3. 夫婦という名の他人
第二王子アーサー・ソレイユには、自分の屋敷がある。二人の王子のうち、第二王子であるアーサーに与えられたその屋敷は、宮殿と見紛うほど立派なものだった。広々とした庭には季節ごとに花が咲き、手入れの行き届いた生垣が美しい曲線を描いている。これからゼーレもまた、ここでアーサーと生涯を共にすることになる。愛する人と暮らす新しい我が家。そう思うだけで、ゼーレの胸は期待に膨らんでいた。
「ようこそ、ソレイユ様のお屋敷へ。奥様」
用意された馬車を降り、正面玄関をくぐると、屋敷の者たちが出迎えてくれた。皆、身なりを整え、主人の妻となったゼーレを迎えるにふさわしい礼儀正しい姿勢を保っていた。緊張していたゼーレもまた、初めて「奥様」という呼び名に頬が照れてしまい、心の高鳴りが止まりそうになかった。
「私は執事のアルバートでございます。こちらはメイドのアメリアとイザベラ。奥様のお世話は、主にアメリアが担当いたします。何かご不便なことがございましたら、遠慮なくお申しつけくださいませ」
白髪に眼鏡をかけた長身の執事、アルバートが穏やかな口調で紹介してくれた。年齢を重ねた者ならではの落ち着きがあり、立ち居振る舞いにも無駄がない。長年、王族に仕えてきたのだろう。その手慣れた様子に、ゼーレは感心しながら、皆に向かってにっこりと笑顔を見せた。
「初めまして! マギナからやってきました、ゼーレと申します。皆さま、これからはよろしくお願いします」
そう言って、人間の作法を真似て丁寧に一礼した。
しかし、返ってきたのは控えめな会釈と事務的な挨拶だけだった。誰一人として、ゼーレの笑顔につられて微笑むことはなかった。
マギナでは、誰かが笑えば、周りの者も自然と笑顔になる。挨拶をすれば、明るい返事が返ってくる。それが当たり前だったゼーレにとって、これは少々意外なことだった。もしかして、使用人は主人の前で笑ってはいけない決まりでもあるのかな。それとも、やっぱり角が怖いのかな? と考えてしまった。
「奥様のお荷物は、ほかの者たちがお部屋まで運びます。まずは私が、お部屋と屋敷の中をご案内いたしましょう」
「ありがとうございます、アルバートさん」
ゼーレは素直に礼を述べ、アルバートの後をついていった。玄関ホールの中央には、二階へと続く大きな階段が伸びている。壁には額縁に収められた王家の肖像画がいくつも飾られ、天井からは豪奢なシャンデリアが吊るされていた。どこを見ても立派な造りで、ゼーレは思わずきょろきょろと辺りを見回した。
案内されたのは、二階の西側の奥にあるお部屋だった。
扉を開けると、そこには寝台や化粧台、衣装箪笥、書き物机など、生活に必要な家具が一通り揃っていた。広さも十分で、大きな窓からは庭を一望できる。陽当たりもよく、朝になれば気持ちのよい光が差し込むだろう。マギナの自室と比べればいささか手狭ではあるが、それは比べるほうが酷というものだ。家具はどれも古い様式で、木目も落ち着いた色合いになっていた。表面はところどころ色褪せていたが、ゼーレにはそれがかえって新鮮だった。人間の国でいう、レトロな趣があって嬉しいとさえ思った。
ゼーレはさっそく窓の外の眺めを確かめようと窓辺へ駆け寄り、閉じかけていたカーテンを勢いよく開いた。すると、ふわりと埃が舞い上がった。
「けほっ、けほっ……!」
思わず吸い込んでしまい、ゼーレは口元を押さえて咳き込んだ。よく見ると、カーテンの裾には薄汚れた染みがあり、窓枠の隅にも埃が溜まっている。
これが人間社会の洗礼というものか。ゼーレは目を少し潤ませながらも、前向きに考えることにした。人間の世界で暮らすのだから、多少の驚きはつきものだ。きっと、これから少しずつ綺麗にしていけばいい。自分でできることなら、自分でやってみるのも楽しそうだ。
「ところで、アーサー様もこちらのお部屋を使われるんですか?」
ゼーレは期待を込めて、アルバートを振り返った。夫婦なのだから、寝室も一緒になるのだろうか。いや、さすがに最初から同じ寝台ということはないかもしれないけれど、せめて隣の部屋くらいには……。そんな想像が頭の中をくるくると巡る。
