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7. 初めての舞踏会(後編)

 行き交う人々の豪華絢爛な装いを、ゼーレは再び眺めていたが、先ほどまでとは少し気持ちが違っていた。


 自分に声をかけてくれた、あの爽やかで頼もしい騎士団長。ルーカスの存在を思い出すだけで、自然と頬が緩んでしまう。今日の舞踏会に来た甲斐もあったというものだ。ゼーレは壁に寄りかかりながら、口元に浮かぶ笑みをどうにか抑えようとしていた。あんなふうに自分の角を褒めてくれる人が、この国にもいたのだ。そう思うと、胸の奥がほんのり温かくなる。先ほどまでの心細さも、少しだけ和らいでいた。


 やがて、ダンスホールに人々が集まり始めた。楽団の奏者たちが楽器を構え、華やかな音楽が流れ出す。ようやく舞踏会の目玉ともいえるダンスの時間が訪れたのだ。


 ダンスといえば、アルカディアでは最初の一曲を愛する妻と踊るのが伝統だと聞いていた。


 そう思うと、ゼーレの胸は急に期待と緊張でいっぱいになり、心臓が今にも飛び出しそうなほど激しく脈打った。妻として、アーサーの顔に泥を塗らないよう、これまで一生懸命にダンスのステップを練習してきたのだ。今日こそ、その成果を見せるときかもしれない。


 ゼーレはそわそわして再びアーサーの姿を探した。けれど、彼を見つけるのは難しいことではなかった——ダンスホールの中央で、ひときわ美しい令嬢の腰に手を添え、もう片方の手を取っていた。


 まもなく一曲が始まるのだろう。アーサーは令嬢の耳元に何かを囁き、彼女が嬉しそうに頬を染めると、柔らかな笑みを返した。


 妻がいるにもかかわらず、アーサーのもとには数え切れないほどのダンスの誘いが寄せられていた。令嬢たちにとって、王子との一曲はまたとない機会なのだろう。


 本来ならば男性から誘うのが礼儀とされる場でも、彼女たちは少しでもアーサーと踊る機会を得ようと、あの手この手で彼に近づいていた。もちろん、アーサーもそれを無下にはしない。誰に対しても気さくに言葉を返し、相手の美しさを褒め、時には冗談まで交えて笑わせている。その姿は、まさに社交界のスターそのものだった。


 ゼーレは、先ほどと変わらず、ただただ離れた場所から眺めていた。


 人間の宮廷舞踏会にふさわしい、優美な人間たちのダンス。アーサーが軽やかにステップを踏むたび、令嬢の美しいドレスの裾が流れるように宙を舞う。二人の動きには寸分の乱れもなく、まるで互いを知り尽くした者同士のように息が合っていた。令嬢の身につけた数々の宝石は、シャンデリアの光を受けてきらきらと輝き、無数の光の粒となってゼーレの目に飛び込んでくる。まるで星空に輝く月とその一番星。


 ダンスホールの中央には、ゼーレが幼い頃から憧れていた人間の世界が広がっていた。しかし、たとえ同じ場所に立っていても、魔族である自分には決して越えられない分厚い壁が、そこにはあるように思えた。


 優雅に回るダンスの最中、アーサーの視界にふと、ホールの隅が映った。きらびやかな光の届かない壁際に、ゼーレがひとり立っている。誰とも言葉を交わさず、ただこちらを見つめているようだった。


 アーサーは一瞬だけ視線を向けたものの、すぐに目の前の美しい令嬢へと目を戻した。


 魔王という絶対的な存在の娘を妻に迎えたことに、彼は少なからず恐怖を抱いていた。だからといって、ゼーレに恥をかかせたいわけでもないはずだった。ただ、どう接すればいいのか分からないまま、気づけば彼女をひとりにしていた。そんなことを、アーサーはほんの一瞬だけ頭によぎった。


