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4. 彼の隣に立つために

 早朝、マギナではあまり耳にしない小鳥のさえずりが聞こえ始めた頃、ゼーレはぱっと目を覚ました。


 ここ最近では珍しい、すっきりとした目覚めだった。


 ベッドから降りると、すぐさま部屋に乱雑に積まれた荷物を漁り始めた。しばらくして「あったー!」と弾んだ声を上げると、一冊のノートを見つけ、満足げに高く掲げた。


 それは、ゼーレが幼い頃から使っている、自分だけの秘密のノートだった。周囲の者たちの誕生日や好み、ちょっとしたエピソードなどを、思いつくままに書き留めている。父から「相手のことをよく知り、気にかけることが大切だ」と教えられて以来、ずっと続けてきた習慣だった。戦士として剣を振るうこともあるゼーレには、少しばかり乙女らしすぎる趣味かもしれない。それでも、時と場に応じて淑女らしく振る舞うことも、王女として大切な務めのひとつである。こちらに来てからも続けようと思っていたのだが、連日の予想外の出来事ですっかり忘れてしまっていた。


「おはようございます、奥様。……今朝はずいぶんとお早いお目覚めでございますね。朝食の前に、お仕度を整えさせていただきます」


 ゼーレを起こしに来たアメリアは、いつもより早く起きている彼女を不思議そうに見つめながら、恭しく一礼した。


「あら、おはようございます! アメリア、今日は朝食を用意しなくてよいと、シェフに伝えていただけますか?」

「朝食をお召し上がりにならないのでございますか?」

「ええ、そうですわ! 今日はやりたいことがたくさんありますの。ですから、朝食は遠慮しておきますわね」


 どうせ朝食をアーサーと一緒に食べられないのなら、その時間を使ってノートに新しいことを書き記そう。そう考えたゼーレの勢いに、アメリアは少し戸惑ったものの、すぐに「……かしこまりました」と答えた。


 ゼーレはその間に、自分で動きやすい服へと着替えた。選んだのは、かつてマギナで流行した人間の『田舎娘風』の装いだった。ふくらはぎまである花柄のワンピースに、なんとエプロンまで添えられた、田舎の娘を忠実に再現したような格好である。


「ふふっ、これで今日は一日、思いきり動き回れますわ!」


 ゼーレは胸の前で小さく拳を握った。昨日までとは打って変わって、その瞳には生気とやる気が満ちあふれていた。


「奥様、そのお召し物は……」

「アメリア! ちょうどよいところに戻られましたわ。これからお尋ねすることに、ぜひ答えてくださいませ!」


 アメリアは「はあ……」と曖昧に返事をし、首を傾げた。


「では、まずはアメリアの誕生日を教えてくださいませ!」

「えっと、一月七日でございます」

「ほうほう、なるほど。やぎ座ですわね。では次に、アメリアの好きな色は何色でしょう?」

「淡い紫色でございます」

「あら、素敵な色ですわね! では、好きな食べ物は?」

「お肉でございます」

「まあ! 奇遇ですわね。わたくしもお肉が大好きですの!」


 矢継ぎ早に繰り出される質問に、アメリアは戸惑いながらも、ひとつひとつ答えていった。主人からの問いかけに、使用人がそう簡単に断るわけにもいかない。ゼーレはその答えを聞くたびに、嬉しそうにノートへ書き留めていった。


「ありがとう、アメリア! 今日、あなたのことをたくさん知ることができて、とても嬉しいですわ。もうわたくしの付き添いは結構ですから、あとは好きに過ごしてくださいませ!」


 満面の笑みで礼を告げると、ゼーレはノートを手に、風のような勢いで部屋を飛び出していった。何が起きたのかまだ飲み込めず、アメリアは荷物の散乱した部屋にひとり、ぽつんと取り残された。


「イザベラ! あなたのお誕生日を教えてちょうだい!」

「イアンは、まだ十六になったばかりなのに、立派な庭師なのですね! 素晴らしいことですわ。好きなお花はありますか?」

「アルバートはダンスがお好きなのですね!」

「ゴードンは、毎日あんなに素晴らしいお料理を作ってくださるのですね! いつもとてもおいしいですわ。ところで、ゴードン自身はどんな食べ物がお好きなのですか?」


 ゼーレは屋敷の隅々まで足を運び、使用人たちのことを次々と尋ねて回った。そして、新しく知ったことをひとつ残らずノートに書き足していく。その表情は、まるで宝物を集めているかのように楽しげだった。


