凛として咲く獣-10
金串と寅之助の戦いから数日後。
バー『アトロシタス』には、いつものように如何わしい客が集まり、享楽をむさぼっていた。
そして同じように寅之助はバーの用心棒として、店内を睥睨していた。
「ねみ……」
退屈そうに寅之助はあくびする。
今日はトラブルもなさそうだと思った矢先であった。
「お前、新入りか?」
背広の男が、突然寅之助に声をかけた。
短く切りそろえた金髪と、広い肩幅の男であった。
「……そうッスけど、何か?」
突然の問いかけに、寅之助は胡乱な表情のまま答えた。
「俺が誰か分かるか?えぇ?」
初めて見るその男を、寅之助はじっくり観察する。
広い肩や、立つ姿と歩く姿。それらから日常的にトレーニングをしている人間だと判断する。
特に寅之助と同じような縮んだ耳は、彼が柔道かレスリングを嗜む事を示唆していた。
「……さぁ?なんか有名人なんスか?リドスコの映画に出てた?」
寅之助が鼻白んだ物言いを返すと、別の店員が慌てて飛んできた。
「すいませんアモンさん!こいつ新人でして!ささ、こちらへ」
そういって寅之助を別のバウンサーへと押しやると、その店員はアモンと呼んだ男を連れて離れていく。
背広の男は寅之助を嘲るような笑顔を作ると、その店員と連れ立って歩いて行った。
「なんスか?あのおっさん?」
寅之助は不快感をあらわにして、同僚のバウンサーへと話しかけた。
「このあたり一帯を担当してる刑事だよ」
「刑事?ああ、そういうこと」
寅之助は目で刑事と店員を追うと、店員が紙幣の束を刑事に渡しているのが見て取れた。
ホールの端とはいえ、人の目につく場所で堂々と金を払う姿に、その関係性は一目瞭然だった。
「クズめ」
寅之助は吐き捨てた。
その言葉に同僚のバウンサーは眉を上げる。
「まぁ、そういうな。あいつが真面目に仕事してたら、俺たちはメシの食い上げになっちまう」
『俺たち』。
その言葉が、寅之助の胸にトゲを残した。
ユラという少女に潰された柔らかな場所に、そのトゲは刺さっていた。
「ありがとうございましたー」
「どうも」
寅之助はレジを打つ店主に軽く会釈した。
彼は第6ブロックでの生活拠点にしているアパートの近くの雑貨屋で買い物を済ませると、そのすぐ横の路地裏に入る。
決して明るいとは言えない第6ブロックの、さらに暗い場所。
そこが寅之助の目的地であった。
「じいさん、いるかい?」
寅之助は座り込むと、ゴミの山へと話しかけた。
すると、そのゴミの山がモゾモゾと動き出す。
ゴミの塊に見えたのは、毛布をかぶったホームレスの老人であった。
「今日も弁当を買ってきたよ。いるかい?」
寅之助はニカっと笑って買ったばかりの弁当と水を差し出した。
その老人は異臭を放ちながら、弁当をひったくるように奪い取った。
「いらない、いらない、いらない……」
ホームレスの老人は、そう言いながら寅之助の弁当をゆっくりと食べ始めた。
ちびり、ちびりと本当に少しずつに分けて口へ運ぶ。
「水、置いておくよ」
寅之助はそう言って水の入った分解性ボトルを老人の近くへと置いた。
そして立ち上がると、その路地裏のさらに奥へと進む。
そこにあるのは、懸垂用のバー、ベンチ、バーベル、ケトルベルなど。どれもこれも錆びて汚れてはいるが、立派なトレーニング器具と設備がそこにあった。
誰がどのような目的でここに置いたのかは分からない。しかしこれは立派なジムだ。ここへと来るたびに、心が高鳴るのを感じていた。
「しっ、やるか!」
弾んだ声で自分を鼓舞する。
ジャケットを脱いでトレーニングウェア1枚になると、ストレッチも早々に、まずは積み上げられたプレートを抱えた。
25kgを3枚持ち上げて、その3枚を片手で抱きかかえる。
その状態のまま、片手で懸垂用のバーへとぶら下がった。
金属のきしむ音が、路地裏に響いた。
「頼むからぶっ壊れてくれんなよ……」
寅之助は小さく呟くと、ゆっくりと息を吐きながら片手懸垂を始めた。
勢いはつけない。遅くもなく、早くもない速度で、その肉体と抱えたプレートを上下させる。
呼吸を意識し、正しいフォームを意識して、20回。
「ふうっ……」
息を吐いて鉄棒を離し、着地する。
