16 うさぎのキーホルダー
今日は二度目の診察日だった。
外は曇り空でも、クリニックの中はそれを忘れさせるような明るい雰囲気に包まれていた。
高田先生の部屋も、病院の一室というよりは、まるで彼女のプライベートな書斎のように整えられている。
「前回のアドバイス通り、絵を描いてみたんですね?」
「はい。母が通っている絵画教室に一緒に行くことにしました」
詩歩はスケッチブックを開き、黄色いアイリスの花のティーカップを見せた。
「夢にも出てきたティーカップなんです。友達が調べたらアイリスだって分かって……気づいたらそのアイリスの柄を描いていて……」
「絵がお上手なんですね。他にもありますね、ティーカップがもう一客、それと動物かしら」
詩歩は思わず椅子から腰を浮かした。他に何かを描いた記憶はない。
「えっ、他にもありましたか?」
先生からスケッチブックを受け取った。嫌な予感を抱えつつページをめくると、そこには確かにティーカップのスケッチがあった。こちらは鉛筆描きのままで、その何枚か後ろにはまだ描きかけの――たぶん、うさぎだ。
「私、うさぎは嫌いなのに……」
詩歩のつぶやきに、女医は素早くメモを取った。
「黄色とうさぎも嫌悪を感じるんですね。心当たりもないですか?」
「はい。でも生きてるうさぎは可愛いと思います。どちらかというと、うさぎのモチーフが苦手です。ぬいぐるみとかキーホルダーとか……うっ」
うさぎのキーホルダーを思い浮かべた瞬間、詩歩の中にぞっとするような恐怖がこみ上げてきた。吐き気を催し、口元を押さえる。
「大丈夫ですか? トイレに行きますか」
立ち上がろうと椅子に掛けた手が震えている。足も小刻みに震え、力が入らない。
「はい、すみません」
なんとか廊下に出て、足元がおぼつかないままトイレへ向かった。
鏡に映る顔は蒼白で、目がうつろだった。一瞬、鏡の中の顔が別人に見えて、詩歩は思わず顔をそむけた。ドアの外から「入りますね」と声がして、女医が水を持って入ってきた。
「吐き気が収まったら、別の部屋で少し休んでいかれるといいですよ。ベッドもありますから」
女医は冷静だったが、声音は優しかった。
「水をいただいたら少し収まりました。続けられると思います」
診察室には二人で戻った。詩歩の呼吸が落ち着くのを見計らって、女医は口を開いた。
「自分が嫌悪するものを描いてしまうというのは、ままあることです。不安の原因がはっきりしないと、無意識がそれを形にしようとするんです」
「黄色やうさ、うさぎが私のトラウマになってるんですか?」
「そういう見方ができます。夢も同じです。記憶や不安が形を変えて出ることがあります」
詩歩は身を乗り出して、必死に問いかけた。
「どうしたら克服できますか?」
「無理に乗り越えようとしなくでもいいんです。自分の不安とうまく付き合っていく方法を探していきましょう。そうすれば鏡に映る自分の顔の違和感も減っていくかもしれません」
心療内科を出た詩歩は、午後からの講義を取るために大学へ向かった。
広い校内を歩きながら、先ほどのやりとりを思い返す。
自分はやはり精神の病気なのかという問いに、女医は「風邪ですよ」といったくらいの口調で、説明してくれた。
「石黒さんは軽い症状がいくつか複合して現れています。離人感のような症状や、強い不安が見られるようです」
大きなストレスが原因で発症することもあれば、小さなことが積み重なって飽和状態になった心が、悲鳴を上げるように発症することもある。
――私もそうなの? 夢を見始めたのは、男が卵を投げつけられるのを見たあたりからだ。じゃあ、夢の中の自分の顔が違うのは、無意識に自分を嫌っているってこと?
考えに没頭していて、自分がどこを歩いているのか分からなくなったとき、田中からのLINEが届いた。
『診察、どうだった?』
「スケッチを見てもらった。あとで詳しく話すね」
――田中さんたら、意外とマメなのね。
いつも絶妙なタイミングで連絡をくれる田中からのメッセージを目にして、その意外さに詩歩は思わずほっこりした。
今日の講義をすべて取り終わったが、田中との待ち合わせにはまだ時間がある。詩歩は一旦、自宅に戻った。
玄関に見慣れぬ靴があった。母は同窓会で実家に帰ったはずだから、母のではない。リビングから話し声が聞こえてきた。
「お父さん」
リビングには父と見知らぬ女性が一人いた。二人ともゴルフの出で立ちだった。
「詩歩、帰ったのか」
「また出かけるけど……」
詩歩が女性に向ける視線に気づいた父は言った。
「こちらは秘書の立川くんだ。接待ゴルフが終わったところでな。お父さんは立川くんと出てくるから、夕飯はいらないよ」
「どうも」と、その秘書の女性は軽く頭を下げた。華やかな人だな、と詩歩は思う。お母さんとは正反対――まだ三十代前半くらいか。接待ゴルフに秘書同伴とはね……。
その光景を見て、なぜか詩歩の心はざわついた。けれど、そんな内心をおくびにも出さず、静かに頷いた。
「分かったわ。私も友達の家に行くから、泊まるかもしれない。じゃあ失礼します、立川さん」
詩歩は着替えを適当にバッグに詰め込み、早々に家を出た。
*
田中と待ち合わせて向かったのは、チェーンの居酒屋だった。
「生ひとつと、ウーロン茶でいいんだっけ?」
「生ふたつで!」
田中が止める間もなく、忙しい店員はさっさと行ってしまった。田中は慌てて身を乗り出し、小声で言った。
「まだ未成年だろ」
「その未成年と田中さんはぁ……」
意味深な視線を、詩歩は投げかける。
「いやっ、それは……」
「ふふっ、冗談よ。私、この間誕生日だったの」
「えっ、言ってくれたらよかったのに。こんな居酒屋じゃなくて、もっとお洒落なレストランでも……」
田中さんとならどこでも楽しい。詩歩はその気持ちを言葉にはせず、ただ笑顔を田中に向けた。
酒の勢いに任せて、詩歩は今日心療内科で起きたことを、冗談めかして語った。だが田中は笑わなかった。
「大丈夫よ、もうなんともないんだから。それより今晩は泊めてね、ほら着替えも持ってきたの」
「家の人は、大丈夫なのか?」
「もう大人なんだから外泊くらい平気。それにお母さんが同窓会で実家に帰省してるの」
明日は土曜で休みだし、と田中も了承した。
田中のマンションに向かいながら、詩歩は何気なく田中に聞いた。
「田中さん、独り暮らしってことは、ここは実家じゃないんでしょ?」
「うん、〇〇県だね。近いけど、ここよりはるかに田舎だよ」
「ふうん。お母さんの実家と同じだ。じゃあ兄弟は?」
少し間があった。詩歩の手を握る田中の手に、わずかに力がこもった気がした。
「妹が、いた」
「いた?」
「……亡くなってる」
「あ、ごめん」
「いや、大丈夫」
田中はしばらく何も言わず、じっと前方を見つめていた。




