25 交差
「知佳さん、これ……確認いただけますか」
晴美は書類を差し出しながら、わずかに身を乗り出した。が、距離が近い。その距離に、知佳は一瞬だけ意識を引かれた。
「ここ、少し自信がなくて……知佳さんなら、どう判断されるのか聞きたくて」
言葉づかいは丁寧で、内容も業務上とくに不自然な点はない。
だが――
「知佳さんならどうするか」と知りたがる気配が、ますます強まっていく。振り向かなくても、視線がこちらに向けられているのがはっきりわかるほどだ。
「……ここはこうね。前提の置き方が違うわ」
「あ、なるほど……!」
ぱっと表情が明るくなった。その反応は素直で、嫌味はなかった。
「やっぱりすごいです。私、全然そこまで考えられてなくて……」
尊敬と羨望。そのどちらも隠していない。だが、その視線はどこか「評価を求める色」を含んでいた。
自分を理想像にしているのだろうと、知佳は思った。それが業務にプラスとして働くなら、そのままにしておいても問題はないだろう。
「あ、それとこれ……」
自分のデスクから持ってきたのは、ご当地のお土産物だ。
「あら……」
「知佳さんにはちょっと子供っぽかったでしょうか?」
晴美の感情そのままに、眉尻が下がる。
「そんなことないわ、ありがとう」
知佳は包みを受け取り、そっと開けて中の小さな包みを覗き込んだ。また晴美の視線を感じた。背後から覗き込まれているような近さに、わずかに息が詰まった。
中身を確認した上で、にっこりと笑みを返す。表情に冷たさはないが、距離は明確に保たれていた。
「よかった……。実家の駅で見つけたんです」
一度言葉を切ってから、少しだけ視線を泳がせる。
「見たとき、すぐに……知佳さんが浮かんで」
晴美の声は少しだけ震えていた。誇らしさと不安が混ざったような、複雑な響きだ。知佳はその混じり具合を見逃さず、短く頷いた。
「可愛いわね。ありがとう、大切にするわ」
晴美の表情がふっと柔らかくなった。普段の仕事ぶりとは違う、素の表情が一瞬だけ覗く。知佳はそれを上司として淡々と受け止めた。私情は挟まない。
「ところで、この件は先方の条件が変わる可能性があるから、代替案を二つ用意しておいて。締切は来週の月曜でいいわ」
「はい、わかりました。すぐ取りかかります」
晴美は深く頭を下げ、書類を抱えて席へ戻ろうとした。だが、立ち去る直前にもう一度振り返る。視線がほんの一瞬――だが、わずかに長く、知佳の左手の結婚指輪に触れた。
その視線を知佳は見逃さなかった。だが表情は変えない。指輪に込められたものを言葉にするつもりはなかった。職場の空気は仕事で満たされるべきだと、知佳は思っていた。
「何かあれば、いつでも相談して」
「はい。本当に、ありがとうございます」
晴美は小さく笑って席に戻った。その背中には、どこかぎこちなさが残る。知佳はそれを見送りながら、机の上の資料に視線を戻した。
――仕事は進む。感情は脇に置かれる。だが、胸の奥に小さな違和感が残るのを、知佳は否定しなかった。
*
裕磨が石黒グループの子会社、イシグロ設計から石黒建設に転籍になって、もう一年になろうとしていた。本社のやり方を必死に吸収しながら、彼は誰よりも早く次の席を見据えていた。
力関係を慎重に見極めながら、人間関係に余計な感情を招かぬよう、いつも穏やかで感じのいい振る舞いを崩さなかった。その場ごとに求められている“顔”を外したことは、一度もない。
――俺の立場に嫉妬するやつもいるだろうからな。
それはどの部署に対しても気を使っていた。
「すみません、この資料……イシグロ設計の方に確認したいんですけど」
晴美はドアの近くにいた裕磨に、少し躊躇いながら声をかけた。
「ああ、それなら俺で分かるかもしれません」
「えっ……あ、ありがとうございます」
緊張した様子で、晴美は資料を差し出した。裕磨はざっと目を通し、すぐに口を開いた。
「ここ、こう直したほうが通りやすいと思います」
「……あ、そうなんですね」
裕磨の指摘は的確で、説明も簡潔だった。
「助かりました……!」
晴美はほっとしたように肩の力を抜いた。
「いえ。こういうのって、最初は分かりづらいですよね。自分も最初、同じところで引っかかりました」
柔らかく微笑みながら、裕磨は書類を返した。
それから数日後。
「すみません、また少しだけいいですか」
声をかけてきたのは、先日の女性――米沢晴美だった。
「この前の件とは別なんですけど……ちょっと迷ってしまって」
差し出されたのは、さほど難しくもない案件だった。他の誰に聞いても、答えは出る。――それでも、ここに来たんだな。
「どこが引っかかってます?」
「あの……この数字の置き方でいいのか自信がなくて」
裕磨は一度だけ書類に目を落とし、すぐに答えた。
「問題ないと思います。ただ――」
少しだけ言葉を足す。
「こっちの書き方にすると、見る側は理解しやすいかもしれません」
「……あ、ほんとだ」
晴美の表情がぱっと明るくなる。
「ありがとうございます。やっぱり、聞いてよかったです」
その“やっぱり”には、わずかな確信が混ざっていた。
裕磨は笑って頷き、そのまま仕事へ戻った。
晴美は返された資料を胸に抱えたまま、その背中を少しだけ見送っていた。




