26 婿の顔
会場のシャンデリアが光を散らし、石黒グループの役員たちが穏やかに談笑している。会場の空気は、毎年変わらない。石黒グループの役員たち、取引先、家族ぐるみの付き合いの人々。
裕磨と出会ったのも、この石黒グループのレセプションでだった、と知佳は思い返していた。
知佳と裕磨は、並んで立つだけで「理想的な夫婦」として周囲に認識された。二人ともそれをちゃんとわかっていて、意識していた。
「裕磨くん、来期のプロジェクトも期待しているよ。婿養子とは思えないほど、よくやっている」
裕磨は、にこやかに頭を下げた。
「ありがとうございます。身に余るお言葉です」
声も表情も完璧な返答。知佳も横で微笑んだ。
ただ──知佳の目には、ほんの一瞬だけ、裕磨のまばたきがもつれたように見えた。寝不足のせいかもしれないし、気のせいかもしれない。
知佳は自然に一歩前へ出た。
「父も、あなたの働きぶりをいつも褒めているわ」
それは“妻としての正しいフォロー”。裕磨も「ありがとう」と柔らかく返した。
別部署の若い社員たちが、裕磨に気軽に声をかけてきた。
「先輩、今年の設計案、すごかったです!」
その瞬間だけ、裕磨の肩がふっと軽くなった。
彼らは裕磨を「石黒家の婿」としてではなく、「イシグロ設計上がりの先輩」として見ているのだ。
”後輩に慕われている裕磨”を見て、知佳は微笑ましく思った。彼らと一緒の夫は、生き生きとして見えたから。
一方の裕磨は、隣に立つ知佳を見た。姿勢も、言葉も、笑みも隙がない。
――どこまで、この人に合わせられるだろう。
エレベーターへ向かう廊下を並んで歩きながら、知佳が「お疲れさま」と声を掛けた。裕磨も「うん、お疲れ」と返す。裕磨の笑顔はいつもと変わらなかった。
エレベーターの扉が閉まる。密室になった途端、会場のざわめきが遠のいた。
「今日も、きちんとしてたわね」
知佳は軽く言った。褒め言葉のつもりだった。
「そう?」
裕磨は壁にもたれず、まっすぐ立ったまま答える。
「ええ。ああいう場では、あれ以外はないわ」
間違いのない評価。否定の余地もない。だが、数秒の沈黙があった。
「……そっか」
裕磨は短く返す。その声は穏やかだったが、わずかに声が低い。
エレベーターが一階に着いた。扉が開く直前、裕磨がふと息を吐いた。
ごく小さな、それでいて長い呼吸。
知佳は先を歩いていた。
*
ちょうど社に戻ってきた時だった。
社長の供をして、大きな取引先を訪問した帰り。そのまま自宅に直帰してもよかったが、裕磨はなんとなく会社に戻ってきてしまった。
もうオフィスには誰もいなかった。自分も書類だけ置いて出ようと思ったが、少しだけのどを潤したい。
自分の部署の隅にある飲料ディスペンサーで、温かいコーヒーを淹れていると、ドアから中を覗く晴美が見えた。
中を見回し、明らかに誰かを探している様子だった。裕磨に気づくと、わずかに手をあげる。
「あっ、よかった。もう退勤されたかと……」
「大丈夫。どうかした?」
コーヒーを持って近づくと、晴美は少し迷うように視線を落とす。
「仕事のことなんですけど……」
そう前置きしてから、言葉を続けた。
「誰に聞くか、迷ってしまって」
裕磨も一瞬だけ晴美を見た。
――この時間まで仕事をしていたのか? それとも……。
「いいよ、簡単なことなら」
自分のデスクに座り、手を出して書類を受け取った。前回と同じようにアドバイスをしたが、これは裕磨でなくとも済む内容だ。だがあえてそれを口には出さなかった。
「ほんとにありがとうございました。終業時間も過ぎているのに……」
「出先から帰ってきたところで、タイミングが良かったよ。気にしないで」
裕磨が書類ケースを手に立ち上がると、晴美は慌てて呼び止めた。
「あの……帰る前に、少しだけ」
少し、間があった。
裕磨はコーヒーをゆっくりと机に置いた。