その時、抱えたプレート同士が軽くこすれあい、美しい音色を立てた。
そして1分の休憩。
この休憩こそが、筋肉を限界まで追い込むのだ。
「さて、あと2回……」
これを3セット、両腕で計6セット行う。
一流のクライマーでも寅之助と同じトレーニングをこなせる物は稀だろう。
だがこれは、寅之助にとって日常のトレーニングの一つに過ぎない。次々にルーティンをこなしていく。
「あっつ……」
額の汗をぬぐうと、寅之助は最後のルーティンを終えた。
荷物をバッグへと片づける。
「じゃあなジイさん。また来るよ」
そういって寅之助は走り去った。
その背中を、ホームレスの老人は口をポカンとあけたまま、奇妙な生き物を見るかのように、無言で見送っていた。
数日が過ぎた。
寅之助はいつものように、トレーニング場へと向かう。
まずはあのホームレスの老人への贈り物の弁当を買うために雑貨屋へと向かう。
あの老人がどういった者かは分からない。
しかしあそこで寝起きする以上、彼こそがあの場の「ヌシ」だ。
寅之助はそこで、迷惑な金属音を立てて邪魔する者なのだから、敬意を払うのが当然だ。彼はそう考えていた。
いつものように路地裏の隣の雑貨屋に入ろうとすると、路地裏から声が響いた。
嘲るような笑い声と、小さくおびえるような老人の声。
「次!次は鼻に当てろよ!鼻あてたら俺がおごってやるから!」
「おーお前、見とけよ!絶対におごらせてやっからな!」
そこでは、5人ほどの若者たちがホームレスの老人に向かって、石を投げつけていた。
彼らは明らかに楽しんでいた。
「やめて……やめて……やめて……」
ホームレスの老人はうわごとのように繰り返していた。
ただ手のひらを、身を護る盾にして、痛みと恐怖を耐え忍んでいた。
若者たちは、ホームレスの老人に、砂を、石を、嘲りの言葉を何度も投げかけていた。
その顔には、歓喜が浮かんでいた。
「何してんだ?」
若者たちの背後から、低い声が響いた。
一斉に振り返ると、そこには筋肉質で坊主頭の男が立っていた。
「あ?なんだお前。関係ねーだろ」
「おう無関係だ。だからなんだ?」
寅之助は怒気をほとばしらせて、ゆっくりと歩を進めた。
およそ10代前半から20代の若者たちもまた、自分たちの遊びを邪魔した闖入者に苛立ちを覚えていた。
「いいじゃん。コイツも的にしてやろうよ」
一人の少女が拳大の石を、野球服を着た若者に手渡した。
ニヤリと笑ってその石を受け取った野球服の男は、ワインドアップで振りかぶり、そして寅之助の顔面目掛けて石を投げた。
一目で野球の経験者と分かる動きと、高速で投げ込まれた石が、寅之助の眼前に迫った。
「……は?」
ユニフォームの男は気の抜けた声を上げた。
彼の投げた石は、事もなく寅之助にキャッチされていた。
「は?じゃねーよ。逆に何に驚いてんだテメーは」
キャッチした石を手のひらで弄びながら、寅之助は吐き捨てた。
野球の硬球でさえ、素手でキャッチして手を骨折した例は枚挙に暇がない。
しかし目の前に立つ虎の目の男は、硬球よりも重くて硬い自然石を、まるでゴムボールでも掴んだかのように平然としていた。
柔道家は、分厚く硬い柔道着の襟や袖を、握り込むようにして持ち、全力で引く。
それを繰り返すうちに、指の関節や、手のひらに『柔道タコ』が出来、そして手のひら全体が固く角質化する。
その角質化した手が、一種のグローブの役割を果たした事など、ユニフォームの男は知る由もなかった。
「ああ、そうか?キャッチボールのつもりだったってことか?……よっ!」
寅之助は四分の力で投げ返した。
ユニフォームの男は両手で顔面を庇うが、石の命中した衝撃は、手で庇ってなおユニフォームの男を昏倒させる衝撃であった。
「あっ!お前!ぶっ殺してやる!!」
「そういうお約束のやり取りいらねーよ。とっとと来い。来なきゃ行く」
その挑発に、若者たちはバットや鉄パイプなどを構えて殴りかかった。
寅之助の目が座った。
二分後。
顔を大きく腫らし、あるいは肘や肩の関節を外された激痛に耐えながら、寅之助の目の前で正座する若者たちの姿があった。
その中には少女もいたが、今回ばかりは容赦しなかった。
敬意を知らぬ者へと払う敬意など、無い。
