17 自画像
それから数日後、詩歩は実家から戻った母と一緒に絵画教室へ向かった。
主催者の庄司先生は、相変わらず寝ぐせのように白髪をくしゃくしゃとうねらせ、メガネの奥から柔和な笑みを向けて詩歩を迎えた。
「今日は自画像をスケッチしてみましょうか」
「自画像、ですか」
詩歩は前回と同じ席に着いたが、母は何も言わず詩歩の少し後方に座った。
――なんとなく後ろから監視されてるみたいで、やだな。
母の視線を背中に感じていると、庄司がイーゼルの横に鏡を置いたのでぎくりとした。
「この鏡で自分の顔を見ながら描くんですよ」
「あ、はい」
鉛筆を手に持ち、スケッチブックに向かう。だがどうしても鏡に目を向けられない。
――どうしよう、自画像だなんて思いもしなかった。
自分の顔の輪郭はどんなだろう? そう思いながら線を入れていくが、手が止まった。
目をつぶる。
――そうだわ、自画像だと思わず、鏡に映っている顔を描くのだと考えたらいいんだわ。
目を開いて鏡を見た。不安そうな若い女がこちらを見ている。もう一度鉛筆を紙に走らせた。そこからは集中して、流れるように手が動いた。心の中では(自画像じゃない、自画像じゃない)と呟き続けた。
「あれ、違う人になってしまったかな?」
庄司先生の一言で、詩歩はハッと我に返った。スケッチブックに描かれているのは間違いなく女性だが、まだラフな描きかけだった。そして、それは詩歩の顔ではなかった。
「あっ」
どこか見覚えがある。だが、はっきりとは思い出せない。
「大丈夫。モデルなしでそこまで描けるのは大したものです」
隣席の西森も「上手ねえ」とほほ笑んでいるが、詩歩は激しく動揺していた。
母も後ろから見ているはずだが、何も言わない。それなのにずっと母の視線を感じる。
帰り道でも、母はわざと絵の話題を避けているようだった。
詩歩は『自画像』として自分が描いている女性は一体誰だろうと、漠然と思った。口元は、なんとなく夢の中の女性に似ている気がするが……。
夕食の最中、母も口数が少なかった。しかし今日は珍しく、普段は無口な父が口を開いた。
「今週末、石黒家の集まりに呼ばれているからな」
母は抗議するような視線を父へ向けた。
「いつもは呼ばれたりしなかったじゃないですか、どうして今になって……」
「俺に言われても困る。今日社長から直に招かれたんだ」
詩歩は自分には関係ないことだと、両親の会話を聞き流していた。その無関心に気づいたように、父が詩歩に向けて言った。
「お前もだぞ」
「え、なんで私?」
父はあの巨大な石黒グループの柱石、石黒建設の常務だ。だが父は婿養子だと昔耳にしたことがある程度で、詳しくは知らない。婿だというなら母が石黒家の血筋なのだろうと、漠然と思っていた。
「さあな。向こうがお呼びなんだ、どんな用事がお前にあるのかは分からんな」
その週末、両親と詩歩は「石黒家の集まり」なるものに参加するため、県内で一番大きなホテルへ向かった。
会場には十席ほど用意されていたが、半分はもう埋まっていた。その一番奥の席へ父はつかつかと歩み寄った。
「ご無沙汰しております、会長」
そこには恰幅のいい老人が座っていた。相当な老齢だが、背筋をしゃんと伸ばし、眼光も鋭い。父が挨拶すると、目だけを動かして、何もかも見透かすような視線で父を見上げた。
「元気そうだな」
「はい、おかげさまで」
詩歩は初対面だが、彼が会長の石黒雄三だろう。そして父と会長のやりとりを、右側の席からじっと見ているのが長男の石黒保、父の上司であり石黒建設の社長だ。社長は七十代前半といったところか。
石黒グループの上層部はほとんどが親族で成り立っている。この二、三ヶ月に一度の集まりもそうした親族のみの集まりだと聞いていた。
ほどなくして全員が揃い、会食が始まった。
保の向かい側は空席だった。彼の妻の優子は体調が思わしくないため欠席だったからだ。その空席の隣りが次男の武、武の妻が保の隣席に座っている。その隣が母。詩歩の隣りは武の息子で、向かいには武の孫の弘が座った。
男性陣の会話はほぼ仕事の話で終始していた。女性は詩歩を入れて三人しかおらず、母は自然と武の妻と言葉を交わしていた。
「お嬢さん、美人ね。うちの化粧品会社のモデルになれそうだわ」
最初の一言だけ詩歩に笑顔を見せたあとは、ずっと母に話しかけていた。だが、自分の会社の自慢話ばかりが続き、次第に母の表情は引きつっていった。
弘はふたりの様子を見て楽しんでいたが、やがて見飽きたのか今度は詩歩にちょっかいをかけてきた。
「あんたさ、俺と同い年なんだよな。ずいぶん頭もいいんだって? ちょっと手を抜いてくれないと、比較されるから俺が困っちゃうんだよね」
やれやれと肩をすくめながらため息をつく弘を見て、詩歩はうんざりした。
――母親に甘やかされて育った見本みたいね。
「あなたの都合で私の人生を調整する義理はないわ」
なんの抑揚もつけず冷静に言い返すと、弘は見るからに気分を害して身を乗り出した。
「はぁ? なんだよ偉そうだな。義理はあるだろ、お前たちなんて親族でもないくせに、こんな場所にまでしゃしゃり出てきて……」
「弘、よしなさい。彼らは私が呼んだのだ」
会長が鋭い声を弘に投げた。それから次男に向かって厳しい調子で言った。
「お前のところの教育はどうなってる? 孫にきちんと礼儀をわきまえさせろ」
「すみません、おとうさん」
次男の武は小学生のように小さくなりながら詫びた後、息子と妻を睨みつけた。
だが詩歩は別のことに気を取られていた。
――親族じゃないって……お母さんが石黒家の親族なんじゃないの?