「いいえ。ソレイユ様は、これまでどおり東側のお部屋をお使いになるかと存じます」
「東側……?」
ゼーレは部屋の入口から廊下の向こうを覗いた。屋敷は外から見たとおり、アルカディアではよく見られる左右対称の造りになっている。先ほどここまで歩いてきた距離を思い返すと、反対側まで行くだけでも相当な道のりになりそうだった。
「ここからずいぶん遠いんですね……」
思わず、しょんぼりと声が漏れた。
同じ屋敷に住むのだから、もっと近くにいられると思っていた。扉を開ければすぐ隣に彼の部屋がある、なんてことも想像していたのに、どうやらそうはいかないらしい。夫婦なのに、部屋は建物の反対側。そう考えると、なんだか少し寂しかった。
もちろん、結婚したからといって、すぐにすべてが変わるわけではない。アーサーにも長年の暮らしがあるのだし、急に生活を変えるのは大変なのだろう。そう思えば納得できる。きっと、少しずつ距離を縮めていけばいいのだ。
ゼーレはぱっと顔を上げた。
「教えてくださってありがとうございます! これから、どうぞよろしくお願いしますわ!」
今度もまた、満面の笑みで深く一礼した。アルバートは胸に手を当て、礼儀正しく頭を下げる。
「では、何かございましたら、いつでもお声がけくださいませ。どうぞごゆっくりお過ごしください」
そう言い残すと、アルバートは静かに部屋を後にした。扉が閉まると、部屋の中はしんと静まり返った。
初めてこの屋敷で過ごす夜は、ゼーレが想像していたものとは少し違っていた。荷物は運び込まれたものの、まだ片づけも済んでいないまま乱雑に置かれていた。静かな部屋には、窓の外から時折、風が木々を揺らす音が聞こえてくる。屋敷そのものが、どこまでも静かだった。
それでも、大きな窓から見上げた星空と月は、マギナで見ていたものと何ひとつ変わらなかった。遠い異国の空の下でも、月は同じように輝いている。そのことに、ゼーレは少しだけほっとした。
「明日こそ、早起きしてアーサー様と一緒に朝ごはんを食べなければ!」
そう考えた途端、沈みかけていた気持ちが一気に浮き立った。朝食くらいなら、きっと一緒に食べられるはず。夫婦なのだから、食事くらいは同じ時間を過ごせるだろう。
どんな食べ物がお好きなのかな。考えれば考えるほど胸が弾み、ゼーレはベッドに潜り込んで布団を頭まですっぽりとかぶった。そして、誰もいない部屋で、ひとり、いひひ、と笑った。明日になれば、今日よりもきっとアーサーとの距離を縮められる。そう信じながら、ゼーレは幸せな想像に包まれて眠りについた。
そして、翌朝。
アメリアに起こされたゼーレは、身支度を整えてもらうと、期待に胸を膨らませながら朝食へと向かった。長いテーブルが置かれた、晩餐会にも使えそうな広々としたダイニングルームの高い天井には煌びやかな装飾が施され、窓から差し込む朝の光が、磨かれた銀食器をきらりと照らしていた。
それなのに、テーブルの上に用意されていた朝食は、たった一人分だった。
「あれ……?」
ゼーレは足を止め、部屋の中を見回した。アーサーの姿はどこにもない。椅子も一つしか引かれておらず、食器も料理も、すべてゼーレの分だけが整えられていた。
「アーサー様は、いらっしゃらないんですか?」
「ソレイユ様は朝早くにお目覚めになり、すでに朝食を済ませて騎士団へ向かわれました」
「えっ……もう?」
ゼーレは思わず時計を見た。まだ朝の早い時間ではあるけれど、まさか自分が起きる前に出かけてしまうとは思っていなかった。
「そ、そうなんですね……」
期待していた朝食は、あっけなく一人きりのものになった。目の前に並んでいる焼きたてのパンに卵料理、色鮮やかな果物、どれも美味しそうで、きっと素晴らしい味がするはずだった。けれど、ゼーレの胸は少しだけ、ぎゅうっと締めつけられた。昨日の結婚式であんなことを言われたのだから、すぐに仲良くなれるとは思っていなかった。それでも、同じ食卓を囲むくらいなら、できるのではないかと期待していたのだ。
……ううん、落ち込んでいる場合じゃない! ゼーレはぱん、と両手で頬を軽く叩いた。そうだ。朝が駄目なら、帰ってきたところで会えばいい。アーサー様だって、いつかは屋敷に帰ってくるのだから!