 屋敷中を全速力で駆け回ったゼーレは、ようやく疲れを覚え、庭のパーゴラに置かれた椅子へ腰を下ろした。


 パーゴラからは、イアンが一生懸命に花園の手入れをする姿が見えた。その小さな背中が、なんだか微笑ましい。まだ十六になったばかりだというのに、すでに一人前の庭師としてソレイユ邸を任されている。それだけの才覚があることは、ゼーレにもよくわかっていた。そんな若き庭師が、今日はいつになく困った様子で、あちらこちらと落ち着きなく動いている。


「どうなさいました?」

「あっ、奥様! まだいらっしゃったんですね」

「ええ、少し休んでいたところですわ。それで、何かお困りごとでも?」

「実は……」


 イアンは植え込みの中にある、青々とした茎を指さした。


「この北国のひまわりなんですけど、ここまで育ったのに、どうしてもこれ以上伸びなくて……。水や土を変えてみたり、日当たりを調整したり、いろいろ試してみたんですけど、全然駄目なんです」


「なるほど、そういうことでしたのね! それなら……」


 ゼーレは袖をまくり、ひまわりの茎にそっと手を添えた。「ふうん……」と目を閉じ、意識を集中させる。すると、黒い角がわずかに赤く輝き、手元のひまわりがみるみるうちに成長していった。やがて茎の先には、小さな黄色い花が顔をのぞかせた。あまり人前で披露するような姿ではないと思い、普段は魔力を使うことを控えていた。けれど、今日はなぜか、そうすることにためらいはなかった。


「す、すごい……! こんなことができるなんて、初めて見ました!」

「ふふっ、これくらい、どうということはありませんわ!」


 目を丸くするイアンに、ゼーレは嬉しそうに笑った。誰かの役に立てることが、こんなにも嬉しいものだったなんて。いつの間にか、忘れかけていた気持ちだった。イアンの目に映るのは、恐ろしいはずの魔族の角ではない。植物に新たな命を吹き込んだ、不思議な力の輝きだった。その姿は、彼の目には魔物どころか、まるで天使のようにさえ映っていた。


「そろそろ部屋に戻るといたしましょう」


 久しぶりに魔力を使ったせいか、ゼーレは少し疲れを感じていた。それに気づいたイアンは、とっさに「奥様、少しだけお待ちください!」と言い残し、どこかへ駆けていった。しばらくすると、今度は両手に美しい花束を抱え、息を弾ませながら戻ってきた。


「奥様、よろしければ、こちらを受け取ってください! ひまわりがあんなに元気に育ってくれて、すごく嬉しくて……。僕にできるお礼なんて、これくらいしかなくて申し訳ないんですけど」


 ゼーレにとって、それもまた思いがけない出来事だった。人間の世界で、誰かから感謝の言葉を向けられたのは初めてだった。差し出された美しい花束は、あの結婚式で手にしたブーケよりも、ずっと美しく、輝いて見えた。そっと花束を受け取るゼーレを前に、イアンは照れくさそうにうなじを掻いた。


「それに……僕のことを知ろうとしてくれたのが、何より嬉しかったんです」


 予想もしなかったことばかりで、ゼーレは胸がいっぱいになった。嬉しさに頬が緩み、目尻にはかすかに涙が滲む。視界がぼんやりと滲んでいった。


 楽しいことばかりだった一日の締めくくりに、ゼーレは遠くからアーサーの姿をひと目見ようと、扉からは見えない廊下の端に身を潜め、彼の帰りを待つことにした。


 やがて馬車の音が聞こえ、アルバートが門を開く。そこには、昨日と同じようにアーサーの姿があった。ゼーレは廊下の陰からそっと彼を見つめた。それだけで、今日一日の嬉しさがさらに膨らんでいくようだった。今、声をかけたり、姿を見せたりすれば、せっかくの一日を終えた彼を疲れさせてしまうかもしれない。そう考えたゼーレは、ひとまず今はこの距離を保ったまま、穏やかに過ごせればよいと思った。そんな気持ちで彼の姿を追っていると、まるで最初からそこにいることに気づいていたかのように、アーサーは扉から数歩進んだところで足を止めた。そして、ふいに顔を上げ、ゼーレのいる方へ鋭い視線を向けた。


「ひっ!」


 ゼーレは思わず声を漏らし、慌てて廊下を駆け抜け、自室へと逃げ帰った。


 見てもらえることは嬉しいはずなのに、ゼーレはもはやアーサーにどう向き合えばよいのかわからなくなっていた。ただ、胸の鼓動だけがいつまでも激しく鳴り続けている。それにしても、あの美しい瞳に見つめられることには、まだまだ慣れそうになかった。


 そんな、言葉を交わすことのない『攻防』が、何日も何日も続いたのであった。

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