2. 祝福されない花嫁
純白のウェディングドレスを身にまとい、ブーケを両手で大切に抱えながら、ゼーレは大聖堂の扉の前で入場の時を待っていた。
幾重にも重なったレースが裾を飾り、胸元には繊細な刺繍が施されている。人間の国で流行しているデザインを参考に、何度も悩みながら選び抜いた、今日という日のためだけの、あの人の瞳に映る自分を思い描いて仕立てたドレスだった。
この扉を開けば、その先には、ずっと恋焦がれてきたアーサーがいる。ついに彼の花嫁になれるのだと思うと、ゼーレの胸は期待でいっぱいになった。緊張で指先が震えるのさえ、幸せの証のように思えた。
やがて、重厚な扉がゆっくりと開かれた。
高い天井に響き渡る荘厳な音楽と、両脇に並ぶ参列者たちの視線。その先、祭壇の前には、端正な礼服に身を包んだアーサーが立っていた。
何年ぶりだろう。幼い頃に遠くから見つめたあの王子様は、すっかり大人の男性へと成長していた。背丈は高く、礼服の上からでも鍛えられた体つきがうかがえる。艶やかなプラチナブロンドの髪も、涼やかな水色の瞳も、記憶の中の姿そのままだった。いや、あの頃よりもずっと美しい。ゼーレは思わず息をのんだ。胸の奥で、長年大切に温めてきた恋心が、今にも弾けてしまいそうだった。
けれど、彼女の姿が大聖堂に現れた瞬間、参列者たちの間に小さなざわめきが走った。
純白のウェディングドレス。その上に流れる、燃えるような深紅の髪。そして、頭の両側から堂々とそびえ立つ、漆黒の角。あまりにも鮮烈な色の対比は、華やかな婚礼の場でひときわ異彩を放っていた。美しい花嫁の姿に感嘆するより先に、角の存在に息をのむ者がいた。「おぞましい」と口元を手で覆い、隣の者と顔を見合わせる者もいた。
それでも、ゼーレは笑顔を絶やさずにいた。参列者の反応に気づいていないわけではないが、今日だけは、そんなことを気にしている場合ではなかった。だって、ずっと夢見てきた結婚式なのだ。大好きな人の隣に立つ、人生でいちばん幸せな日なのだから。
ゼーレはゆっくりとバージンロードを歩き始めた。
心に響く音楽と共に、純白の裾が床を滑り、深紅の髪が肩の上で揺れる。一歩、また一歩。祭壇へ近づくたびに、胸の鼓動が速くなっていく。やがてアーサーの隣にたどり着くと、彼が差し出した腕にそっと手を添えた。ゼーレはその横顔を見上げる。けれど、彼はこちらを見ようともせず、正面を向いたままだ。
それでもゼーレは、堪らなく嬉しかった。ようやく、夢に見たアーサーの隣に立つことができた。
祭壇の前で、ゼーレはアーサーの手にそっと自分の手を重ねた。指先が触れた瞬間、胸がきゅっと締めつけられる。幼い頃、遠くから見つめることしかできなかった王子様が、今はすぐ隣にいる。ゼーレは無尽蔵の幸せを噛みしめるように微笑んだ。
「アーサー・ソレイユ=アルカディア。あなたはここにいるゼーレ・マギナを、悲しみ深い時も、喜びに満ちた時も、共に過ごし、愛をもって互いに支え合うことを誓いますか?」
「誓います」
アーサーは落ち着き払った声で答えた。澄んだ声が大聖堂に響き渡る。王族としての気品を備えた、よく通る美しい声だった。
その声を間近で聞いた瞬間、ゼーレの胸はこれまでにないほど高鳴った。幼い頃には聞くことのできなかった、大人になったアーサーの声。こんなに近くで聞ける日が来るなんて。嬉しさのあまり、今にも頬が緩んでしまいそうだった。いけない、いけない。花嫁らしく、きちんとしていなくては。そう自分に言い聞かせても、口元にはどうしても笑みが浮かんでしまう。
「新婦ゼーレ・マギナ。あなたもまた、ここにいるアーサー・ソレイユ=アルカディアを、悲しみ深い時も、喜びに満ちた時も、共に過ごし、愛をもって互いに支え合うことを誓いますか?」
「はい! 誓います!」
ゼーレは、はじけるような声で答えた。あまりに元気な返事に、参列者の何人かが思わず目を瞬かせたが、彼女は気にする様子もない。もちろん、誓いますとも! 悲しい時も、嬉しい時も、どんな時だってアーサー様のそばにいたい。彼が望んでくれるのなら、何だって一緒に乗り越えてみせる。そんな思いを胸いっぱいに抱きながら、ゼーレは彼の手をきゅっと握った。
牧師は二人を見比べ、厳かな面持ちで頷くと、アーサーへと体を向けた。
「では、新郎は新婦に誓いのキスをなさってください」
その言葉に、ゼーレの心臓が跳ね上がった。
キス。アーサー様と、キス……!
