13 絵画教室
教室の扉を押すと、油絵具の匂いと古びた木の床のきしむ音が出迎えた。午後の光が大きな窓から差し込み、机の上のカンヴァスやガラスの水差しを淡く照らしている。なぜか心が和み、目を細めた。
「先生、娘の詩歩です」
六十がらみでフレームのない眼鏡、少し癖のある白髪が芸術家らしい雰囲気を醸し出している。その”先生”は絵の具で汚れた手を拭きながら、笑顔を見せた。
「こんにちは、体験レッスンされたいと伺ってますが、何か希望はありますか?」
「はい、スケッチをやってみたいです」
母はいつも自分が座る席についた。先生は隣に席を用意しようとしたが、詩歩は少し離れた場所を選んだ。イーゼルの上に用意してきたスケッチブックを置く。
「最初は静物のスケッチがいいでしょう」
そう言って、詩歩の前のテーブルにティーポットとカップが並べられた。
詩歩はほっとした。いきなり人の顔を描くのは抵抗があった。
「まずは形をよく見てごらん。色は後からついてくるから」
「はい」
詩歩はティーカップを見つめ、鉛筆を持った。集中して、紙の上に線を重ねていく。鉛筆が紙を滑る音だけが、教室に静かに響いた。
「うん、いいね。なかなか筋がいい」
しばらくしてから見に来た先生が言う。
自分ではぎこちないと思っていたスケッチが評価されて、詩歩は少し驚いた。でもちょっとしたお世辞かな、とすぐ思い直す。
だが、詩歩の隣に座っている女性がそれを否定した。
「あの先生ね、めったやたらと褒めたりしないのよ。言っても、『いいですね』とか『このまま進めましょう』くらいなんだから」
そっと詩歩に囁きかけた初老の女性は、にこやかに言葉を付け加えた。
「いきなりごめんなさいね。私、西森というの。この教室が開かれたときから居座ってるのよ、よろしくね」
どこにでも一人はいる、話し好きなおばさん。詩歩は長引くおしゃべりを警戒したものの、西森はそれ以上話しかけてくることはなく、静けさが保たれた。
帰り道、母も西森の意見に賛成し、「良かったじゃない。楽しかったら続けたらいいわ」と言ったが、すぐスマートフォンを取り出して画面に見入った。
気分を良くした詩歩は、帰宅するなり田中にLINEで報告した。メッセージを送信して間もなく、スマートフォンが震えた。画面には「田中」の名前。
「もしもし?」
「なんだか楽しかったみたいだね」
「う~ん、思ったよりは、ね」
田中の背後で車の走る音が聞こえる。この時間だとまだ仕事中か。
「まだ仕事中なんでしょ、LINEでよかったのに」
「うん、でもまあ……声も聞きたかったし」
田中の声に少し照れが混じっているのが分かる。それが嬉しくて、詩歩もまた田中の声を聞けたことに喜びを感じた。くすぐったいような感情が胸の内に湧き上がる。
「また連絡するね」
「ああ、じゃあまた」
電話を終えたあと、詩歩は自分が笑っているのに気がついた。頬がほんのり熱い。まるで、胸の奥に小さな灯りがともったような、そんなあたたかさがじんわりと広がっていく。
こんな少しの会話だったのに、田中の声が耳に残って心の中で何度も反響していた。『声が聞きたかった』その一言にこんなに気持ちが高揚するなんて。
――きっとこれは恋だ。そう思った瞬間、詩歩は思わず顔を覆ってしまった。
二度目の教室は、前回よりも少しだけ緊張が和らいでいた。今日は色を塗る日だという。先生が用意した水彩のパレットには、鮮やかな黄色や青、緑が並んでいる。詩歩は前回描いたティーカップのスケッチを取り出し、筆を濡らした。
最初は慎重に、カップの陰影に薄い色を置いていく。だが、筆が紙の上を滑るうちに、詩歩の手は無意識に別の動きを始めた。白いカップに、細い線で花びらのような模様を描き込む。
中心に向かって濃く、外側に向かって薄くなる黄色。詩歩は自分でも気づかないまま、色を重ねていった。筆先は迷うことなく、まるで手が自然に覚えているかのように動いた。
――はじめて描いたはずなのに。
母がふと詩歩の肩越しに覗き込んだ。目が一瞬大きく見開かれたが、次の瞬間には何事もなかったように微笑んだ。
「いい色合いね。詩歩がそんなに上手だとは思わなかったわ」
母の声は落ち着いていたが、声に微妙な硬さを感じた。詩歩は気づかないふりをして筆を動かし続けた。だが、母の視線が自分の絵に留まっているのをはっきりと感じていた。
母の様子を少し不思議に思った詩歩だが、そのときはあまり気にしなかった。
授業が終わり、皆が片付けを始める。詩歩は自分のスケッチブックをそっと閉じ、バッグにしまった。母はいつも通りに片付けを手伝い、先生に挨拶をして帰り支度をする。外に出ると、夕暮れの風が頬を撫でた。
母もすぐ外に出てきたが、その視線は詩歩のスケッチブックから離れなかった。




