14 昼下がりの雨
駅前の小さなカフェは、昼下がりの光を淡く受け止めていた。
窓際の席に座ると、田中はカップの縁に指を触れながら詩歩が来るのを待った。スマホの画面には、先日の短い電話の履歴が残っている。声だけで彼女の表情が浮かんだあの瞬間を、田中は何度も反芻していた。
周囲の話し声は遠く、ゆっくりと胸に広がるコーヒーの香りが気分を落ち着かせる。田中は自分が緊張していることを認めたくなかった。けれど胸の奥にあるのは、単なる好意ではない。詩歩の声が、詩歩の笑顔が、いつの間にか自分の生活の輪郭を変えていた。
「今日は、ちゃんと話そう」
田中は自分にそう言い聞かせ、手の中でカップを回した。
扉が開き、詩歩が入ってきた。髪を少し耳の後ろにかけ、肩に落ちる光が柔らかい。田中は立ち上がり、自然に笑みを作る。詩歩の頬が少し赤いのを見て、胸が温かくなった。
「待たせた?」と詩歩。
「いや、そうでもないよ」
声はいつもより低く落ち着いていたつもりだったが、詩歩の目が自分をとらえた瞬間、言葉は柔らかく溶けていった。
詩歩は小さく首を振り、バッグからスケッチブックを取り出した。ページの端が少し折れているのを見て、田中はそれが彼女の暮らしの一部になっていると感じた。言葉にしなくても伝わるものがあり、その静かな確かさを田中は守りたいと思った。
「先生に褒められたって、LINEに書いてあったな」と田中が言うと、詩歩は照れたように笑った。
「うん、褒められたからってわけじゃないけど……思ったより楽しかった」
「よかった。無理してるんじゃないかって心配してたから」
田中の言葉に、詩歩の肩がふっと緩むのが見えた。
「スケッチブック、持って来てくれたんだ。見てもいい?」
詩歩は頷きながら、スケッチブックを差し出した。
「おっ、確かに上手い」
他のページにもスケッチが何枚かあり、絵画教室での話に花が咲いた。
ところが、駅を見渡せるカフェの窓に、ぽつりぽつりと雨粒が当たり始めた。
「あれ、降ってきたね」
「うわ、やばい。洗濯物を干しっぱなしだ」
二人は慌てて支払いを済ませた。
「私、折り畳みの傘を持ってきたから」
小さめの傘の下で、肩と肩がそっと触れ合う。小雨がリズムを刻むように傘を叩き、寄り添って歩く中、詩歩は視線を落としたまま口を開く。
「このあいだ、電話をくれて……その……私も声が聞けて嬉しかった」
「俺も、詩歩の声を聞くと落ち着く。詩歩の前だと、変に気取らなくていいんだ。そういう存在がどれだけ大事かって、最近よく考える」
田中の言葉は押しつけではなく、まるで静かな誓いのように傘の下に響いた。
詩歩の口が開きかけ、言葉を探している様子を見て、田中はそっとその手に触れた。詩歩もまた自分の手を田中に預けた。
田中はゆっくりと指を重ねて立ち止まり、目を逸らさずに言った。
「詩歩、俺たち、ほんとの恋人になろう。ちゃんとつき合いたいんだ。俺は詩歩を大切にしたい」
「うん」
詩歩は一度息を吸い、そして小さく頷いた。言葉は短かったが、そこには決意と安堵が混じっていた。
二人の間に流れる沈黙は、ぎこちなくも温かい。田中は詩歩の肩を抱き寄せ、口づけた。
雨の音以外は何も聞こえない。傘を持つ手の近くで、心臓が大きく鼓動しているのがわかる。傘は二人をそっと包み隠してくれていた。
街の雑音が戻ってきた。濡れたアスファルトを並んで歩いたはずなのに、その道のりの記憶はほとんど残っていなかった。気づけば田中のマンションの前に立っていた。
部屋に入るや否や、ドアが閉まるのも待てず、詩歩は田中の首に腕を回した。もう誰の視線も気にする必要はない。二人は互いの唇を求め合い、貪るように深く重ねた。
田中の手が、わずかに湿った詩歩の服を脱がしていく。
そして、詩歩もこの部屋のベッドの場所を知っていた……。
*
「あちゃ~洗濯物のこと、すっかり忘れてた」
冷蔵庫から取り出したミネラルウォーターのボトルを詩歩に手渡し、田中はベランダに出て行った。
「雨は止んだ?」
詩歩はブラウスのボタンをかけながら、リビングに散らばった自分の服を拾って歩いた。
「小雨になったね。まだ濡れてるんじゃないか」
詩歩の手もとの服を見て、田中が言う。
「シャワー浴びておいでよ、その間に俺が乾かしておくから」
バスタオルを受け取った詩歩は、いたずらっぽい笑みで田中を見上げた。
「一緒に入る?」
「えっ」
「じょーだん。私だってまだ恥ずかしいし」
詩歩が閉めたバスルームのドアを見ながら、田中は心に広がる温もりを胸に刻んだ。そしてこれからも彼女の不安を、一つずつ受け止めていこうと心に決めた。
シャワーの湯気が身体の熱を奪っていくと、詩歩の頭の中は不思議と静かになった。
田中の手の温度、傘の下で触れ合った肩、カフェの窓に落ちる雨粒のリズム――それらがひとつずつ、胸の奥に収まっていく。
鏡の前で髪を軽く拭きながら、詩歩は自分の頬に残る熱を確かめた。胸の中に灯った小さな灯りは、確かに消えていなかった。




