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復讐の願いが叶うとき  作者: 山口三


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15 ティーカップ


 朝の光が差し込むと、世界はいつも通りに動き出した。

 昨日の余韻がまだ優しく自分を包んでいるのを、詩歩は全身で感じていた。


 詩歩は少しだけ鏡を見て身支度を整え、朝食を食べていると、ふと昨日の教室で描いたカップのことを思い出した。紙の上に描いた黄色い花びらが、夢の断片と重なって見えた。


 外に出ると、通りの向こうに母の背中が見えた。母はゴミ袋を抱え、足早にゴミ置き場へ向かっていた。


 田中とのひとときで上機嫌のまま、詩歩は母の背後に足音を忍ばせた。ちょっとした悪戯心が胸の奥でくすぶっていた。


 だがその足はピタリと動きを止めた。


 近づくと、母の手元には白い陶器があった。あの形、あの縁取り――教室で詩歩がスケッチしたティーカップそのものだった。


 黄色い花模様が、紙の上の花と同じ線を描いている。花芯部分が紫色なところまで同じだ。それだけじゃない。花の配置が、持ち手側にわずかに寄っているところまで――自分が無意識に描いた通りだった。


 詩歩の心臓が一拍、二拍と大きく跳ねる。


 黄色い花びら。


 白い陶器。


 ──あれは……どこで見たんだっけ。


 一瞬だけ本物のティーカップが脳裏をよぎった。


 目の前の母は、ためらいなくカップをゴミ袋に押し込んでいる。朝の静けさの中に、陶器の擦れる甲高い音が響いた。


 その瞬間、詩歩の胸に小さな違和感が走った。


 ――今、何か……。


 だが母の手が袋の口を縛ると、その感覚はあっけなく消えてしまった。


 急に混乱が頭の中を支配した。――私が描いたのは実在するカップだったんだ。でもなぜお母さんはそれを捨てるの? スケッチを見たときに、同じものがあるって言わなかったのはなぜ?


「お母さん」


 声は思ったよりも小さく出た。母は振り向き、いつものように微笑んだ。けれど、その笑顔の端にわずかな引きつりがあることを、詩歩は見逃さなかった。


「詩歩、早く行きなさい。遅刻するわよ」


 言葉は普段と変わらない。だが詩歩の目はゴミ袋の中の白い陶器に釘付けだった。紙の上に描いた線が現実のものと一致した瞬間、詩歩の中で何かがつながったような気がした。底知れぬ不安が湧き上がり、息苦しさを感じる。


 母は何事もなかったように家に戻った。詩歩はゆっくりと息を吐き、スマホを取り出した。田中に伝えるべきか、今すぐ会いに行くべきか。頭の中で言葉がまとまらない。


 ――いえ、彼だって仕事に向かってるはず。結局、詩歩は短いメッセージを打った。「ちょっと話したいことがあるんだけど、今晩会える?」


 送信ボタンを押す指が震えた。返信が来るまでの数分が、永遠のように長く感じられる。


 スマホの画面に田中の名前が表示されたとき、詩歩はほっとした。返信はすぐに来た。


『OK、7時には終わると思うから、一緒に食事しよう』


 その文字を見て、詩歩の胸に小さな決意が生まれた。彼に話そう。自分の中でざわつく思いを、ひとつずつ外に出そう。田中がそばにいてくれるという確かな安心感が、何よりの支えになった。


 詩歩はスケッチブックをバッグに押し込み、大学へ向かった。母の顔をもう一度見ようかと一瞬思ったが、やめた。今はまだいい。まずは田中に話して、二人でどうするかを決めよう。


 二つ目の講義で美咲と同じになった。たまには自分から、と詩歩は美咲をランチに誘った。


「いいね! あ~でも学食でいいかな? ちょっと今月ピンチで」


 食堂に向かう途中、一目惚れしたワンピースをつい買ってしまい、金欠だと美咲は照れ笑いしながら打ち明けた。


「ところで、どう? やっぱり夢は見続けてる?」


 詩歩は病院で検査を受けたこと、心療内科にも行き始めたことを打ち明けた。


「脳に病気がなくてよかったね。じゃあそのスケッチブックが、絵画教室のかな」


 美咲は、詩歩のバッグからはみ出たスケッチブックを目ざとく見つけて指差した。詩歩は迷いながらも、今朝の話を美咲にもしてみることにした。


「なんだかミステリだね。どれどれ、ちょっとAIに聞いてみよう」


 スケッチの写真を撮ると、美咲は驚いてスマホの画面を詩歩に向けて見せた。


「見てこれ! 有名ブランドのカップじゃん。ティーカップ・アイリスだって。一客十二万もするよ!」


「ほんとだ……」


「詩歩の家がお金持ちっていうのは知ってたけど、十二万のカップをためらいなく捨てるとは……あ、もしかして割れたから捨てたのかもよ」


 美咲は何気なく言っていたが、詩歩には目からうろこの一言だった。

 ――そうだ、どうしてそれに思い至らなかったんだろう。ただ単に割れたから捨てたんだわ。


 美咲の言葉は、詩歩の胸の奥に張りついていた緊張をふっと緩めた。


「……そうだよね。確かにそうかもしれない……」


 自分でも驚くほど、すんなりと納得できた。あれほど動揺していたのに、理由がつくと心はこんなにも軽くなるのか、と詩歩は思った。


 けれど――胸の奥に、ほんの小さな棘のようなものが残っていた。


(でも……お母さん、私に声をかけられて少し動揺してたな)


