27 保留
「あの……帰る前に、少しだけ」
思ったよりもまっすぐな声だった。ちょっと意外だった。――こんな誘い方をするタイプには見えなかったな。
晴美はすぐに「あ、いえ、その……」と視線を落とした。
「この前も助けていただいたのに、ちゃんとお礼できてなくて……」
言い訳のように続ける声は、さっきより少しだけ弱い。無理をしているのがわかる。
――ここで断れば、それで終わる話だ。裕磨はそう思った。
今日だって、知佳は友人と食事に行くと言っていた。時間はあるし、行こうと思えば行ける。どうするかの判断は簡単だが、だからこそ――
「……気にしなくていいよ」
口から出たのは、当たり障りのない言葉だった。
「本当にちょっと見ただけだし」
「あ……」
晴美が顔を上げる。ほんのわずかにほっとしたような、それでいて拍子抜けしたような表情。そのどちらもが混ざった顔だった。
「でも……」
晴美は言いかけて、やめた。裕磨はその続きを待たなかった。
「また今度、タイミングが合えば」
自分でも曖昧だと思う言い方だった。約束ではない。はっきり断ってもいない。ただ、先送りにしただけの言葉。
「……はい」
晴美は小さく頷いた。それ以上は何も言わなかった。
沈黙が落ちる。さっきまで仕事の話をしていた空気とは、少しだけ温度が違った。
「じゃあ、お疲れさまでした」
「うん、お疲れ」
それぞれが逆の方向へ歩き出す。振り返ることもない。ただ、数歩進んだところで、裕磨はほんの一瞬だけ足を止めた。
――行こうと思えば、行けたかな。
そう思う自分にどこか違和感を覚える。行かなかったことに悔いはない。けれど、何もなかったはずの出来事が、やけにくっきりとした輪郭を持って心に残っている。
喉につかえる小さな棘のように。飲み込めないほどでもないのに、なくなりもしない。
裕磨は首を振って、その感覚を追い払った。こんなことで足を止める必要はない。それはおよそ自分らしくない。
エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。
扉が閉まる直前、気づけばポケットのスマートフォンに触れていた。
通知は来ていない。当然だ、と自分で思う。知佳は今頃、店に着いている頃だろう。
既読のついたメッセージを思い出す。
『今日は遅くなると思うから、先に休んでいて』
いつも通りの連絡で、何もおかしくない。何も問題はない。
エレベーターが動き出す。わずかな浮遊感が裕磨の体を覆った。その一瞬だけ、裕磨は目を閉じた。
静かだ、と思った。
会場のざわめきも、さっきのやり取りも、すべて切り離されたみたいに。
ただ、その静けさが不思議と心地よかった。理由は自分でもよく分からない。
階に到着する音が鳴った。目を開け、何も考えていない表情に戻っていた。
扉が開く。
裕磨はそのまま外に出た。
*
帰り道、晴美は駅前の人混みを抜けながら、さっきのやり取りを何度も思い返していた。
つい誘ってしまった……自分から。それは事実だった。
けれど――
「……断られた、わけじゃないよね」
小さく呟く。はっきり断られたわけではない。でも、いつかを約束したわけでもない。曖昧なまま、宙に浮いた言葉。むしろ、あれでよかったんだと、少しだけほっとしている。
改札を抜ける直前、ガラスに映った自分の顔が目に入る。少しだけ上気している。すぐに視線を逸らした。
「……仕事の、お礼」
そう言い聞かせるように、小さく呟く。それ以上の意味はない。あるはずがない。
電車がホームに滑り込んでくる。風が髪を揺らしたその一瞬、胸の奥がざわつく。さっきの“また今度”が、耳元で繰り返された。
約束ではない言葉。でも、可能性が残っている言葉。晴美は、その曖昧さに、わずかに救われた気がした。




