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1. 夢にまで見た政略結婚

 政略結婚は、どの時代においても特別珍しいものではない。両国の友誼を深めるため、互いを牽制するため、あるいは盟約を結び、領土を広げるため。そこには国ごとの思惑があり、王族の婚姻には、個人の感情だけでは語れない様々な意味が込められていた。


「……以上が、本日の国境警備に関するご報告でございます」


 王女でありながら、魔族の守護を担う者として、ゼーレは魔王に日々の務めを報告し、恭しく一礼した。

 

「それから、父上! わたくし、やはりアーサー様と結婚したいのです!」


 先ほどまでの凛とした佇まいはどこへやら。ゼーレはぱっと顔を輝かせ、魔王の前へ身を乗り出した。あの日からというもの、彼女は幾度となく、父に熱烈な申し入れを繰り返していた。普通ならば、できることなら避けたいと願う政略結婚。しかし、ゼーレにとっては違った。


 長年、夢にまで見たアーサーとの結婚が叶うのなら、政略結婚だろうと構わない。むしろ、国同士の縁があればこそ、彼の隣に立つことができるのだと、彼女は信じていた。


「まあ、君もいつかは誰かのもとへ嫁ぐ身だしねぇ。相手がアーサー殿なら、君としても願ったり叶ったりってわけだ。……いやはや、まさかあの小さかったゼーレが、ここまで一途になるとはね」


 いつもは娘の熱意を軽く受け流してばかりの魔王が、ふと彼女を見つめてそう言った。


 思えば、あの頃はまだ幼く、何にでも目を輝かせていた天真爛漫なゼーレも、今では二十歳を迎えた立派な姫という名の淑女である。


 艶やかな深紅の髪は腰元まで長く伸び、頭の両側からそびえる黒い角は、彼女が魔族であることを何よりも雄弁に物語っていた。魔力を蓄える器でもあり、魔族の誇りの象徴でもあるその角は、魔族の中でもひときわ目を引く美しいものだった。


「しかし、ゼーレ。人間との結婚が何を意味するか、分かっているはずだね?」


 先ほどまでの軽やかな声音から一転、魔王は娘の目をまっすぐに見つめた。そこには父親としての心配と、魔王としての慎重さがあった。


「はい、父上。よく分かっているつもりです。わたくしの角も、この髪も、人間の方々からすれば、恐ろしいものに見えるのでしょう。わたくしの姿が、人間の世界ではあだになることもあると覚悟しております。それでも……わたくしの心は、もうアーサー様以外には向けられません」


 ゼーレは膝を折り、魔王に深く一礼した——人間の礼だ。


 その姿を見つめ、魔王はふう、と大きく息を吐いた。困ったように眉を下げながらも、口元にはどこか楽しげな笑みが浮かんでいる。


「まったく、ゼーレは一度決めたら聞かないんだからなぁ。誰に似たんだか……おっと、余に似たのか。そりゃあ、仕方ないね」

「父上に似たのでしたら、なおさら素晴らしいことでございますわ!」

「ははっ、言うようになったじゃないか。よし、分かった。アルカディアに申し入れをしてみよう」

「本当ですか! やったー! 嬉しいですわ、ありがとうございます!」


 ゼーレは花が咲いたような笑顔を見せ、飛び上がらんばかりに喜んだ。つい先ほどまで淑女らしく頭を垂れていたというのに、今では両手を胸の前で握りしめ、全身で喜びを表している。そのあまりの変わりように、魔王は思わず吹き出した。


「おやおや。そんなに喜んでくれると、余まで嬉しくなるねぇ。……ただし、ゼーレ」


 魔王は、浮かれきった娘に釘を刺すように、指を一本立てた。


「一度アルカディアへ嫁いだら、そう気軽にマギナへ帰ってこられると思わないこと。向こうでどんなことがあろうとも、自分で決めた道なら最後まで向き合いなさい。辛いことも、きっとあるだろう。それでも、君自身が選んだ人生なんだからね」

「はい! そのつもりです、父上。わたくし、どんなことがあっても頑張って参ります!」


 ゼーレは迷いなく答えた。アーサーと結婚できる。それだけで、どんな困難も乗り越えられるような気がしていた。恋に夢中な娘の姿に、魔王はもう一度、苦笑を浮かべる。


「うんうん、その意気だ。まあ、何かあったら遠慮なく頼りなさい。こう見えても余は、娘には甘い魔王だからねぇ」

「肝に銘じておきますわ」


 そう時間をかけることもなく、アルカディア王国から婚約の申し入れを受諾する返答が届いた。


 魔王の娘を妃に迎えることは、魔王を味方につけることにも等しい。人間の国々にとって、これほど魅力的な縁談はそうそうない。アルカディアも例外ではなかった。しかも、相手は第一王子ではなく、第二王子である。王位継承をめぐる事情を考えても、王国にとっては願ってもない申し出だった。


