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復讐の願いが叶うとき  作者: 山口三


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18 見てはいけない顔


 詩歩は、心の中にもやもやとしたものがずっと重く漂っているのを感じていた。それはあの石黒家親族の集まりの日からだった。


 父は婿養子、母も石黒家の血統ではない。では一体どういう経緯で父は石黒家の養子になったのだろう。


 あれから家の中にはずっと張り詰めた空気が流れていた。詩歩はさりげなく石黒本家との関係を聞いてみようと思っていたが、結局聞けずじまいだった。


 今日は久しぶりの絵画教室だ。自画像のスケッチのあと、母は気乗りがしないと言って絵画教室を避けていた。


「お母さん、久しぶりだね。今日は前回のスケッチを完成させるのかな?」


 別の話をしながら、さりげなく父の婿養子について探ろうと思っていたが、母はいつも以上に神経質になっているようだった。


「もう自画像はいいんじゃないかしら。別の……パステル画もおもしろいわよ、どう?」


 笑顔を取り繕ってはいるが、母の手は神経質にバッグのショルダーを握っては放しを繰り返していた。


「パステル、ね。考えてみる」


 母にはああ言われたが、詩歩は自画像のスケッチを続けた。


 夢の中の女性は少女から大人になったが、大人になったあとの顔ははっきりしない。でもこのスケッチが完成したら、彼女の顔が分かるのだ。そうすれば……夢や鏡へのトラウマを克服する手掛かりになるかもしれない。


「でき、た……」


 綺麗な人だ。二十代後半くらいだろうか。大きな目には引き込まれそうな魅力がある。右側の泣きボクロは少女の頃もあったはずなのに、忘れていた。意志の強そうな口元も夢の中でよく見た。


 だが、会ったことがある人とは思えなかった。なんとも形容しがたい感情が湧き上がってくる。恐れは感じない。むしろ懐かしいような気さえする――


 詩歩の思考は、後ろで起きた大きな物音に中断された。


 振り向くと椅子は倒れ、立ち上がった母がテーブルに手をつき、やっとのことで体を支えて震えていた。


「お母さん? どうした……」


「詩歩っ、それっ……どうして――」


 母は金切り声をあげたかと思うと、そのまま教室を飛び出してしまった。教室にいた生徒はみんな驚いて、母が出て行ったドアを茫然と見ていた。だが庄司先生だけは、詩歩のスケッチブックをじっと凝視していた。


 詩歩は何が起きたが理解できないまま、みんなと同じように唖然としていた。


「詩歩ちゃん、これ」


 今日も詩歩の隣の席に座っていた西森が、母の持ち物を詩歩に差し出した。その段になってやっと我に返った詩歩は、母の荷物と自分のバッグを掴んで、庄司に頭を下げた。


「すみません、今日はもう帰ります」


 詩歩は駅で母に追いついた。母は切符売り場の前で路線図を見ながら立ち尽くしていた。


「お母さん」


 振り向いた母は、まるで久しぶりに会ったかのように驚いた様子だった。


「あら詩歩じゃない、どうしてこんな所にいるの?」


「お母さん、バッグを教室に置いて出たんだよ。切符が買えないでしょ?」


「詩歩が持ってきてくれたのね、じゃあ帰りましょうか」


 自宅に戻ってからも母の様子は変だった。キッチンでぼうっとしているかと思ったら、いきなり冷蔵庫を開けて「詩歩ちゃん、もう帰ってたの」と言ったりした。


 父もそんな母の様子を怪訝な目で見たが「疲れているんだろう」の一言で済ませてしまった。


 ――何かあったのか、とか聞かないんだ。


 母がこんな状態なのに父の態度は変わらない。


「お父さん、お母さんのことが気にならないの?」


 詩歩の語気は強く、その目には非難の色が濃く現れていた。


「お母さんは昔から細かいことを気に病む質なんだ。お前は気にするな」


 父はそう言って、自分の書斎に閉じこもってしまった。


 翌朝、階下からの大きな物音で詩歩は目を覚ました。


 リビングを抜けてキッチンへ行くと、食器棚やありとあらゆる棚が開けっぱなしになって、中の物が散乱していた。


「どうしたの、これ」


 詩歩の言葉が耳に入らぬ様子で、床に座り込んだ母は独り言をつぶやいていた。


「ないの。ないのよ、あのカップが。あの人に見つかったらまずいのに、どうしよう……」


 詩歩は母の横にしゃがんだ。


「お母さん、何のこと? カップってもしかして――」


「カップよ、ティーカップ。アイリスの柄の」


「あのカップならお母さんが捨てたじゃない」


 ふと顔をあげた母は、詩歩を救世主のように見上げた。


「そう、なの? 捨てたの? ……良かった、良かったわ……」


 詩歩は母を寝室に連れて行き、ベッドに横にならせた。それからキッチンを片付けはじめたが、その手を止めてスマホを握った。


 ――田中さんに連絡してみよう。出張で地方にいると言っていたが、返事はくれるはず。


 詩歩はLINEで母の様子を田中に伝えると、少しして返信が来た。


『それは心配だね。そばにいてあげられなくてごめん』


 田中とのやりとりで、ようやく詩歩は自分の気持ちが落ち着いてくるのを感じた。冷静になって、いま自分は何をすべきか考えた。


 ――お父さんはあてにならない。きっとあれだ、あの顔。私が描いた自画像だ。


 詩歩は次の心療内科で、母の様子や前回は言わなかったティーカップの件を率直に高田先生に話した。


「そうですか、スケッチにあったティーカップは実在していて、更にお母様がそれを廃棄していたんですか」


「自画像も出来たんですけど、スケッチブックを教室に忘れてきてしまって」


「石黒さんの場合は、家族との繋がりにも少なからず影響を受けているのかもしれませんね」


 高田は少し考えるような仕草でペンを握り直し、口を開いた。


「ヒプノセラピー、催眠療法という言葉を聞いたことはありますか?」


「いえ……」


「日本ではまだ一般的ではありませんが、私は海外で催眠療法を専門に学んできました。石黒さんは少し解離的な感覚を持っているので、半催眠的アプローチから始めると効果がでると思います」


 わずかな躊躇いが詩歩の顔に現れた。高田はすかさずゆっくりと言った。


「危険はありませんよ。半催眠ですから、意識を保った状態で行うんです」


 詩歩は承諾した。今はどんな些細なことにもすがりたかった。


 特別な準備は必要なかった。詩歩はリクライニングチェアに上半身だけ少し起きた状態で横になり、目をつぶった。


「深呼吸して、リラックスしてください。『安全な場所』をイメージして、あなたはそこにいます」


 ――安全な場所とはどこだろう? 私の部屋かしら。


 詩歩はゆっくりと呼吸しながら、体の力が抜けていくのをぼんやりと意識していた。


「今どこにいますか?」


「私の部屋、ベッドの上にいます」


「浮かんでくる形や色を教えてください」


「みどり……カーテンがみどり……」


 詩歩の呼吸は、ゆっくりと深くなっていく。反応が、少しずつ遅れていった。


「……石黒さん?」


 高田の声に、返事はない。


 そのとき、バッグの中でスマートフォンが小さく震えた……。

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