 やがて曲が終わった。


 アーサーが令嬢の手を離すや否や、次の相手を望む令嬢たちが一斉に彼のもとへ集まってきた。「次はわたくしの番でございますわ」「いいえ、先ほどお約束いただいたのはわたくしですわよ」と、まるで順番を争うような賑わいである。


 アーサーは困ったように笑いながらも、誰かひとりを選んで手を差し出した。「お待たせして申し訳ありません。次の一曲はぜひ、美しいあなたと」と、甘い言葉を添えた。そんな彼の振る舞いは、ゼーレにとって少しばかり胸の痛む光景ではあったが、どこか興味深い見物でもあった。


 一曲終われば、また次の一曲。それが延々と繰り返され、アーサーの周囲から令嬢たちが途切れることはなかった。ゼーレはそんな彼を眺めながら、いつかこちらを気づいてダンスを誘ってくれるんじゃないかって、甘くて淡い期待を捨てきれずにいた。


「アーサー様、やはり魔王の娘を妻に迎えるなど、無理があったのではございませんか?」

「まあ。ご結婚されたばかりだというのに、今夜も以前と変わらぬご様子ですものね。奥様を大切になさっているのかしら」

「魔王の娘ですもの、何をされるか分かりませんわね。ふふっ」

「それは恐ろしい。魔王様までお怒りになったら、我々では手に負えませんな。ははは」


 華やかなダンスの陰で、そんな声がゼーレの耳に届いた。囁き声のようでいて、決して聞き取れないほど小さくはない。むしろ、ゼーレに聞かせることを楽しんでいるかのように、人々はわざとらしく声を張り上げていた。


 魔族を恐れ、蔑み、まるで化け物のように扱う言動に、ゼーレは唇をきゅっと結んだ。言い返すことなどできるはずもない。ゼーレは心得ていた。姫たるもの、王子妃たるもの、いかなる状況でも優雅に、そして堂々と振る舞わなければならない。たとえ反論したいことがあろうとも、それは胸の内に留めるべきだ。己の感情で、大局を見誤ることなどあってはならない。


 ただ、もしかしたら、自分がこの場からいなくなれば、少しは気持ちも落ち着くのではないだろうか。自分がこの場からいなくなっても、誰も気づかないのではないだろうか。アーサーも、令嬢たちも、周囲の人々も。そう思ったゼーレは、誰にも気づかれないよう、そっと壁伝いにホールを抜け出した。


 会場の外へ出ると、華やかな音楽と人々の笑い声が遠ざかっていった。夜の爽やかな空気が頬を撫で、ひんやりと鼻先をかすめる。ゼーレは深く息を吸い込むと、ドレスの裾を持ち上げ、馬車の停車場まで駆けていった。目を凝らし、自分が乗ってきた馬車を探す。待機していた御者に声をかけると、まさかこのタイミングで戻ってくるとは思わなかった御者はぎょっとして声を上げたが、ゼーレは申し訳なさそうに小さく会釈し、静かに馬車へ乗り込んだ。今はただ、この場から離れたかった。


 馬車が夜の王都を走り始めた。窓の外には、澄み渡った夜空が広がっていた。マギナで見るものと何ひとつ変わらない星々が、ゼーレのこの気持ちなど知る由もなく、美しく輝いていた。町ゆく人々もまた、何も変わらぬ穏やかな夜を過ごしていた。


 ゼーレにとって、自分から逃げ出すのは初めてのことだった。姫としても、王子妃としても、このあるまじき振る舞いだを父に知られたら、きっと怒られてしまうんだろう。そんなことを思いながら、ゼーレは窓辺に寄り、静かに空を見上げた。


 夜空は誰かを選んだりしない。人間も魔族も、動物も植物も分け隔てなく同じ星の光で照らしてくれる。いつか、アーサーと一緒にこの星空を眺められたらいいな。そんなささやかな願いを胸に、ゼーレはひとり、帰路についた。

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