19 名前
「私の声が聞こえますか? 石黒さん」
詩歩の返事は遅い。高田はストップウォッチで間隔を測る。
――深い催眠状態に入ったみたいね。少し予想はしていたけど……危険そうならすぐ中止だわ。
高田は詩歩の呼吸や筋緊張を細かく観察しながら、質問を続ける。
「気分はどうですか?」
「……はい、気分はいい、です」
「今、何が見えますか?」
「……どこか、部屋……」
詩歩の声はかすかに揺れながら、ゆっくりと言葉を紡いだ。
「机が、あります……広い……人が、何人も……」
その光景が、少しずつ輪郭を持ちはじめる。
「そこにいるのは誰ですか?」
わずかな間が空いた。呼吸は深く規則的だが、反応はさらに遅くなっている。
「……わからない……でも……話してる」
言葉を探すように、詩歩は小さく息を漏らした。
「石黒さんは誰かと話をしているんですね?」
高田はペンを持つ手を止めた。
「……そう……私が」
その一言は、先ほどよりもはっきりしていた。
「……違う……でも私」
――おかしい。
高田は詩歩の表情を観察する。まぶたは閉じられているが、その奥で視線が何かを追っているように微かに動いている。
「何をしていますか?」
「……書類を……見てる……」
キーを打つ音がリズミカルに響いている。
視界が、ゆっくりと定まっていく。
……白い壁。整然と並んだデスク。密かな話し声と、手元には分厚い資料。指先でページをめくると、紙の感触がやけにリアルに伝わってくる。
――仕事中だ。
その認識が、自然に浮かんだ。
「この件は明日の会議に回して。先方には私から連絡を入れるわ」
言葉が出た。考えていないのに正しい順序で――落ち着いていて、よく通る声。迷いがなく、相手に考える余地を与えない響き。
視線を上げると、向かいに立つ女性が小さく頷いた。
「承知しました」
――誰?
一瞬だけ疑問がよぎる。だがすぐに、それは意味を持たなくなる。目の前の状況が、あまりにも“当たり前”だった。
スケジュール、案件、数字、会議。すべてが頭の中に整理されている。
――次は、社長室。
”私”は立ち上がる。ヒールが冷たく硬い音を床にたてる。その音さえ、違和感がない。ガラスに映った自分の姿が、一瞬だけ視界に入った。
知らない女だ。でも違和感はない。――これが、私だ。そう思った。
「……名前は、分かりますか?」
遠くから声がする。どこか別の場所から、呼ばれているような感覚。
「……いしぐろ……」
唇が、勝手に動く。
「……ちか……」
その名前を口にした瞬間、胸の奥で何かが静かに噛み合った。
詩歩の指先が、わずかに動いた。
――いしぐろ ちか。
心の中でもう一度繰り返す。
その瞬間、白い診察室の光景がゆっくりと霞んでいった。高田の声も遠ざかり、代わりに眩しい光が視界いっぱいに広がった。




