21 偶然
数日後、知佳は社内で回ってきた資料に目を通していた。
都市開発の関連案件。子会社のイシグロ設計が関わっているプロジェクトだ。担当者の欄に、見覚えのある名前があった。
――林裕磨。
タブレットをタップする指が、ほんのわずかに止まる。
偶然にしては出来すぎている気がした。……でも、そう感じること自体が不自然なのかもしれない。だが、書類上は特におかしなところはなかった。知佳はそのまま資料を閉じた。
「この案件、一度、先方とうちの企画部で打ち合わせを設定して」
そう指示を出した数日後――会議室に現れたのは、やはりあの青年だった。
「またお会いできましたね。系列会社とはいえ……これ、偶然ってことでいいですか?」
「どうかしら。そういうことにしておきましょうか」
「助かります。じゃないと、ちょっと頑張りすぎた人、みたいになるので」
さらっと認める。知佳はまたしても無意識に口角が上がった。
「……頑張ったの?」
「はい。もう一度話したかったので」
あまりにも真っ直ぐで、知佳は一瞬だけ言葉に詰まった。
「理由を聞いても?」
「うまく言えないんですけど」
裕磨は少し考えてから続ける。
「あの時、ちゃんと“会話”ができた気がしたんです」
知佳の表情にふと興味が宿った。
「他の人とは違うと?」
「違う、というか……対等に話してもらえた、というか」
その言葉は知佳にとって無視できない。
「あっ、失礼でしたか」
「いえ……どうかしらね」
「良かった。対等なんて、ずうずうしいかと思ったので」
会議は滞りなく進行した。
林が作った”偶然”にしても、基礎調査は完璧で、資料の出来も申し分なかった。
会議後、形式的な挨拶が交わされ、一人、また一人と会議室から出て行く。残ったのは知佳だけだ。忘れ物のチェックを終え、スクリーンの電源を切る。
最後に照明のスイッチに手を伸ばしたとき、ドアが開いた。
「あら、どうしました?」
「あの、ずうずうしいついでに……連絡先の交換なんてしてもらえませんか?」
ドアノブを握る林の手には緊張が見られる。知佳は、いたずら心がわずかに湧き上がるのを感じた。
「社内端末に秘書課のアドレスがあるから、用件はそこへお願いします」
「あっ、いや……」
明らかに林は狼狽えている。
「フッ」
知佳から小さな声が漏れた。その笑みを隠そうともしないで、知佳は自分のスマートフォンを差し出した。
二人のスマートフォンが軽く触れ合い、一瞬だけ、別の記憶が重なりかけて、消えた。やがて短い振動とともに交換完了の通知が現れた。
「はあ、嫌がられたらどうしようかと思ったけど、戻って来てよかった」
「嫌がられるかも、って思ったのね」
「ええ。でも……いける気がしたんです」
「そう思った理由は?」
「……笑ってくれたからです」
静かだが、確固たる核心。その証拠に知佳はそれを否定できなかった。
会議から数日後。
知佳は業務用端末を閉じたあと、私用のスマートフォンを手に取った。
連絡先の一覧をスクロールする指が、一度だけ止まる。
――林裕磨。
数秒、画面を見たまま動かない。
やがて、小さく息をついた。
業務連絡なら秘書課を通せばいい。個別に連絡する理由は、本来ない。
それでも、知佳は迷った末に裕磨へ連絡した。
『この前の案件、少し確認したいことがあるのだけど』
『もちろんです』
指定したのは会社から少し離れたカフェだった。業務の延長と言えなくもないが、会議室でやる内容ではない。
先に来ていたのは裕磨の方だった。それも予想通りだった。
「すみません、お時間をいただいて」
「構わないわ。仕事だもの」
注文を済ませても、すぐには本題に入らない。
短い沈黙。その沈黙に込められた意味を感じ取る。林はそれを破らなかった。
――踏み込んでこない。その距離感が、かえって知佳の居心地をぐらつかせる。
「……確認したいことって、何ですか?」
ようやく、林が口を開く。知佳は一呼吸置いてから答えた。
「特に、具体的な資料の話じゃないの」
「……はい」
「この前の案件、あなたがどこまで見据えているのか、聞いてみたかっただけ」
それだけでもないが、嘘ではない。でも本当の理由なんて、自分でも分からなかった。
裕磨は一瞬だけ視線を落とし、すぐに戻した。
「さほど先までは見えていないと。でも――」
言葉を選ぶ。
「見えてる“つもり”で進めるのは危ないと思ってます」
――ちょうどいい回答ね。
理解しているふりはしない。自分の現状も把握している。ただ、そう判断した自分に、わずかな引っかかりが残った。
「……そう」
それだけ返す。それ以上の評価は与えない。だが、会話は続いた。気づけば仕事の話は途切れていた。
他愛のない会話が、ぽつりぽつりと続く。無理に広げることはせず、気づけば自然体で話せているのが、なんだか心地よく感じられる。
「石黒さんって、こういう場所来るんですね」
「どういう意味?」
「こういう……チェーン店じゃなく、もっと、ちゃんとした店ばかりかと思ってました」
「そういう店は、仕事で十分よ」
間を置いて、知佳はわずかに笑みを添えた。
「こういう場所のほうが、肩ひじ張らなくて楽だわ」
――余計なことを言ったかしら。
知佳のささやかな後悔にも、林は深く追及してこなかった。
「分かります」
笑顔で、ただそれだけ。それ以上踏み込んでこないことに、わずかな物足りなさを覚えている自分に少し遅れて気づいた。
会計のタイミングで、知佳が先に立った。
「ここは私が」
「いえ、それは」
「業務の延長でしょう?」
知佳は一歩も引かない。林は苦笑して、財布をしまった。
「じゃあ……次は、自分が出します」
その言い方に、知佳はふたたび忍び笑いが漏れそうになる。
――“次”を前提にしている。だが、それを咎める気にはならなかった。
店を出て、少しだけ並んで歩いた。
「今日はありがとうございました」
「ええ」
立ち止まり、視線が合う。
知佳は、ほんの一瞬だけ迷い――
「……また、何かあれば連絡するわ」
その言葉は、ふと口をついて出た。まるで、ずっと前からそうなると決まっていたかのように。




