31 晴美の部屋
タクシーの揺れは、普段よりも大きく感じられた。
信号で止まるたびに、胸の奥がわずかに上下する。知佳は目を閉じたまま、背もたれに体を預けていた。
「もう少しです」
前の席から晴美の声が落ちてくる。運転手に行き先を伝えるときの調子と同じ、落ち着いた声だった。
やがて車は住宅街に入った。整然と区画された新しい街並み。似たような外観のマンションが並び、その一角でタクシーが止まる。
「ここです」
料金を払い、二人で外に出る。冬の空気が頬に触れて、知佳は小さく息を吐いた。
エントランスを抜け、エレベーターに乗る。鏡に映った自分の顔は、思ったより血色が悪い。隣に立つ晴美は、視線を上げずに階数表示を見ていた。
軽い電子音とともに扉が開く。
「どうぞ」
鍵を開け、晴美が先に入る。知佳は一歩遅れてその後に続いた。
――静かだ。
玄関に入った瞬間、そう感じた。生活音がないというより、音がすべて吸い込まれてしまったような静けさだった。
「お邪魔します」
「どうぞ、散らかってますけど……」
廊下は短く、すぐにリビングへ繋がっている。
「こちらにどうぞ」
ソファを指し示され、知佳は腰を下ろした。背もたれに体を預けると、さっきまでのめまいがほんの少し和らいだ。
「お水、持ってきますね」
晴美がキッチンへ向かう。蛇口から出る水音が、やけに大きく聞こえた。
知佳はぼんやりと室内を見渡す。第一印象は「にぎやか」だった。
きちんと整理はされているものの、とにかく物が多い。長らく読まれていないと思われる雑誌が棚の下段にびっしりと並び、その上段には年季の入ったぬいぐるみがいくつも置かれている。
一番上には写真立てや小さな置物がいくつも並んでいた。雑多な並びの中に、ひとつだけ場にそぐわないものがあった。
アイリスの花柄のティーカップ。黄色と紫のペアが、中央に並べられていた。本来なら食器棚に収められているはずなのに、まるで“思い出の品”の一つのように、写真立ての横にそっと置かれている。使用感もほとんどない。
――珍しい飾り方ね。――そんなことを考えていると、グラスを二つ手に晴美が戻ってきた。
「お待たせしました」
知佳の視線の先にあるものに晴美も気づいた。わずかにグラス同士が小さく触れて、乾いた音がした。
「ありがとう」
知佳は水を受け取り、ひと口だけ含んだ。冷たさが喉を抜け、吐き気が少し落ち着いた。
「……いいカップね」
ティーカップを捕えたままの知佳の視線。その上での、何気ない一言だった。
晴美の指先が、ほんの少しだけ強くグラスを握る。
「最近買ったんです」
すぐに返事をしたが、その声には若干の硬さが混じっていた。
「そう。アイリス、好きなの?」
「いえ……特別好きというわけでは」
少しだけ言葉に詰まった。が、嘘ではない。でも全てを言う訳にもいかない。
「この間百貨店で、なんとなく目に入って」
曖昧な答えだった。知佳はそれ以上は聞かなかった。ただもう一口、水でのどを潤し、晴美は小さく息を吐いた。
静かな時間が流れる。
その間、晴美はずっとそわそわしていた。何もないはずなのに、観察されているような感覚を拭えない。
――この人は、何も知らない。
分かっている。分かっているのに、少しだけ早くなった鼓動が、なかなか落ち着かない。
「……いい部屋ね」
知佳がぽつりと言った。
「一人で住むには、ちょうどいい広さね」
「ありがとうございます」
――言葉は褒めているのに、その響きはどこか淡々としている。晴美はそう感じたが、それもすべて自分の思い込みかもしれない。
「少し、楽になったわ」
知佳はグラスを置き、息をついた。
「すみません、こんなところで……」
「いいえ、本当に助かったわ」
そう言って微笑む笑顔は、やはり完璧だった。
「最近、こういうことが何度かあって」
ふと、知佳が続けた。
「体調が少し、おかしいの」
晴美は一瞬、息を飲んだ。
「病院には……?」
「まだ。でも――」
言葉を切る。ほんのわずかに視線が落ちた。
「もしかしたら、って思うことはあるの」
そう言う知佳の表情は柔和で、仕事上では見たことがない顔だった。それを見れば、説明されなくても分かってしまう。
晴美の唇が固く結ばれる。
「……そう、なんですね」
それ以上の言葉が出てこない。いや、出すのは危ない気がした。
「もしそうだったら、ちゃんとしないといけないわね」
晴美に向けた言葉というより、自身への確認のように知佳は呟いた。その幸せそうな横顔を見ながら、晴美は必死に平静を保っていた。
胸の奥に、鈍い黒ずんだものが沈んでいく。喉の奥がうまく動かない。
さっきから水を飲んでいるのに、渇きが引かない。
ついさっきまでは曖昧だったものが、はっきりと輪郭を持ってしまう。目の前にいるのは、ただの上司ではない。裕磨の、妻だ。
沈黙が落ちた。
外を走る車の音が、遠くに聞こえた。
「……もう少し休んだら、戻れると思うわ」
知佳が静かに言う。
「はい。無理はなさらないでください」
そう返しながら、晴美は棚の上の二つのカップを見た。だが、晴美はすぐに視線を逸らした。
それ以上、見ていられなかった。見ていると、おかしくなりそうだった。




