5. 努力
ソレイユ邸での暮らしにもすっかり慣れたゼーレだったが、日々の暮らしには思いのほか、やるべきことがたくさんあった。
「王子妃殿下、本日もお勉強のほど、よろしくお願い申し上げます」
アルバートを通じてアーサーから渡された王子妃としての責務。それは、アルカディアのあらゆることを知り尽くすことだった。そのため、数多くの貴族や王族の教育に携わってきたアルカディア随一の教師ジュリアンが毎日ソレイユ邸を訪れ、特別にゼーレに個人授業を行っていた。
「はい、本日もよろしくお願いいたしますわ、ジュリアン様」
ゼーレは嬉しそうに一礼した。なにしろ、アーサーから与えられた『王子妃』としての務めである。何があろうと、ひとつ残らず学び尽くすという意気込みは十分だった。
「では、復習とまいりましょう。我がアルカディア王国の特産品は何でしょうか?」
「金属でいえば金や銀、農作物では大麦やライ麦などがございます。地域によっては果物の栽培も盛んで、種類も豊富ですわ。それから、宝石の産出にも恵まれております。魔法杖に用いられる太陽石の名産地でもありますし、香辛料も大変有名でございまして……」
「さすが殿下でございます。まさか、もうすべて覚えていらっしゃるとは」
「もちろんですわ。わたくし、アルカディアのすべてを知るつもりでおりますもの!」
ゼーレは自信満々に胸を張った。アーサーから与えられた課題とあれば、何ひとつ疎かにするつもりはなかった。
「それでは、本日の地理、歴史、語学の授業は以上でございます。明日までに、今日学んだことを復習しておいてくださいませ」
「ええ、もちろんですわ!」
通常ならば苦労するはずの妃教育を、ゼーレは驚くほど軽やかにこなしていた。これまで多くの王族の妃教育を担当してきたジュリアンでさえ、その吸収の早さには目を見張るものがあった。
「奥様、次のお支度が整いましたので、こちらへどうぞ」
アメリアがゼーレに声をかけた。ふたりが向かった先は、屋敷の厨房だった。
「奥様のご希望どおり、本日はゴードンがクッキーの作り方をご指南いたします」
「やったー! ゴードンのクッキー、本当においしいんですもの。わたくしも作れるようになって、アーサー様にも召し上がっていただけたら嬉しいですわ!」
ゼーレは袖をまくり、アメリアにエプロンをつけてもらうと、「アメリアとイザベラも一緒にやりません?」とふたりを誘った。
「そのような恐れ多いことは……。私どもはあくまでお仕えする身でございます。奥様とご一緒に料理をするなど、とても……」
「もう、そんなことおっしゃらずに! さあ、一緒にやりましょう!」
ゼーレは片手でアメリアの、もう片方の手でイザベラの手を取り、ふたりをクッキー作りの作業台へと引っ張っていった。最初は戸惑っていたふたりも、やがて顔を見合わせ、どこか諦めたような、それでいて微笑ましげな笑みを浮かべた。
「では、奥様。まずはこちらのボウルに卵を割り入れてくださいませ」
「お任せください!」
ゼーレは自信満々だった。マギナの民を守ってきた姫騎士にとって、卵を割ることなど造作もない。そう思ったゼーレは、卵をひとつ手に取ると、力いっぱい握りしめた。
卵は無残にも砕け散り、殻は粉々になってボウルの中へ。卵白と卵黄もすっかり混ざり合い、どちらがどちらなのかもわからなくなってしまった。ゼーレは「ふん」と鼻を鳴らし、どうだと言わんばかりにゴードンを見た。ゴードンは唖然としていた。続いてアメリアとイザベラに目を向けると、ふたりも口を開けたまま固まっていた。
やがて、ぷっと吹き出す声が聞こえ、三人はとうとう笑い出してしまった。
「も、申し訳ございません、奥様。つい笑ってしまいました。王女殿下がご自身で料理をなさる機会など、そうそうございませんものね」
アメリアは慌てて表情を引き締め、深く頭を下げた。
「そ、それなら、お手本を見せてくださいませ!」
ゼーレは少し恥ずかしかった。けれど、彼らが笑ってくれたことが何より嬉しかった。これまで、使用人たちの笑顔を見たことはなかったのだから。
