きてきた。
「おはよう」
「おはよう、昨日は遅くまでご苦労さま」
知佳の笑顔はいつもと変わらない。昨日のティーカップのことが頭の中の大半を占めているようには全く見えない。
裕磨の向かいに座り、湯気の立つ紅茶を一口飲むが、それきり視線はティーカップに注がれたまま動かない。
「知佳?」
「えっ? 何か言ったかしら?」
「いや、ぼうっとしてるから、どうしたのかなって」
気づけば紅茶はすっかり冷めていた。
「……なんでもないわ。トーストのお代わりはどう?」
「もういいよ、ありがとう」
気になりだすと、全てに違和感を感じるようになった。
その日も裕磨の帰宅時間が、いつもより三十分ほど遅かった。
「残業?」と聞くと、裕磨は靴を脱ぎながら、少しだけ間を置いて「うん」と答えた。
その“少しの間”が、妙に心に残る。気のせいかもしれない――そう思おうとするのに、心の奥に引っかかったものが落ちていかない。
あの匂いもそうだ。
洗濯かごに入れられた裕磨のシャツ。洗おうと手に取ると、家では使っていない香りがした。
「人の匂いが移ったのかしら」そう呟いてみても、胸の中には別の考えが湧いてくる。
その週の金曜日、知佳は朝からずっと気分が沈んでいた。好きな花を飾ってみたが、その香りは心に届かない。
裕磨は「行ってくる」と短く言い、ネクタイを整えながら出ていった。
その背中に、以前のような安堵を覚えられない自分が、いちばんつらかった。
――このままでは、自分がだめになってしまう。
疑っているのか、疑いたくないのか。自分でもわからない曖昧な感情が、日ごとに積もっていく。気づけば、深く息を吸うことすら忘れていた。
出勤しようと玄関に向かう途中でスマホが震えた。母からの明るい便り。知佳は週末、実家に帰ってみようと思いついた。
その週末、知佳はひとりで実家の門をくぐった。庭先にある大きな桜の木は蕾がふっくらと膨らみ始め、まだ寒風吹きすさぶ中でも確実に春が訪れていると告げていた。
玄関に入ると懐かしい匂いが知佳を迎えた。母が出てきて、笑顔で知佳を招じ入れる。
「知佳、顔色が少し悪いわよ。大丈夫?」
「……大丈夫よ。ちょっと疲れただけ」
母の声は、昔と変わらない温もりを感じさせる。その温度に触れた途端、知佳はようやく自分がどれほど疲れていたのかを知った。
父も知佳を待ち構えていたようだった。昔から感情を表現するのが上手な人ではなかったが、その父から喜びの表情が見て取れる。
「痩せたんじゃないのか? お母さんがお前の好きなものを作ったから、たくさん食べていきなさい」
昼食を三人で囲んだ。今年は庭に咲く桜の花びらで、さくらゼリーを作ってみるのだと母が話した。花見には裕磨さんも一緒に連れてきたらいい、と父も言う。
――両親には心配をかけたくない。疑いに飲まれないように、自分を見失わないようにしなければ。
二人は裕磨との結婚に際して、なんの懸念もなかったわけではない。それを現実にしないためにも、知佳は冷静になってものごとを見つめ直すべきだと考えながら帰路についた。
裕磨が帰宅したのは、夜も九時を過ぎてからだった。
「おかえりなさい、夕食は?」
この時間ならもう済んでいるだろう。そう思いながら、知佳は何気ない調子で尋ねた。
「うん、もう済ませたから」
上着を脱ぐ裕磨の声は、いつもより低かった。
「そうよね。今日はイシグロ設計の方たちと一緒だったんですものね」
それは裕磨への問いかけというより、確信に近い言葉だった。
「シャワー、浴びてくるよ」
言葉少なに裕磨はバスルームに消えた。
また……あの香りがする。そう思ったとき、ハンガーにかけた裕磨の上着のポケットが震えた。次の瞬間、スマホがポケットから控えめな音を立てて絨毯の上に落ちた。
見るつもりはなかった。だが、拾おうと身を屈めた知佳の視界に、通知の一行が、まるでこちらへ語りかけるように浮かび上がった。
『今日のカフェのディナーセット、美味しかった! またあの席、予約しておきますね』
差出人は――晴美。
手が、画面の手前で静止した。心臓がひとつ、強く打ち、すべての音が一枚膜を隔てた向こう側に行ったように、遠くなる。
拾おうと手を伸ばしたけれど、床にあるスマホがやけに遠くに感じられた。呼吸が浅くなっていることに気づいて、一度だけ静かに息を整える。
上着に残る裕磨の体温が遅れて伝わってきた。
知佳はスマホを持ち上げた。ほんの一瞬だけ、画面を見つめる。
そして――
画面をそっと伏せ、また上着のポケットに忍ばせた。
目覚ましが鳴るより早く、知佳は目を開けていた。眠った感覚がない。時間だけが経過して、意識がそのまま朝に引きずり出されたようだった。やけに薄い光がカーテン越しに差し込んでくる。
隣のベッドはすでに空だ。裕磨はいつも通り、早く家を出たのだろう。
――いや、いつも通りなのかどうか、もう判断がつかない。
昨夜のあの通知。思い出すたび、胸の奥が痛む。けれど涙は出なかった。泣くよりも身体のだるさが勝っていた。
鏡に映るその顔は冴えず、顔色も悪い。頬は血の気が引き、目の下には薄い影が差している。最近の不調は、疲れや精神的なものだけではない気がしていた。
キッチンに置かれたマグカップに手を伸ばしたところで、視線が止まった。
食器棚、あの四角い箱。扉は閉じられているのに、その奥にあるものの位置まで正確に思い出せる。また頭の中に晴美のメッセージが浮かび上がってくる。
知佳は食器棚から顔を背け、急ぎ足でキッチンを出た。バッグを肩にかけ、玄関へ向かう。とにかく家にはいたくなかった。頭からこのことを追い出したい、なにか別のことに集中したい。
「ええ、大丈夫ですよ。午前の部の空きはあります」
知佳の絵画教室の予約は、休日午後からが常だったが、突然の変更にも庄司先生は快く対応してくれた。
普段はほとんど顔を合わせない他の生徒たちに混じり、夢中で絵筆を動かした。終わりの時間が来て、教室にひとりになってもまだ知佳はカンバスの前にじっと腰を下ろしたままだった。
「どうですか? 今日はとても集中していましたね」
振り返ると、庄司が穏やかな表情でカンバスを眺めていた。知佳は今初めて自分の描いたものを見るような目つきで、それに向き直った。
「先生、人って裏切られたら、どうすればいいんでしょう」
知佳はカンバスに向かって話しかけた。こんなことを言うつもりはなかった。なのに気づけば、言葉が漏れていた。
庄司は少し考えてから、穏やかな声のままで静かに返した。
「答えは描いているうちに見つかるかもしれません……絵は嘘をつきません」
庄司は知佳に理由を問いはしなかった。知佳はそのことに安堵しながら、庄司の言葉を心の中で反芻した。
――絵は嘘をつかない。庄司がなにを思ってそう言ったのか、知佳には分からなかった。でももう一度振り返って言った。
「そう、ですね」




