29 別の未来
親族の集まりは、形式ばっているわけではないのに、どこか息苦しさがあった。
広いリビングに、親戚や知り合いたちがゆったりと集まっている。会話は穏やかで、ときおり笑い声が響く。いつものような落ち着いた空気が流れている。
知佳も、その中に自然に溶け込んでいた。
「知佳さん、最近どう? 仕事は忙しい?」
「ええ、でも今は落ち着いています」
にこやかに答える。視線も仕草も、いつも通り隙が無い。
「そういえば――」
ふと、別の女性が口を挟んだ。
「ご結婚されてもう二年目だったかしら。お子さんは、まだ?」
口調は軽く悪気もない、ただの世間話の延長のつもりだろう。
一瞬だけ、周囲の空気が静かになる。知佳はすぐに微笑んだ。
「まだなんです」
柔らかい声で返す。
「そうなの。でも、そろそろ考えてもいい時期じゃない?」
「そうですね」
微笑は崩さず、否定もしない。この質問はここで何度目だろう。
「仕事も落ち着いてるなら、タイミングとしてはいいと思うわ」
「ええ……そうかもしれません」
頷きながら、グラスに指を添える。それ以上は続かなかった。話題は自然に別の方向へ流れていく。知佳も、同じように会話に戻った。
――ただ。
(子ども、か)
頭のどこかに、その三文字が残る。
必要に迫られて考えたことはなかった。けれど、今の生活の延長にあるものとして、それは確かに無視できない存在と言える。
裕磨と自分の子ども。ぼんやりと輪郭をなぞるように、考える。女の子だと父親に似るという。子供と三人で公園に行ったり、誕生日をお祝いしたり……悪くない、と思った。
*
数日後の昼休み。
晴美が秘書課のデスクで資料をまとめていると、背後から声がかかった。
「米沢さん」
振り返ると、知佳が立っていた。
「はい」
「この前の案件、きれいにまとまってたわ。ありがとう」
「いえ……」
晴美は小さく首を振る。
「まだ、詰めが甘いところもあったので」
「それでも、あの形まで持っていけたら十分よ」
知佳の評価はいつも的確で、それをちゃんと言葉にして伝えてくれる。以前なら、嬉しさで顔が緩むのを隠せなかっただろう。でも今は――胸にチクリと小さな痛みが走る。
「……ありがとうございます」
晴美はおずおずと視線を合わせた。その瞬間、胸がひとつ、大きく鼓動を打った。
――私はこの人の夫と、逢瀬を重ねている。
頭では分かっている。分かっているのに、こうして目の前に立っている知佳に、何事もなかったように応じている自分が少し恐ろしい。
それでも、表情は崩さない。――顔に出してはいけない。いつも通りに笑うの。
「今度、少し時間ある?」
知佳が続ける。
「業務の話だけじゃなくて、少し共有したいことがあって」
「……はい、大丈夫です」
距離を置くべきかもしれない。でも理由もないのに断るのも不自然だ。咄嗟には、自然に聞こえる理由が思いつかなかった。
「じゃあ、また声かけるわね」
「はい」
知佳はそれだけ言って、その場を離れた。晴美はしばらく動けなかった。
視線を落とした先にある指先に、わずかに力が入った。
(……大丈夫)
心の中で、小さく言う。仕事は仕事だ。
*
その日の夜。
スマートフォンの画面に、短いメッセージが表示された。
『明日、会える?』
送り主を確かめるまでもない。裕磨からだった。
晴美は少しだけ画面を見つめる。考える時間は、長くなかった。
『大丈夫です』
すぐに送信した。
それだけのやり取りで理由も、前置きもない。もうお互いに分かっていた。
*
約束の場所は、前と同じ店だった。ここが選びやすい場所になっていた。
「お疲れ」
「お疲れさまです」
同僚と交わし合う言葉と同じ。けれど、その意味は少し違う。
会話は多くなかった。無理に埋める必要がないという空気が、もう二人には定着していた。沈黙があっても、それは自然なことで、心が乱れることはない。
食事を終え、店を出る。駅へは向かわず、別の方向へと進む。
見慣れた看板の前で、どちらも何も言わなかった。足だけがそのまま中へ入っていった。
*
仕事の帰り道。知佳は一人で歩いていた。夜風が少し冷たく感じて、思わず歩く速度が上がってしまう。
ふと、足が止まった。ショーウィンドウに映る自分の姿が、視界の隅に入り込んだのだ。
整った服装、乱れのない髪。いつも通りの自分。そのまま、視線を少しだけ下げ、腹部に手を当てる。
(……子ども)
声にはならなかったが、唇がそう動いた。現実的に考えれば、そろそろ出来てもおかしくない。時期としても、悪くない。
裕磨も、きっと喜んでくれるだろう。裕磨の顔を思い浮かべようとして、少し時間がかかった。
知佳は手を下ろし、また歩き出した。