 アーサー様との結婚! こんな日が本当にやってくるなんて、生きていてよかったですわ! 人間の国で流行っているドレス、もっとたくさん持っていったほうがいいかしら? あっ、そうですわ! アーサー様にお見せしたいマギナの宝石も、たくさん持っていきましょう。きっと気に入ってくださるはずですもの。それから、角の装飾も忘れずに……いえ、待って。わたくしの角は、人間の方々には怖く見えるのですよね? 最初から飾り立てるのは、少し控えたほうがいいのかしら……?


 あれこれと思いを巡らせながら、ゼーレはこの上ない喜びとともに嫁入りの支度を進めた。政略結婚と聞けば、悲壮な覚悟を決めたり、家族との別れを惜しんだりする姫君を想像するものだろう。


 ところが、ゼーレときたら、まるで恋物語の主人公にでもなったかのような浮かれようである。衣装を選んでは鏡の前でくるりと回り、宝石箱を開けては、アーサーがどんな顔をするかと想像を膨らませる。そんな娘の様子を見た侍女たちも、思わず微笑ましげに顔を見合わせるほどだった。


 そして、月日はあっという間に流れ、ついに婚礼を翌日に控えた日、ゼーレはアルカディア王国へと足を踏み入れた。


 アルカディアが用意した馬車に揺られ、王都へと入ったゼーレの目の前には、これまで見たこともない華やかな街並みが広がっていた。通りには色とりどりの商品を並べた店が軒を連ね、仕立屋のショーウィンドウには最先端のドレスが飾られている。宝石店の窓辺では、磨き上げられた宝石が陽光を受けてきらきらと輝き、少し先には、天井まで本が並ぶ大きな書店まで見えた。マギナにも人間の文化を取り入れた店はあるが、実際に人間の国を訪れてみると、何もかもが新鮮で、胸が弾むほど美しい。


「まあ……! すごいですわ! あのお店も、そのお店も、見てみたいです! 帰りに寄ることはできるかしら? あっ、あちらのドレス、とっても素敵! アーサー様に似合うと褒めていただけるかしら……!」


 窓から身を乗り出さんばかりに、ゼーレは目を輝かせていた。道行く人々の姿さえ珍しく、馬車がゆっくり進むたびに、あちらこちらへと視線を巡らせる。やがて、通りで遊んでいる子供たちの姿を見つけると、ゼーレはぱっと顔を明るくして、窓越しに大きく手を振った。


 子供たちの何人かは、きょとんとしたあと、無邪気に手を振り返してくれた。けれど、その隣にいた親たちは、我が子の手を慌てて引き下ろした。


「やめなさい!」


 鋭い声が飛ぶ。別の親は子供を自分の背後に隠し、また別の者は、ゼーレの姿を見た途端に店先の窓を閉めた。中には、彼女に向かって露骨に嫌悪を示す仕草をする者までいた。街を行き交う大人たちの顔には、恐怖や警戒、そして忌み嫌うような感情が浮かんでいた。まるで、目の前にいるのが一人の娘ではなく、いつ襲いかかってくるとも知れない恐ろしい魔物であるかのように。


「……やはり、そうなってしまうのですね」


 ゼーレは、振っていた手をゆっくりと下ろした。


 頭では分かっていた。人間の中には、魔族の角を恐れる者が大勢いる。魔族と人間が同じ場所で暮らすことさえ、受け入れられない者もいる。父からも、幾度となく聞かされてきたことだ。けれど、実際に向けられる視線は、想像していたよりもずっと冷たかった。胸の奥がきゅっと締めつけられる。自分が何か悪いことをしたわけでもないのに、ただそこにいるだけで拒絶される。その切なさは、どれほど覚悟していたところで、簡単に受け流せるものではなかった。


 それでも、ゼーレはもう一度、顔を上げた。ぎゅっと胸の前で拳を握り、口元に笑みを浮かべる。せっかく憧れの人が暮らす国までやってきたのだ。まだ何も始まっていない。ここで俯いてしまうわけにはいかない。


「気にしない、気にしない! なんといっても、明日にはアーサー様と夫婦になるんですもの!」


 自分自身を励ますように、ゼーレは明るく言い切った。胸の奥に残る小さな痛みを抱えたまま、それでも彼女は笑っていた。明日になれば、とうとうアーサーの隣に立てる。その事実は、今のゼーレにとって、何よりも大きな希望だった。

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