1 辻の囁き
その辻を通ると、いつも足が速くなる。
理由は分からない。分からないまま、詩歩は歩幅を大きくした。
駅前の通りから一本外れるだけで、夜は急に静かになる。都会と呼ぶには控えめで、田舎というには賑やかすぎる街だ。
飲食店の明かりも、コンビニの看板も見えるのに、人の気配だけが薄い。信号は赤のまま、雨上がりの路面に光が滲んでいた。
ここ、嫌いだな。
そう思うのに、避けられない通り道。
交差点の真ん中で、風が止まったように感じた。湿った空気の中に、かすかな鉄の匂いが混じる。
胸の奥がざわつき、詩歩は無意識に視線を逸らした。近くのガラス窓に映る自分の顔が目に入り、慌てて目を伏せる。
――鏡は嫌い。なぜかは分からない。
息を止め、それから首を振った。
――気のせい、よ。
青に変わった信号を渡りきったところで、背後から声がした。
「その道、あまり通らないほうがいい」
振り返ると、田中が立っていた。仕事帰りらしく、コートの肩に細かな水滴が残っている。
「どうして?」
問いかけたものの、答えを期待していない自分に気づく。田中は少し振り向き、それから詩歩を見た。
「なんとなく」
それだけだった。
詩歩は曖昧に笑い、もう一度交差点を振り返る。ガードレールが一部だけ新しいが、それ以外は何もない。ただの夜道だ。
それでも、胸の奥では小さな違和感がくすぶり続けていた。言いようのない不安の種は、なんでもない言葉にして吐き出せば楽になる。
「今、帰りなの?」
「そうなんだ、いつも通りの残業でね」
「ふうん。三度目ね、帰り道で会うの」
「もう三度目かぁ。案外、縁があるのかもね」
田中はウインクしておどけて見せる。屈託のない笑顔は子供みたいだが、詩歩には鼻についた。
――背は高いし見た目もそこそこだけど、彼女はいなそうね。
何の変哲もない普通のコートに、リクルートみたいなスーツ。これじゃあね。ま、私には関係ないけど。
対する詩歩は、上品な白のブラウスと、ぴったりサイズの合ったスラックス。自分に似合うものを熟知している。
しなやかな足を引き立てる七センチのヒールが、点滅し始めた信号を気にも留めずに一歩を踏み出した。
だが田中が詩歩の腕を掴んで引き戻す。
静寂を切り裂くように水音が響いた。小さな水しぶきをあげ、車が一台、詩歩の目の前を通り過ぎた。
「危ないだろう!」
田中の声がやけに大きく響いた。
「はっ、大げさ」
掴まれた腕を振りほどきながら、詩歩は視線を逸らした。
点滅は見えていた。だからこそ踏み出したのかもしれない。
「黄色は赤なんだぞ」
「何それ、小学校の先生みたい」
田中は言い返さなかった。その沈黙が、妙に重く感じられた。
やがて、歩道に滲む色は青へと変わる。
待ちかねたように歩き出す詩歩の背中に、田中が問うた。
「送っていこうか?」
ほんの一瞬だけ、詩歩は迷った。だが振り向きもせずに歩き続ける。
「平気、近いから」
信号を渡り切り、安堵が広がる。
何を確認するでもなく、詩歩は辻を振り返った。
信号は再び点滅している。
急に風がピタリと止んだ気がした。
かすかな囁きが、耳の奥を掠めた。
風の音かもしれない。
でも、言葉のようにも聞こえた。
――ト
――ト、ウ
――トウ……。
詩歩は肩をすくめ、早足で家路を急いだ。背後ではまだ風が何かを告げているような気がしたが、振り返りはしなかった。




