22 業務の延長
カフェでの打ち合わせから、数日後。
夕方、知佳のスマートフォンにメッセージが届いた。
『この前の件、もし差し支えなければですが』
簡潔な書き出しだ。
『計画地の周辺、一度歩いてみませんか。図面だけだと見えないものもあるので』
業務としては妥当な提案だった。だが――
――わざわざ、二人で? 秘書課の知佳と?
知佳は画面を見たまま、しばらく考えた。企画部を通せばいい。担当をつければ済む話だ。そう思いながらも、返信の文字を打つ。
『日程を調整しましょう』
送信したあとで、ほんのわずかに指が止まった。――合理的な判断よ。そう思うのに、どこか言い訳じみた感覚が拭えない。
当日指定されたのは、再開発予定地の最寄り駅だった。
駅前はそれなりに人通りがあるが、一本裏に入ると急に静かになる。その静けさにふと意識がとらわれた。
――こんな場所、前にも……そう考えかけて、やめた。ただの気のせいだ。
「お待たせしました」
先に来ていた林が軽く手を上げる。
「時間通りよ」
知佳は腕時計を一瞥してから、視線を戻した。
「では、少し歩きましょうか」
仕事の話はいつも通り正確に進む。用途地域、動線、周辺の導線計画。言葉は実務的で、無駄がない。
だが横に並んで歩く距離感が、微妙に近い。
「ここ、夜はかなり暗くなりますね」
「確かに街灯が少ないわ」
「はい。だから、導線の取り方を間違えると――」
説明は続いた。
だが、ふとした瞬間に音が抜ける。会話の“隙間”に別の何かが入り込むような感覚。
そして時折、言葉が途切れる。その沈黙を、どちらも急いで埋めようとはしない。前回のカフェでもそうだった。
――悪くない。
そして今回も知佳は、その自然な空気を気に入っている自分に気がづいた。
一通り歩き終える頃には、空はほんのりと暮れ始めていた。
「今日はこのくらいで十分かと」
「そうね」
駅へ戻る途中、ふと歩く速度がゆっくりになった。
そのとき。
「あの、この先に」
林が少しだけ言い淀んだ。
「現地を見るとき、よく寄る店があるんです。もしよければ」
一瞬だけ間を置く。
「感想、聞かせてもらえませんか」
仕事の延長として自然に収まる言い回しだった。けれど、それが“食事”であることは明白だった。
知佳は足を止め、ほんの一瞬だけ考える。断る理由なんていくらでもある。
だが――
「……いいわ」
反射的に視線を外してから、そう答えた。
案内されたのは、駅から少し外れた小さな店だった。外観は控えめだが、内装は落ち着いている。スタッフも愛想はいいが、それ以上でも以下でもない。
「こういう店、よく知ってるの?」
「仕事で歩いてると、地元の店に入りたくなるんです」
林は笑みを見せながら席に着く。会話はまた仕事から始まるが、さっきよりも内容は軽い。料理が運ばれてくると、仕事の話はそこで途切れた。
一杯目のグラスが空くころ、林はぽつりとこぼした。
「休みの日って、何してるんですか?」
「唐突ね」
「すみません。ちょっと気になって」
知佳はグラスを指先で回しながら、少しだけ考えた。
「絵を描くけど、それ以外は勉強してるかしら。新しいことをどんどん吸収しないと、秘書課のチーフは務まらないから」
「……休まないんですね」
わずかに間があった。
「でも、そういう人の方が――」
言いかけて、林は言葉を切った。
「いえ、すみません」
「休む必要がないの」
林のためらいを見て知佳は返す。だが、そのあとでほんの少しだけ視線が揺れる。
「それに……何もしない時間は、落ち着かなくて」
自分で言ってから、わずかに驚いた。こんなことを誰かに話したのは、いつ以来だろう。
――どうして、この人に。
林はその知佳をじっと見つめていた。
会計のとき、今度は林が先に伝票を取った。
「ここは自分が」
「業務の延長でしょう?」
前回と同じ言葉を繰り返す。
「今日は“現地確認のついで”ですから」
ほんのわずかに、言葉を選んだような間があった。そこに意図がある。
知佳は一瞬だけ彼を見て――
「……そういうことにしておくわ」
そう返した。
店を出ると夜の空気は少し冷えていた。駅までの短い道を、また並んで歩く。
「今日はありがとうございました」
「こちらこそ。参考になったわ」
立ち止まり、視線が合った。
少しだけ、今までとは違う空気が二人の間を通り抜けていった。
「……また、現地を見るときは声をかけます」
林がそう言う。知佳は、その意図を理解したうえで返した。
「ええ。都合が合えば」
だが林は背を向けようとしない。なら自分が、と知佳が一歩足を引いたときだった。
「……すみません。自分でも何を言ってるのか分からないんですけど」
林は少しだけ視線を逸らしたあと、真っすぐ知佳を見て言った。
「石黒さんと、仕事だけじゃなくて……もう少し話してみたいと思ってます」
“好き”とは言わない。だが、林はそれを雰囲気として全身に纏っている。
「……それは、どういう意味?」
「そのままの意味です」
――意味は分かる、分かるけど……私に決めさせたいの?
「ちょっと、ずるいわね」
知佳は笑った。それは仕事用ではない笑顔だった。
その笑みを見た林は、ほんのわずかに目を細めた。
その瞬間、胸の奥が小さく痛んだ。
嬉しいはずなのに。