二人は向き合った。そこで初めて、アーサーの水色の瞳が、まっすぐにゼーレを捉えた。
初めてだった。あの日、万国祭の広間で彼を見つけてから、ずっと、ずっと憧れてきた。何度も視線を追いかけたのに、一度だってこちらを見てくれなかった彼が、今、自分を見ている。その宝石のような瞳の中に、純白のドレスを着た自分の姿が映っていた。
それだけで、ゼーレは倒れてしまいそうだった。胸がいっぱいで、息の仕方さえ忘れてしまう。ああ、夢みたい。とうとう、ここまで来られたのだ。
ゼーレはそっと目を閉じ、唇に意識を向けた。初めてのキスは、どんな感じなのだろう。優しいのかしら。それとも、少し恥ずかしいものなのかしら。そんなことを考えるだけで、頬が熱くなった。
しかし、いつまで待っても、唇に触れるものはなかった。
アーサーは参列者から口元が見えないよう、わずかに身をかがめた。そして、ゼーレの耳元へ唇を寄せると、誰にも聞こえないほどの小さな声で囁いた。
「……キスはしない」
「え?」
あまりにも短い言葉だった。けれど、その意味を理解するには十分だった。
ゼーレが戸惑いながら目を開けた時には、アーサーはすでに身を離していた。彼は何事もなかったかのように祭壇の前に立ち、表情ひとつ変えていない。参列者たちは二人のやり取りに気づいていないのか、あるいは気づかないふりをしているのか、大きな拍手を送っていた。祝福の音が大聖堂いっぱいに広がっていく。
夢にまで見た結婚式は、こうしてあっけなく終わりを迎えた。
それでも、ゼーレはまだ、何が起きたのかをうまく理解できずにいた。きっと、人前だから恥ずかしかったのかもしれない。そう思おうとしても、先ほど耳元で囁かれた声の冷たさが、どうしても頭から離れなかった。
大聖堂を出たところで、ゼーレは思わずアーサーの腕をつかんだ。聞きたいことがあった。どうしてキスをしてくれなかったのか。何か、気に障ることでもあったのか。けれど、言葉を探すよりも早く、アーサーは冷ややかな目を向け、彼女の手を振り払った。
「俺は人間しか愛せない。人間ではない君を愛することなど、一生ありえない」
その瞬間、周囲の音がすべて遠のいた気がした。
さっきまで響いていた拍手も、参列者たちの話し声も、何も聞こえなくなった。頭の中が真っ白になる。自分の手が、行き場を失って宙に浮いていた。アーサーの言葉が、何度も何度も胸の中で繰り返される。
人間しか、愛せない。
けれど、ほんの一瞬だけ立ち尽くしたゼーレは、すぐに顔を上げた。胸の奥には、鋭い痛みが残っていたものの、ここで泣いてしまうのは違うと思った。だって、自分はこの人を愛すると決めたのだ。愛してもらうために、マギナを離れ、知らない国へやってきたというのだ。こんなところで諦めるわけにはいかない。
「でしたら、これから愛していただけるよう、精一杯努めてまいる所存でございますわ」
ゼーレはアーサーをまっすぐに見つめ、晴れやかな笑みを浮かべた。その声に迷いはなく、凛とした佇まいには誇りと覚悟が宿っていた。
今はまだ、愛されていなくてもいい。これから夫婦として一緒に過ごしていくのだから、きっと少しずつ、お互いのことを知っていけるはず。自分の良いところを知ってもらえれば、いつかきっと、彼の心にも届く日が来る。そう信じて前を向くことが、今のゼーレにできる精いっぱいだった。
アーサーは、そんな彼女をしばらく無言で見つめていた。けれど、その瞳に浮かぶものは何もなかった。驚きも、憐れみも、ましてや心を動かされた様子もない。ただ、面倒な話を早く終わらせたいとでもいうように、淡々と言い放った。
「好きにしろ」
それだけだった。
アーサーの心には何ひとつ響かなかった。彼は踵を返すと、花嫁を置き去りにして歩き始めた。それを見た参列者たちも、アーサーの後に続くようにして、次々とその場を去っていった。華やかな婚礼を終えたはずの大聖堂の前には、やがてゼーレだけが取り残された。
夢にまで見た結婚式が、こんなにもあっけなく終わってしまうなんて。憧れていた純白のウェディングドレスも、手にした美しいブーケも、今日という日のために膨らませてきた期待も、すべてが一瞬にして色褪せてしまった。
愛されない魔族の花嫁は、祝福さえも受けられずにいた。




