32 四角い箱
先日の体の不調は、いつまでたっても消えなかった。
疲れが抜けていない――そういう種類のものではない。身体の奥底で、何かがいつもと違うリズムを刻んでいるような、説明のつかない不調。
出勤の支度をしながらも、その感覚は薄れなかった。
化粧台の前に座り、ファンデーションをのせる手がふと止まる。鏡に映る自分の顔は、普段と変わらない。けれど、皮膚の下に潜むかすかな淀みが、ずっと彼女の意識をとらえていた。
――もしかして。
その言葉が胸の内に何度も行き来していた。知佳はゆっくり息を吸った。小さな不安と期待が、知佳の心を揺らしていた。――このままではだめだわ。
午前中の予定を調整し、昼休みに入る前に会社を出た。ビルの外に出ると、早春の風が頬を撫でる。歩きながら、知佳は自分の歩幅がわずかに乱れていることに気づいた。気持ちの問題ではない。身体が、何かを訴えている。
婦人科の待合室は静かで、どこか時間がゆっくり流れていた。
呼ばれるまでの間、スマートフォンを手にしては画面を見ず、ただ指先で縁をなぞっていた。
診察は淡々と進んだ。医師の質問に知佳は正確に答える。検査を終え、結果を待つ数分が、妙に長く感じられた。
「妊娠の可能性はありませんね」
医師の声は穏やかだった。
知佳は短く頷く。その表情は、知らない人が見れば冷静そのものだったろう。だがハンカチを握りしめるその指には、強く力が入っていた。
「最近、強いストレスや疲労はありませんでしたか? ホルモンバランスの乱れが原因ということが結構ありますから」
「……そうかもしれません」
自分でも気づかないうちに、身体が悲鳴を上げていたのだろう。
医師の説明を聞きながら、知佳はようやくその事実を受け入れ始めていた。
病院を出ると、昼下がりの光が街を柔らかく照らしていた。
知佳は胸の奥にわずかな失望を抱えたまま、会社へ戻る道を歩き始めた。
その夜、自宅へ戻った知佳は、コートを着たままバッグも横に放り投げ、ソファに身を投げ出した。
「裕磨さんは……確か、会食だって言ってたかしら」
一人のリビングがやけに広く、静かに感じる。こんな気分の夜はひとりでいたくない。でも、これから誰かと出掛ける気にもなれなかったし、呼べば来てくれる人の顔も思い浮かばなかった。
ふと晴美の顔が頭をよぎる。――あの子なら、私を心配してきてくれるかもしれない。
そう思いつつも「寂しいから、来てくれ」なんて、上司としては口にできない。自嘲気味な笑みを浮かべて、知佳は着替えのために動き出した。
食欲も湧かない。
冷蔵庫を開けてみたが、中を一通り見て、また閉じた。何か暖かいものを飲もう。ミルクティーにたっぷりお砂糖を入れてみようか。
知佳の実家から運んできたお気に入りの食器棚を開く。マホガニーの深い赤褐色の木肌は、照明の光を吸い込みながら鈍く艶めき、古い家具特有の温かさをまとっている。
ティーポットを取り出し、茶葉を用意する。次にカップに手を伸ばしたが、指先からそれは滑り落ちてしまった。重い頭に突き刺さるような音を立てて、カップは割れた。
「ホントに今日はついてないわ」
ティーポットとお揃いのカップはまだ下段にあったはず。知佳はしゃがみ込んで、扉を開けた。
整然と並ぶ食器類の中に、四角い箱が無造作に押し込まれている。見覚えのない箱。――ゴルフの景品か何かかしら。何気なく取り出し、箱の蓋を開けた。
知佳は目に飛び込んできたものを凝視しながら、身動きひとつしなかった。
見覚えのあるものなのに、すぐには現実として受け止められなかった。歪むように視界が乱れ、息が詰まった。
いくつもの考えが頭の中を駆け巡る。見間違いではない。このティーカップを見たのは、ついこの間だ。
紫の……アイリスが描かれたティーカップ。
ではなぜ、それがここに? 私の家に?
手が震え、蓋をうまく閉められない。そのまま崩れるように、知佳は椅子に座った。
落ち着こう。考えようと思えば、いくらでも理由は作れる。同じ展示を見て別々に購入した――それだけのことかもしれない。
晴美が買ったのは、きっとあの日だ。自分も、あの百貨店にいた。
きっとただ、それだけ。
――ただ、それだけのはずなのに。胸の奥に、違和感が残り続ける。考えが一つの方向へ寄りかけて、否定するように首を横に振る。
「……まさか」
声に出すことで否定は確実になるはずだった。なのにその思いは逆に形を持ってしまった気がした。
そんなはずはない。裕磨に限って――そこまで考えて、言葉が途切れた。
“限って”と言い切れる根拠が、自分の中に見当たらないことに気づいてしまったのだ。
静かな部屋に、時計の音だけが響いている。
知佳はテーブルの上の箱から目を離せずにいた。