 詩歩のフォークを持つ手がふと止まり、膝の上のスケッチブックの角を指でなぞった。母の姿が、言葉にできない不安となって心の奥底へ沈んでいく。


 美咲と他愛ない話を続けながらも、詩歩の意識はどこか遠くにあった。

 午後の講義が終わるころには、朝の出来事は少しずつ薄れていった。


 田中との約束を思うと、胸の奥がふわりと弾ける。

「もうすぐ会えるんだ」——そう思った瞬間、頬が自然とゆるんで、足取りまで軽くなる。まるで春風が心の中をくすぐっていくみたいに。


 夕方の光が街の輪郭を柔らかくするころ、詩歩は約束の店の前で立ち止まった。バッグの中のスケッチブックが重く感じ、ページの端に触れると指先に乾いた感触が伝わった。


 店の扉を押すと、田中はすでに窓際の席に座っていて、こちらを見上げて軽く手を振った。詩歩はその笑顔に一瞬だけ迷いを忘れ、自然に歩み寄る。席に着くと、田中はメニューに目を落としながらも、すぐに視線を詩歩に戻した。


 言葉を待つような、静かな余白が二人の間にできる。


「どうした? 朝、何かあったみたいだったけど」


 田中の声はいつもより柔らかく、詩歩の胸の中の緊張をそっとほぐしていく。詩歩はスケッチブックを膝の上に引き寄せ、ページを軽く押さえた。指先が震えるのを自覚しながら、ゆっくりと話し始める。


「朝……お母さんが、私が教室で描いたのと同じティーカップを、ゴミに捨てているのを見たの」


 言葉は淡々としていたが、田中の眉がわずかに寄った。詩歩は話を続けた。


「表面に、私が描いたのと同じ黄色い模様があって。最初は驚いて、でも美咲に『割れたから捨てたんじゃない?』って言われて、そうかもしれないって思ったんだけど……なんだか、すっきりしないの」


 田中は黙って詩歩の顔を見つめる。彼の目には、まずは受け止めるという決意があった。詩歩はその視線に少し救われるのを感じたが、同時に自分の中に残る小さな棘をどう言葉にするかを探していた。


「お母さん、絵画教室で私のスケッチを見たとき、何も言わなかったの。あの花模様のカップがあることを……」


 詩歩の声が細くなる。田中はそっとテーブルに手を置き、詩歩の手の甲に触れた。


「詩歩がそれを見て動揺したのは当然だよ。驚くのは当たり前だ」


 田中の言葉は静かで、詩歩の耳に深く届く。


「最初にティーカップの映像が頭に浮かんだ時にも、お母さんに質問したんだっけ?」


「うん、その時も何も言ってなかったし、私も忘れちゃってて」


「なるほどな……う~ん。そうだなあ、例えばだけど……詩歩の友達が考えたことを補足すると、お母さんはカップの存在をすっかり忘れていた、でも詩歩が描いたスケッチを見て、思い出した。それでしまってあったのを取り出してみたら割れていた、だから捨てた」


 単純な回答だが、全ての答えのように感じる。


「忘れてた。探したらあったけど割れてた……だから捨てた」


 詩歩は田中の言葉を反芻する。彼の落ち着きは、詩歩の内側にある不安を一つずつほどいていくようだった。田中は続けた。


「気になってることは他にもある?」


 一瞬ためらった。でも、思ったことは外に出そうと決めたのだ。


「カップを捨てているお母さんの様子が、その、コソコソしてて。声を掛けた時もカップのことは言わなかったから」


「態度が怪しかったのか。そうだよな、その時にカップの話題に触れても良かったわけだものな」


 田中は考え込んだと思うと、真正面から詩歩を見て言った。


「ただ言わなかっただけ、といえばそれまでだけど……それで、どうしたい?」


 田中は訊ねる。問いは単純だが重い。詩歩は一瞬考え、答えを探した。


「今は、直接問い詰めたくない。母が動揺しているのを見たから。まずは様子を見てみる。田中さんには、ただ聞いてほしかったんだ。私が混乱しているのを、整理する手伝いをしてほしかった」


 田中は詩歩の言葉を受け止め、静かに頷いた。


「分かった。無理に動かないで、詩歩のペースでいこう。必要なら俺が一緒にいるから」


 その約束は詩歩にとって、言葉以上の安心をもたらした。田中の手が自分の手を軽く握り返す。握られた手の温度が、詩歩の胸の中の不安を少しだけ溶かす。


 二人はそのまま静かに食事を取り、話題は日常の些事へと移っていった。だが詩歩の中には、小さな疑問が残り続けていた。それでも今は、それを一人で抱え込まなくていいという安心感があった。


 店を出ると、田中は詩歩の肩に軽く触れ、短く言った。


「一人で考えるなよ。何かあったら、すぐ言ってくれ」


 詩歩は小さく笑い、頷いた。言葉は簡潔だが、二人の間に新しい信頼の糸が結ばれた気がした。


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