交渉
それは、王都を出る前夜のことだった。
屋敷の奥。
ほとんど使われていない客間に、灯りを一つだけ灯す。
カーテンは閉じたまま。
外から見えないように。
「……本当に、来るのでしょうか」
エレンが小声で問う。
「来るわ」
私は短く答える。
「来なければ困るのは、向こうだもの」
それだけ言って、時計を見る。
約束の刻限を、少し過ぎていた。
(わざとね)
遅れてくるのは、主導権を握るため。
交渉の常套手段。
私は椅子に深く腰掛け、動かない。
焦れない。
迎えない。
“待たせているのは、こちらではない”と思わせる。
やがて――
控えめなノックが、三度。
エレンが扉を開けると、一人の男が入ってきた。
旅装のまま。
埃を被った外套。
けれど、その目だけは鋭い。
「……公爵夫人が、私に何の用でしょう」
名乗らない。
けれど、わかる。
南方航路を持つ中規模商人――カイル。
私はゆっくりと立ち上がる。
「わざわざ来ていただいて感謝しますわ、カイル殿」
名を呼ばれ、男の眉がわずかに動く。
「……どこでそれを」
「知る機会はいくらでもあります」
それ以上は言わない。
詮索させない。
沈黙が落ちる。
先に口を開いたのは、向こうだった。
「……で?」
短い一言。
警戒と苛立ちが混ざっている。
「取引です」
私は端的に告げる。
「あなたの扱う南方染料を、優先的に私へ回していただきたい」
空気が変わる。
「……断る」
間髪入れず。
「うちは貴族の道楽に付き合うほど暇じゃない」
予想通り。
だから、ここで食い下がらない。
「そう」
あっさりと引く。
椅子に戻り、紅茶に手を伸ばす。
「では、この話はなかったことに」
カイルの動きが止まる。
“終わると思っていなかった”顔。
私はカップを口元に運びながら、続ける。
「ただ――一つだけ」
視線だけを向ける。
「あなたの船、次の入港で検査が入るそうね」
沈黙。
空気が、凍る。
「……何の話だ」
声が低くなる。
「噂ですわ」
さらりと言う。
「最近、南方航路で“規格外の荷”が混ざっているとか」
カップを置く。
音が、小さく響く。
「もしそれが事実なら――しばらくは動けなくなるかもしれませんわね」
カイルの視線が鋭くなる。
怒り。
警戒。
そして――計算。
(刺さった)
でも、押しすぎない。
「脅しではありません」
静かに言う。
「私はただ、“安定した供給先”を探しているだけ」
一拍置く。
「あなたも、“安定した販売先”が必要なのではなくて?」
沈黙。
長い。
さっきとは違う種類のもの。
やがてカイルは、ゆっくりと息を吐いた。
「……あんた、何者だ」
その問いに、私は微笑む。
「“元”公爵夫人ですわ」
それ以上でも、それ以下でもない。
カイルはしばらく私を見つめ――やがて、苦く笑った。
「……なるほどな。厄介だ」
そして、椅子に腰を下ろす。
「条件は?」
ようやく、そこまで来た。
私はすぐには答えない。
引き出しを開け、一枚の紙を取り出す。
数字。
量。
期間。
すべて書かれている。
それを、机の上に滑らせた。
「最低保証はここまで」
「……強気だな」
「その代わり」
指先で、もう一行を示す。
「余剰分はすべて、こちらで引き取る」
カイルの目が細くなる。
「売れなかった分も、か」
「ええ」
リスクを引き受ける。
だからこそ、主導権が取れる。
沈黙。
紙を見つめる時間。
計算している。
私は何も言わない。
邪魔をしない。
やがて――
「……いいだろう」
低く、決断の声。
「ただし、最初は少量だ」
「構いません」
即答。
ここで欲張らない。
「その代わり、質は保証していただく」
「当然だ」
カイルは立ち上がる。
「裏切ったら終わりだぞ」
「ええ」
私は頷く。
「お互いに」
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扉が閉まる。
足音が遠ざかる。
完全に消えたのを確認してから――
私はゆっくりと息を吐いた。
「……リシェル様」
エレンが、そっと声をかける。
「今のは……」
「綱渡りよ」
正直に言う。
「一つでも読み違えたら、全部崩れていたわ」
椅子にもたれ、目を閉じる。
少しだけ、疲れが出る。
けれど――
口元は、わずかに緩んでいた。
「でも、これで“種”は手に入った」
あとは、育てるだけ。
静かに。
確実に。