「いただきます!」
勢いよく椅子に座ると、ゼーレは朝食を口に運び始めた。パンを食べ、スープを飲み、卵料理を頬張る。どれも丁寧に作られた美味しい料理のはずなのに、どういうわけか味がよく分からなかった。それでも、せっかく用意してくださったのだから、残すわけにはいかない。ゼーレはもくもくと、まるで何かと戦っているかのように食事を続けた。
その様子をそばで見ていたアメリアは、少し面白そうに目を細めた。
そうと決まれば、あとは実行あるのみである。
アーサーがいつ帰ってきてもすぐに出迎えられるように、ゼーレは玄関ホールの大階段に陣取ることにした。階段の端にちょこんと腰を下ろし、正面玄関の扉がよく見える場所を確保する。これなら、馬車の音が聞こえた瞬間に飛び出せる。完璧な作戦!
そうして、ゼーレの待ち伏せ作戦が始まった。
窓から差し込む光は、太陽の動きとともに少しずつ傾いていった。朝の明るさが昼の光へと変わり、やがて窓辺の床に長く伸びていた日差しも短くなる。廊下を通る使用人たちは、時折、階段に座り込むゼーレを見かけたが、特に声をかけることもなく通り過ぎていった。ゼーレも、誰かが通るたびに笑顔で挨拶をした。最初のうちは、まだかな、そろそろかな、と何度も扉を見つめていたが、時間が経つにつれて、さすがに落ち着かなくなってきた。
昼になっても、アーサーは帰ってこなかった。
夕方になっても、帰ってこなかった。
やがて空が茜色に染まり、窓から差し込む光が薄暗くなっていく。ゼーレは頬杖をつき、うとうとしながらも、必死に眠気と戦っていた。ここで寝てしまったら、アーサー様が帰ってきたときに気づけない。せっかくの作戦が台無しになってしまう。そう思いながら、何度もぱちぱちと瞬きをする。
そのとき、ようやく屋敷の外から馬車の音が聞こえた。
「……っ!」
ゼーレは勢いよく顔を上げた。眠気など一瞬で吹き飛んだ。慌てて頬をぺちぺちと叩き、髪を整え、角を指で磨き、ドレスの皺を伸ばして、玄関扉の前にぴんと背筋を伸ばして立った。よし、完璧! 今日こそは、アーサー様に笑顔で「おかえりなさい」を言うのだ!