ゴードンは手本を見せるように、卵をこんこんと軽く叩き、両手で殻を割って中身を別のボウルへ落とした。初めて見る鮮やかな手つきに、ゼーレは「おお……!」と感嘆の声を漏らした。
アメリアもイザベラも、ゴードンも、魔王の娘が突然クッキーを作りたいと言い出したときには、一体どうなることかと思っていた。けれど、いつの間にか、三人ともこの時間を楽しんでいる自分に気づいていた。
「これで、できあがりですわ!」
初めてのクッキー作り――アルカディアの名産であるライ麦を使ったクッキーは、皆の協力もあって、見事に焼き上がった。
四人は焼きたてのクッキーを手に取り、ふうふうと息を吹きかけてから口に運んだ。すると、あちらこちらから「おいしい!」という声が上がり、自然と笑い声が広がった。
「こちらを、アーサー様にお渡しいただけないでしょうか?」
ゼーレは焼き上がったクッキーを見つめながら、そう頼んだ。
「せっかく奥様がお作りになったのですから、奥様ご自身でお渡しになるのがよろしいかと存じますが」
「それでは、きっと召し上がっていただけませんわ。せっかくのクッキーがかわいそうですもの」
アメリアとイザベラは、クッキーを見つめるゼーレの顔を見た。少し寂しそうに微笑む彼女を前に、ふたりはそっと目を合わせた。
「……かしこまりました。私どもから、ディナーの後のお茶とともにお出しいたしましょう」
夜。アーサーはいつもどおりの時刻に帰宅した。
しかし、いつものように階段の陰で待ち構えているゼーレの姿がなく、わずかに気に留めたようだった。
「本日はゼーレ様がディナーをお召し上がりにならないとのことでございます。旦那様はいかがなさいますか?」
アーサーは一瞬だけ動きを止めたが、すぐに「……ならば、いただこう」と答えた。上着をアルバートに預けると、そのまま晩餐室へと向かった。
アーサーにとっては、久しぶりの自宅でのディナーだった。黙々と料理を口に運び、あっという間に食事を終えると、食後のお茶と菓子が運ばれてきた。その様子を、ゼーレは少し離れた場所からこっそりと窺っていた。すぐ隣には、何も言わずに付き添うアメリアの姿もあった。
アーサーがクッキーを口にした。たったそれだけのことなのに、ゼーレの胸は弾けてしまいそうなほど高鳴った。
「覗いているのはわかっている」
突然、アーサーがお茶を口に運びながら声を上げた。ゼーレはびくりと肩を震わせた。
「こちらへ来る必要はない。明日は王宮で重要な舞踏会がある。王子妃である君も出席しなければならない。夕刻に馬車を迎えにやる。支度を整えて王宮へ来るように」
そう告げると、アーサーは口元を拭い、晩餐室を後にした。
「アーサー様に話しかけていただけた! しかも、一緒に舞踏会だなんて……!」
ゼーレは驚きと喜びが入り混じり、なんとも言えない表情を浮かべていた。緩みきった口元を、どうしても引き締められない。しかし、その隣ではアメリアが少し焦った様子で顔を曇らせていた。
「奥様、浮かれていらっしゃる場合ではございません」
「え?」
「アルカディアの宮廷舞踏会は、大陸でも随一の華やかさを誇るといわれております」
「はぁ……」
「貴族のご令嬢方は、この日のためだけに半年以上も前から準備を重ねていらっしゃいます」
「半年……?」
「ドレスはもちろん、髪の結い上げから化粧に至るまで、すべてを最高のものに整えるため、半年前から名のある職人や美容師の予約を押さえておられるのです。つまり、奥様には今、宮廷舞踏会にふさわしいドレスもございませんし、急なご依頼を引き受けてくださるような腕の立つ髪結い師もおりません」
先ほどまで浮かれていたゼーレは、一瞬にして天国から地上へ突き落とされたような気分になった。
持ってきた衣装は、どれもマギナで身につけていたものばかり。それを着て宮廷舞踏会に出席すれば、王子妃として場違いであることは考えるまでもなかった。とはいえ、間に合わせのドレスでソレイユの名に泥を塗るわけにもいかない。……それなのに、前日の夜になってようやく知らせるなんて。ゼーレでさえ、少しばかり意地悪に思えてしまった。




