28 また今度
その“また今度”は、思ったより早く来た。きっかけは、特別なものではなかった。
「設計部の資料、最終版いただけますか」
秘書課からの内線。相手の声は事務的で用件も簡潔だった。
「今、持っていきます」
裕磨はそう答えて受話器を置く。データで送れば済む内容だが、最終確認の紙が必要だと言われれば、それも自然な理由になる。さほど手間はかからない。だが、自分で持っていくという選択には、ほんの少し行き過ぎ感がある。
その余分を、裕磨は無意識に考えないようにした。
資料を持っていくと、晴美が対応に出た。
「ありがとうございます」
いつも通りのやり取り。それで終わるはずだった。だが、書類を受け取ったあと、晴美は少しだけ間を置いた。
「……今日、このあと予定ありますか」
顔は上げないまま、静かに言う。不自然さはない。たが、業務の範囲でもない。
裕磨は一瞬だけ考えた。
「特にないよ」
答えは軽かった。
「じゃあ……」
そこで言葉を切って、一度だけ裕磨を見る。
「あの、前に言ってたお礼……今日でもいいですか」
“また今度”を、回収する言い方だった。裕磨はわずかに視線を外した。迷っているわけではない。ただ即答するのを躊躇った。
「いいよ」
短く答える。晴美は先に席へ戻り、裕磨はその場を離れた。
*
会社を出たのは、定時を少し過ぎたころだった。
並んで歩き、駅とは逆の方向へ。どちらからともなく、自然とそうなっていた。
前と違って理由ははっきりしているが、晴美は沈黙を恐れるようにしゃべり続けている。肩に力が入っているように見えた。
角を曲がったところにある、小さな店に入る。落ち着いた照明で、仕事帰りの客が静かに席を埋めている。
「お疲れさまです」
「お疲れ」
グラスを合わせ、会話はまた自然に始まった。
仕事の話や部署の話、どれも無難で当たり障りがない。けれど、少しずつ会話の間が長くなっていった。
「……奥様って」
ふと晴美の口調が変わった。グラスに視線を落としたままで続ける。
「すごい人ですよね」
裕磨はすぐに答える。
「そうだね」
「羨ましいです」
「え?」
「あんな完璧な人がパートナーなんて」
一度、言葉を止める。
「……ああいうの、チーフにとっては普通なんだと思いますけど」
そこまで言って視線を上げると、真っすぐ裕磨を見た。
裕磨はグラスに手をかける。ただ笑って受け流し、言わない選択もできた。
「……ずっと合わせる側だと、少し大変かもしれない」
だが、口にした。
知佳に対する強い否定ではない。自分でも意識していなかった気持ちが、口を突いて出た。
その瞬間、空気が変わった。
晴美は何も言わなかった。ただ、視線を逸らさず裕磨を見ている。
――この人は、あの人の夫だ。
頭では、ずっと分かっていた。分かっているのに、こうして向かい合っている。その事実は非現実的で、本当に自分の身に起こっている出来事とは感じられなかった。――この浮遊感は……いえ、お酒のせいかもしれない。
「……そうですよね」
小さく頷く。ここへ来るまでの緊張が、足元から溶け出していく。
食事は静かに進んだが、もう無理に会話を増やそうとはしなかった。
*
店を出る。少しだけ冷たい夜の空気が、火照った頬に心地よかった。
行きよりも近い距離で歩き、駅に向かう。時折肩が触れるが、お互いに避けようとはしない。
改札の手前で、二人の足が止まった。
「あの、ここで」
晴美が言う。声は落ち着いているのに、バッグを持つ指先がわずかに震えていた。
「うん」
裕磨も頷く。帰るなら、ここで終わりだ。終わらせるべきなのも分かっている。
――なのに。沈黙が落ちた瞬間、裕磨は手を伸ばした。
一瞬だけ、ためらいが目の端を掠めた。知佳の顔も浮かぶ。晴美の立場も分かっている。
だが、触れた瞬間に言い訳は消えた。それを分かった上で、手を伸ばした。指先は止まらず、晴美の手首に触れる。軽くだ、逃げられるように。
――晴美が手を振りほどけば、それまでだ。だが、晴美はそうしなかった。
二人の視線が絡み合う。晴美も目を離さない。目の前にいるのが誰の夫なのか、分かっていた。それでも、目を逸らさなかった。
晴美の瞳には、迷いと期待が入り混じっていた。裕磨は、その期待を捉えた瞬間、胸の奥で何かが加速するのを感じた。
自分に向けられた好意だと分かってしまえば、ここで留まる理由は弱くなる。
――ここまで来たら、断る方が不自然だろ。
指に力が入る。ほんの少しだけ、拒めない程度に。
晴美の喉がかすかに上下する。拒絶のそれではない。裕磨はその反応に、小さく息を吐いた。
距離が、ゆっくりと縮まる。触れている手がそのまま残った。
二人は駅に背を向けて、また歩き出した。
帰る場所とは、逆の方へ。