やがて扉が開き、待ち焦がれていたアーサーが姿を現した。長い一日を終えたばかりなのだろう。表情には疲れが滲んでいた。
「おかえりなさい、アーサー様!」
ゼーレは、これ以上ないほどの笑顔で迎えた。
予想していなかったのか、アーサーは一瞬だけ目を見開いた。けれど、それもほんの一瞬のことだった。すぐに視線を逸らすと、彼女の横を通り過ぎようとする。
「お荷物、持ちます!」
ゼーレは慌てて、アーサーが手にしていた上着に手を伸ばした。
「よせ。触るな」
冷たい声とともに、勢いよく手を振り払われた。
「あ……」
伸ばした手が、行き場をなくして宙に残る。アーサーはゼーレを見ようともしなかった。彼女が朝からずっと帰りを待っていたことなど、知る由もない。いや、たとえ知ったところで、彼の態度は変わらなかったのかもしれない。アーサーにとって、ゼーレはただ、望んでもいない結婚によって勝手に屋敷にやってきた魔物にすぎなかった。
「ソレイユ様、奥様。夕食のご用意が整っております」
ちょうどそのとき、執事のアルバートが静かに声をかけた。いつもと変わらない、淡々とした口調だった。けれど、今のゼーレには、その気まずい沈黙を破ってくれる言葉が救いのように思えた。
「わ、わあー! 夕食楽しみですね!」
ゼーレはどこかぎこちない明るさで声を弾ませた。せっかくアーサーが帰ってきたのだから、少しでも一緒に過ごしたい。食事の席なら、向かい合って話すこともできるかもしれない。そんな淡い期待を胸に、彼の顔をそっと見上げた。
「もういい。夕食なら王宮で済ませてきた」
「かしこまりました」
アーサーはそれだけ告げると、何事もなかったかのようにアルバートへ剣を預け、階段を上って東側の廊下の奥へと歩いていった。アルバートもまた、特に表情を変えることなく一礼し、主人の指示に従った。
残されたゼーレだけは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
(もしかして、わたしのせいで、アーサー様はご自分のお屋敷で夕食を取りにくくなってしまったのかな)
そんな考えが頭をよぎった。自分が来たことで、これまでの暮らしが変わってしまったのかもしれない。王宮で食事を済ませてきたのも、自分と顔を合わせたくなかったからなのだろうか。そう思うと、申し訳ない気持ちが胸の奥に広がった。
朝も昼も、そして夜も。広すぎる食卓に用意されるのは、ゼーレ一人分の食事だけだった。
「アメリアも、よかったら、一緒に食事しませんか?」
夕食の席についたゼーレは、そばに控えていたアメリアを見上げて尋ねた。目の前には、湯気の立つスープに、香ばしく焼かれた肉料理、色鮮やかな野菜が美しく盛りつけられている。どれも料理人が心を込めて作ってくれたものだろう。けれど、一人で食べるには、あまりにも静かで、あまりにも広すぎて、あまりにも多すぎた。
「申し訳ございません、奥様。メイドが主人と同じ食卓で食事をすることはございません。それに、こちらは奥様お一人のためにご用意したお食事でございますので」
「あっ……そうですよね。ごめんなさい、変なことを聞いちゃって」
ゼーレは慌てて笑顔を作った。アメリアは悪くない。決まりがあるのなら、仕方のないことだ。自分が人間の国の習慣を知らなかっただけなのだから。
「いいえ。どうぞ、ごゆっくりお召し上がりくださいませ」
アメリアは丁寧に一礼すると、少し離れた場所で控えた。
ゼーレは一人、ナイフとフォークを手に取った。静かな部屋に、食器の触れ合う小さな音だけが響いている。口に運んだ料理は、とても美味しいはずなのに、どうしても味がしなかった。
せっかく自分のために作ってくれたのだから、残してはいけない。食欲の湧かないゼーレは一口、また一口と食べ進め、黙々と食事を続けた。
夜になり、再び自分の部屋へ戻ったゼーレは、ベッドに横たわった。窓の外には、昨日と変わらない星空が広がっていた。月も星も、マギナで見上げていたものと何ひとつ変わらない。なのに、今日という一日は、まるで何も起きなかったかのように、何ひとつ手元に残らなかった。
夫婦になったはずなのに、まるで他人のようだ。
愛してもらえるように頑張ろう。そう決めて人間の世界へやってきたのに、そもそも自分を見てもらえなければ、どう頑張ればいいのだろう。何をすれば、アーサーは自分に目を向けてくれるのだろう。
考えても、答えは出なかった。
気づけば、目尻からこぼれた涙が耳元へと静かに伝っていた。ゼーレは慌てて手の甲で拭った。泣くつもりなどなかった。明日も頑張ると決めたばかりなのに。こんなことで泣いていたら、きっと父上に笑われてしまう。そう思うと、涙はますます止まらなくなった。
「……もう! アーサー様ったら、これくらいで私の気持ちがうなだれると思わないでね!」
ゼーレは小さな拳を上げた。
「……明日も、がんばろう」
ゼーレは、布団を顔まですっぽりとかぶった。誰にも見られないように、誰にも気づかれないように、小さく丸くなった。




