凛として咲く獣-09
「あのだね、場所を移すのはいいが、もう少し人目につかない場所というか……」
大手チェーンの喫茶店で、黒手医師は口を開いた。
中年医師の目の前には、一人の少女が座っている。
ただ座しているだけで凛とした美しさを放ち、今日は少し怪し気な金属フレームのメガネが良く似合っていた。
白磁のような白い肌と、ツヤのある長い黒髪は、どちらも良く手入れされている事が伺える。
「……?心配はいりませんよ。こういう衆人環視の状況で話した方が、変に他人に怪しまれずに済みますから」
「それはそうなんだが……まさにその世間の目というかだね」
その少女、武蔵野巴は本当に良くわかっていないようだった。
無表情のまま、頭の上にハテナマークを浮かべている。
「私のような妻子あるものがだね、君のような若い女性とだね……き、君も困るだろう?」
そこまで言うと、ようやく巴もピンときたようだった。
「ああ、そういうことですか。それならむしろ、私たちが何をしているか周囲から明白という事ですから。怪しまれず好都合です」
黒手医師は席からずり落ちそうになった。
ずいぶん変わった子であることだけは、よく理解できた。
だが彼女の言う事は正論なのだろう、周囲の客も、店員も、自分たちに注意を全く払っていない。
「まぁ君が良いならいいが……それで協力というのは、何をすればよいのかね」
黒手医師がそういうと、巴の纏う空気が変わった。
表情は相変わらず無表情のままだが、それでも空気が張りつめているのが分かった。
『……ガービィ・シャスター三等官はこの件に対し、社会全体の結束を呼びかけ……』
『……警察はギャンググループ『ネイチャー』に捜査情報を漏洩させていたことが発覚し……』
店内のモニターで流れていたニュース音声が、気まずく響く。
そして巴は重い口を開いた。
「まずその前に、石川さんは実際にはどの程度の入院が必要なのですか?彼の孫は1年と貴方から言われたようですが」
そういって巴はカルテのコピーを差し出した。
黒手医師は、それをじっくりと眺める。
「……ああ、そうだな。実際には2か月、余裕をもって3か月と言った所だろう」
「余裕をもって?」
「ち、違う!これは本当に医学的に適切な期間だ!信じてくれ。石川さんの入院期間に関してはすぐにでも指示を出す」
巴はノンカフェインのコーヒーを一口飲み、少しだけ音を立ててカップを置いた。
腹部に走った激痛とシビレを、黒手医師は思い出していた。
「では、そのように。さて本題に入りますが……石川さんの医療費ですが、今後、無料という事にはできませんか?」
「え、いや、流石にそういったのはムリだ。私個人ではどうにもならない」
「では残り三か月分、貴方が払ってください」
「う、それは……」
「冗談です」
実の所、当初はこれが目的だった。
不正水増しを盾に、寅之助の医療費を肩代わりさせる。先に不正を行ったのは病院側だ。ならばこれは因果応報でしかないと、巴は考える。
だが黒手医師の事情を聴いてしまった以上、そういうわけにもいかない。
「では別の話を。当たり前ですが、医療費を水増しした所で、貴方に直接の収入があるわけではない。収益を増やせるのは当然、法人としての病院です。私の言いたい事、わかりますか?」
「……ああ、そうだ。君の言う通り院長もグルだ。私以外にも水増しに加担している医師や看護師もいる」
そこまで言って、黒手医師はふと、思い出したように宙を見た。
「何か?」
「そういえば、君はこのカルテや音声データをどうやって手に入れたんだ?君は内部の協力者がいたような口ぶりだったが……」
巴は押し黙ったまま、ニコリと笑った。感情ではなく、技術としての笑顔。
教える気はない、と言外に伝える。
「……その作り笑顔をやめてくれないか。そもそも名前も聞いていないのだが。どうせ本名を教える気はないだろうが、せめて何と呼べばいい?」
「名前、ですか」
単に名乗り忘れただけなのだが、とは口に出さなかった。
病院に何度か通い、面会の際には名前も記入している。つまりその気になればすぐにでも身元がバレる可能性が高いため、偽名をわざわざ名乗る必要性も薄い。
とはいえ、今後の攪乱・時間稼ぎとして偽名が機能する可能性もある。
巴が少し考えると、熊のぬいぐるみをキーホルダーにした女性が、二人の席を横切った。
「じゃあ、ベアーで」
「君ねぇ……まぁ、ジェーン・ドゥよりはいいか」
呆れたように黒手医師はため息をついた。
そしてコホン、と巴は軽く咳をして場を戻す。
「だいぶ話がそれましたね。それで、あの病院全体の不正に関してですが、まず貴方以外の関係者や、院長が主導的に行った証拠を集めたい。協力していただけますね?」
