2 難儀な人
石黒家の朝は、静かだ。
広いダイニングに三人座っているのに、会話はほとんどない。
父は新聞を広げてはいるが、見ているのはタブレットの画面だ。
「これじゃあマーケティングの意味がないだろう」と独り言ちのように言いながら、スマホも取り出す。若い頃はスポーツ万能でモテたらしいが、今は髪に白いものが増え、難しい顔をしてばかりいた。
母はコーヒーカップを片手に、スマホを忙しなくタップしている。
「おい、コーヒーのおかわりをくれ」
母の方を見もせずにカップを差し出す父に、母は小さなため息をついて立ち上がった。
「よいしょ」
「『よいしょ』なんて言うな、年寄りくさい」
サッと母の顔色が変わった。口元が歪み、目には怒りが燃え上がったが、無言で父のコーヒーカップを受け取った。父は入れてもらったコーヒーには律儀に「ありがとう」と礼を言った。毒舌のくせに、これだけは必ず言う。
いつもこうだ。
たまには言い返せばいいのに、と詩歩は思う。
娘の前で喧嘩になるのが嫌なのか、それとももう諦めているのか。
父が出掛けたあとになって、母は文句を言い始めた。
「誰が年寄くさいのよ、私はまだ四十四よ。同世代と比べたって、私は……私は……」
――本人には言わないが、母は華やかな人ではない。
人並みだとは思うが、髪型や服のセンスも悪い。私は幸い、父に似て美人だとよく言われる。母は優しいが、娘の私にさえ劣等感を抱いているように見えることがある。それでも、母が嫌いなわけではなかった。
ぶつぶつと続く文句にイライラして、詩歩は早口で母に言った。
「今日、帰り遅いから」
その声ではじめて詩歩の存在を認識したように、母は振り向いた。
仲が悪い、というより――興味がない。
詩歩は慣れていた。
いつからかは忘れたが、反抗も甘えも無意味だと知っていた。
従順なふりをするのは簡単だ。大きな波風を立てず、聞き流せばいい。
別にどうでもいいのだ。この状況を変えたいとか、家を出たいなどと思ったこともない。
用件を告げた詩歩は洗面台に向かった。
今日もあの夢を見た。
今日は少女のころの夢だった。幸せで、なんでも手に入ると思っていた。
ただその顔は、目の前の鏡に映っている顔ではない。
おかしな気分だわ、あの夢を見るといつも頭が重くなる。自分じゃない顔を持つ『私』の夢。
いつからこんな夢を見るようになったのだろう。
そうだ、多分あの時からだ。
――私が小学校一年生くらいの、遠足の帰り道だったと思う。帰りのバスが信号待ちで止まったときのことだった。
大きな建物の前に人だかりができていた。
建物から出てきた中年の男が、人だかりの中の誰かに卵を投げつけられた。男の黒いスーツに、白と黄色の筋が流れていく。
「人殺し!」
バスの中にいても、はっきりとそう言うのが聞こえた。
信号は青になり、その光景はすぐに通り過ぎてしまった。最前列に座っていた私は、すぐ隣に座っていた教師に尋ねた。
「先生、あの男の人は、人殺しだから卵をぶつけられたの?」
「そうね多分……そういうことをする人もいるわね」
その女性教師は、私が子供だからと言葉を濁すことなくはっきりと答えた。
「人殺しはどうなるの?」
「悪いことをした人は、同じだけ罰を受けるの」
今思えば、あそこは裁判所か何かだったのだろう。
私は子供ながらに、妙に納得した記憶がある。
――同じだけ、罰を受ける。
そういうものなんだと、すとんと落ちた。
たぶん、この出来事の少しあとから、あの夢を見るようになったんだと思う。
田中と出会ったのは、十九の春。
大学の帰り道、駅前で小さな事故があった。
自転車の少年が車と接触し、転倒しただけの軽いもの。
駅前で人通りは多かったが、周囲は遠巻きに様子をうかがうばかりで、誰も動かない。
詩歩も、その一人だった。
関わらないほうが無難、と心内でそう呟き、通り過ぎようとしたときだった。
たった一人、スーツ姿の男が迷いなく少年に駆け寄った。
「大丈夫か、立てそうか?」
少年に手を貸し、歩道の縁石に座らせ、何度も無事を確認している。
ようやっと車から出てきた運転手の女性が、不快な声をあげた。
「わ、私は悪くないわよ。その子が飛び出してきたんだから」
男は振り返った。一瞬、瞳に鋭い光が宿ったように見えたが、すぐに表情を戻し、努めて冷静に返した。
「……まあ、それは警察が決めてくれるんじゃないですか」
救急車が先に到着して、少年を乗せていった。ほどなくパトカーも到着し、周囲のざわめきは徐々に日常へ戻っていく。
詩歩も歩き出した。
男のそばを通りかかった時、ふと呟きが耳に届いた。
「防げなかった……」
詩歩は思わず男に声をかけた。
「別に、あなたのせいじゃないでしょう」
男は振り向いた。
「そうなんだけど、さ」
それが田中俊一との最初の会話だった。
変な人。それが第一印象。
自分のせいでもないことに責任を負い、そんな顔をする。口惜しさと後悔が滲む顔。
理解できない。
「……難儀な性格」
詩歩が言うと、田中はわずかに微笑んだ。
救急車が去っていった道の先を、田中はじっと見つめていた。さっきと変わらない表情で。
――なぜ声をかけたのか自分でも分からない。
男の横顔が、いつまでも詩歩の頭にこびりついて離れなかった。




