8. 逃げない決心
逃げることは、決して悪いことではない。しかし、一度逃げることを許してしまえば、二度目もある。それをよく理解しているゼーレは、余計なことを考えずに済むよう、日々を学びで埋め尽くすことにした。
アルカディアの歴史、地理、文化、ダンス、語学。それらに加え、アルカディアの剣術と社交術も新たに教わることにした。逃げずに、この国と向き合う。それが今の自分にできる最善のことだと思った。
「社交術につきましては、文化の先生が引き続き教えてくださるとのことでございます。しかし、剣術をお引き受けくださる方は、お一人しか見つかりませんでした。なにぶん、令嬢で剣術を嗜まれる方はほとんどいらっしゃいませんので……」
アルバートは眼鏡を押し上げながら、そう告げた。
「あら、どなたでも構いませんわ! アルカディアの剣術を学べるのでしたら」
ゼーレは内心、たしかに普通の令嬢なら剣術など嗜まないだろうと思い、苦笑した。とはいえ、王子妃に剣術を教える役目を引き受けた、たった一人の師なのだから、相当な腕前の持ち主に違いない。そう考えると、どのような人物なのか、少し興味が湧いてきた。
「その方に、ぜひともよろしくお伝えくださいませ」
アルバートは「かしこまりました。その旨、お伝えしておきます」と答えた。
こうしてゼーレは、宮廷舞踏会を終えてから、いっそう忙しい日々を送るようになった。アーサーから愛情を向けられなくとも、ここで逃げ出すわけにはいかない。そう自分に言い聞かせながら、目の前の学びに没頭した。
朝食を済ませると、すぐさま授業が始まった。歴史の講義が終われば地理、その次は語学。休む間もなく先生が入れ替わり、気づけば昼食の時間さえとうに過ぎていた。食事を口に運ぶ暇も、水を飲むことさえ忘れるほどだったが、ゼーレは一度も弱音を吐かなかった。この国のことをもっと知りたい。その思いが、疲れを忘れさせていた。ひと通りの授業を終えた頃には、すっかり午後になっていた。
「奥様、剣術の先生がお見えになりました」
「今すぐ参りますわ!」
ゼーレは急いで迎賓室へと向かった。扉が開かれると、そこには背筋をすっと伸ばし、凛とした佇まいで彼女を待つ騎士団長、ルーカスの姿があった。
「マギナの月、ゼーレ王子妃殿下。先日ぶりでございます」
ルーカスは片膝をつき、ゼーレの足元で深々と頭を垂れた。それを見たゼーレは、慌てて彼の手を取り、立ち上がるよう促した。
「先生を引き受けてくださったのが、ルーカス様だったなんて! とても嬉しいですわ!」
「こちらこそ、マギナの姫騎士様と手合わせできるとは、光栄の極みです」
「手合わせだなんて。わたくしは、アルカディアの剣術を学びたいだけですわ」
ようやく安堵したのか、ゼーレは嬉しそうに笑った。それを見たルーカスも、つられるように口元を緩めた。
「では早速、殿下の腕前を拝見させていただきましょう」
開けた裏庭の剣術場で、ルーカスはゼーレに剣を手渡すと、さっそく手合わせを申し出た。
ゼーレは手の中の剣を見つめた。こうして剣を握るのは、いったいいつぶりだろう。アーサーの妻になると決めたゼーレは、アルカディアへ嫁ぐ際、自分の剣を持ってくることはなかった。憎悪と殺伐に満ちた世界から離れたい。そんな思いが、自分でも気づかぬうちに表れていたのかもしれない。しかし今、アルカディアの剣術に向き合うこともまた、その逃げ道を断つことにつながるのだろう。
そう思ったゼーレは、剣を顔の前に掲げ、切っ先を天へと向けた。ひと呼吸置き、構えを解くように剣を振りかぶると、一気に斬りかかった——彼になら、全力を出せる。
ゼーレの渾身の一撃を、ルーカスは軽々と受け止めた。鋭い金属音が裏庭に響き渡る。剣が交わるたび、二人の足が地を蹴り、間合いが目まぐるしく入れ替わる。ゼーレが踏み込めばルーカスはそれを受け流し、ルーカスが切り込めばゼーレは紙一重でかわす。互いの剣筋を読み取るかのように、攻防は途切れることなく続いた。剣に込められた力は重く、踏み込みは雷光のように鋭い。気づけば、周囲の空気を震わせるほど、荒々しくも高度な剣戟が繰り広げられていた。
しかし、久しぶりに剣を握ったゼーレの体力は、長くは持つはずもない。目の前の強敵に夢中になるあまり、呼吸が乱れ、足取りもわずかに鈍る。息を整えようとした一瞬の隙に、ルーカスの姿を見失った。
「しまった……!」
気づいたときには、ルーカスの剣が背後から伸び、ゼーレの首筋すれすれでぴたりと止まっていた。
ゼーレにとって、こんな経験は初めてだった。人間でありながら、自分よりも大きく、たくましい。背中越しに伝わる圧倒的な存在感に、胸が高鳴ったゼーレは嬉しそうに顔を上げ、背後に立つルーカスを振り返った。
「お見事! やっぱり剣は最高に楽しい!」
満面の笑みを向けられたルーカスは、思わず頬を赤らめた。はっと我に返ると、慌てて「申し訳ございません」と詫び、剣を下ろした。手合わせに夢中になるあまり、王子妃の首元に剣を突きつけるなど、アルカディアの騎士にとってはあってはならないことだ。
それでも、ルーカスの胸には抑えきれない喜びが込み上げていた。かつて彼の目に鮮烈に焼きついた、血にも屈しない凛としたマギナの姫が今、目の前で笑い、自分と剣を交えてくれたのだ。これほど嬉しいことはない。
「さすがアルカディアの騎士団長ですわ! わたくしでは、とても敵いませんもの」
「いいえ。姫様こそ、実に見事な剣さばきでしたよ」
ルーカスはそう言いながら、ゼーレに貸した剣を鞘に収めた。ゼーレは「姫様」という呼び方に、わずかに首を傾げたものの、たしかに自分は姫でもあるのだからと、特に気に留めなかった。
「ルーカス様こそ、わたくしがこれまで戦った相手の中で、一番しっくりくる剣の相手でございますわ! あら、こんなことを申し上げるのは失礼かしら……でも、本当にお強くて、かっこいいです!」
ゼーレが屈託なく褒めると、ルーカスはふいに彼女から目を逸らした。
「申し訳ございません……今の発言、失礼でしたでしょうか」
「いいえ、そんなことありません……」
ルーカスは再び片膝をつき、ゼーレの手を取ると、その甲にそっと口づけた。
「これ以上に嬉しいことはありません」
そう呟いた彼は、まるで少年のような笑顔でゼーレを見上げた。
金色に輝く夕陽が、二人の間を柔らかく照らしていた。慌ただしく、息つく暇もない一日だった。それでも、剣を交えた時間は何より楽しく、逃げずに向き合えたことが、ゼーレにはたまらなく嬉しかった。
ゼーレは、少年のように笑うルーカスに、曇りのない笑顔を返した。額に汗をにじませながら、心から楽しそうに笑うその姿は、ルーカスの目には何よりも美しく映った。高貴な姫でありながら、飾り気のない純粋な笑顔を浮かべる彼女から、目を離せずにいた。