「警察に通報するだけなら、私の証言だけで十分だと思う。カルテの偽造や隠ぺいは、現行の制度だと難しい」
「もちろん警察には通報します、もう少し後にね。私の目的は、石川さんの医療費を無料にさせる事です」
すると黒手医師は神妙な顔をした。
コーヒーカップを持つ手がわずかに震えている事に、巴は気づかないふりをした。
「……私にしたことを、院長にもするつもりならやめなさい。この件には、反社会的な団体が出入りしているようなんだ。君がどこの誰だか知らないが、私たちの被害者で、私と同じような事情があるのだと思う。だが石川さんの入院費はこれで適切になったし、高額とはいえ、それでも残り三か月分くらいの入院費なら払えるはずだ。1か月の支払い上限も、どれだけ行っても7000ギルタン程度だ」
すると今度は巴がシニカルに笑った。どこか自嘲的な笑みであった。
「……貴方も、きっと私と同じように、裕福な家庭の生まれなのでしょうね。貴方が『程度』と切り捨てた、その7000ギルタンが払えない家庭の事など想像にないのでしょう。ましてやその家庭が、半年前に事件に巻き込まれ金銭的に困窮していた事など」
「その言い方はよしてくれないか。私だってそれは……今、痛感している」
黒手医師は息子の顔を、そして1年ぶりに意識を取り戻した朝を思い出す。
「いいえ。貴方は分かっていない。これは、自由診療の新薬にかかる費用と比べればはるかに小さな額。量の変化が、質の変化を引き起こす事を、理解していない人間の物言い」
「言いたい事は分かる。だが、そういった人のための制度はあるだろう」
「ええ、ありますとも。ですがその制度は、人の心までは考えない。当然でしょうね、その余裕は今この太陽系にはない」
知ったような口を。
巴は語りながら自分自身を軽蔑する。
お前もほんの数週間前まで、この医師と同じ事を、その当事者に言い放ったではないか。
でも、だからこそ──
私は寅之助を助けたい。でもそれ以上に、こういう理不尽を許したくない。
「子供の戯言とお笑いください。私は、正義を信じている。きっと人の心も救えると思っている。そのためには法は無視します、その必要があると、思い知りました」
「君の歳はどうにも読めない所があるが……まだ若いだろう。法の支配がなぜ民主主義の絶対条件なのか学校で習わなかったのかね」
「ええ、もちろん。抵抗権が存在する理由もね。これは手段としては正しくない。でも、制度が彼を救わないのなら、私が救うしかない。倫理としての正しさのために」
黒手医師はうなだれると、顔を片手で隠した。
この少女は、おそらく想像よりもはるかに若い。そしてその年齢通りの倫理的な危うさを持ちながら、自分の言葉の危険性も理解している。
一体、どういった条件が揃えばこういった人間が形成されるのであろう?
環境?才能?偶然?おそらくそれらが組み合わさった、何億分の一かの割合で、こういった怪物か、あるいは英雄と呼ばれるような存在が生まれるのだろう。
「……分かった。それで、何をすればいい?」
それから1週間がたった。
巴から黒手医師への指令はシンプルだった。
黒手医師の水増しを暴いた時と同じようにカメラを仕込み、パスワードとログイン名を収集させ、そして不正アクセスを繰り返す。
警備やシステム管理者のパスまで手に入れた巴は、ついには自宅にいながら病院の内部データへと痕跡を残さずに侵入できるようになっていた。
「ふむん……」
巴は部屋着でPCを覗きながら、収拾したデータを解析する。
AIに水増しの疑いのあるカルテや指示を仕分けさせ、それらを黒手医師に再度確認を取らせ、水増しの証拠を集める。
10年前に発生したアンドロイドの反乱によりAIの研究と性能には大幅な制限が加えられていたが、それでもこういった原始的な仕分け作業を行える程度の民生AIは健在であった。
「『熊からKへ。荷物を送付する。仕分けされたし』と」
簡素な本文を書き込み、水増しの疑いのあるカルテを、秘匿性の高いアプリで送付する。
これでおおよそ、告発に足る証拠は集まった。
あとはこれを院長に突き付け、告発と引き換えに、寅之助の祖父を含めた水増し被害者全員の医療費を無料、いや返却するように交渉する。
「だけど、それ以上にこれをどうするか……」
巴はモニターに映ったファイルを、無表情を張り付けたままの顔で見ていた。
そこには、第6ブロックに根城を貼るギャング『アトロシタス』が、この病院を使って資金洗浄をしている帳簿。
そしてもう一つ。おそらくはギャングの担当者と思われる人間から院長へと送付されたメールに添付された動画。
そこには、彼女が良く知る少年が映っていた。