「はぁ~。お前、大学生ぇ?大学ってこんなしょうもねぇ事を教えてんのか?」
寅之助は野球服の男から奪ったIDを見ながら、呆れて声を上げた。
そのIDを端末で撮影すると、その場へと投げ捨てる。
「一応聞いてやろうか。なんでこんな下らねぇ事した?」
その問いに、5人は顔を見合わせた。そして黙り込む。誰も彼もが、口を開くのをためらっていた。
すると寅之助は5人のうちの一人の指を取ると、躊躇なくへし折った。
「きゃあああああ!?」
「なんだ、急に喋れなくなったのかと思ったぜ。声出るじゃねぇか」
次の若者の指を取ろうとすると、野球服の若者が慌てて口を開いた。
「あっ、あのですね!その……悪ふざけというか、その、追いかけると、逃げたりするのが楽しいというか……」
どこか半笑いのまま、野球服の男は口を開いた。
寅之助は本気でこの男の首をねじ切ってやろうと思ったが、ぐっとこらえた。
「へぇ。それが理由かい。他には?」
「あ、あとその……街を綺麗にしようと思って……」
そこまで喋った瞬間だった。
寅之助はやはり、野球服の若者の指を折った。
絶叫が路地裏にこだましたが、誰かが助けに来る様子は、無かった。
「あ、あのっ!……す、すいませんでした!」
おそらくは実年齢は寅之助と同じか、それよりも少しは上であろう少年が、媚びるように謝罪をした。
しかしそれは火にガソリンを注いだだけであった。
その少年の顔を、寅之助は無言で蹴り上げた。
「へぶっ!」
「誰に謝ってんだテメェは。謝る相手が違うだろうが、えぇ?」
そういって寅之助はホームレスの老人を指さした。
彼は痛みと恐怖で、目を閉じて震えていた。
寅之助は老人へと近づき、目線を合わせるためにしゃがみこんだ。
「ジイちゃん、今から病院へ連れってってやるからな。なぁに金は心配ねぇ。ここにいる五匹のウジ虫が払うからよ」
「えっ」
目の上を腫れあがらせた少女が声を上げたが、寅之助にニラまれると、慌てて口を閉じた。
「行きたくない……行きたくない……行きたくない……」
しかしホームレスの老人は、それをかたくなに拒否した。
痛々しいアザや裂傷が見て取れるが、どんなに説得してもそれを拒否していた。
寅之助はため息をついた。
「そこのお前。買えるだけのシップと傷薬と包帯を買ってこい。それから清潔な水とタオルも」
「お、俺ですか?」
「その耳、ついてる意味ねぇなら取ってやろうか?」
「ひっ……買ってきます!」
若者の一人が、慌てて立ち上がって走り出した。
他の四人は、自らの行為を後悔しながら、無言でうつむいていた。
十数分後、息を切らせて若者が戻ってきた。
両手に山ほどの医薬品を抱えている。
彼がドラッグストアに行く前と比較して、残った四人の傷が増えているように思えたが、彼は気にしない事に決めた。
「か、買ってきました!」
「なんだ逃げなかったのか。逃げたら楽しめたのに」
寅之助は嗤った。
その表情に、若者は逃げないで良かったと、心の底から安堵した。
「真夏に湧いてくるコバエより価値のねぇお前ら5人にチャンスをやる。このジイちゃんのケガの面倒を見ろ。治るまでな」
若者たちは顔を見合わせた。
「め、面倒って……?」
「そのカラッポな脳みそで……いや、もういい。買ってきた傷薬でジイちゃんの手当をしろ」
すると何人かが不満そうな声を上げた。
「いや……その……俺たちも病院に行きたいんだけど……指とか折れてるし……メチャクチャ痛いんだけど」
「ああ、そう。大変だったな。とっととやれ」
寅之助の中で、怒りよりも呆れが勝りつつあった。
彼らの行為は許しがたいが、だがその原因は思想ではなく、知性に原因の根本があるのではないか。
そんなことをうっすらと思った。
「丁寧にやるんだ。ま、やらなくてもいいけどな。俺に口実が出来る」
若者たちを脅しつけると、寅之助はトレーニングを始めた。
彼らに背を向けた寅之助から逃げようと思う若者は、いなかった。
数十分後。
「お、終わりました……」
ケトルベルを振り回す寅之助に、若者の一人が声をかけた。
雑だが、とりあえずは一通りの手当がなされていた。
ホームレスの老人は、いつの間にか眠り込んでいた。
「全く……まぁ、いい。お前ら明日から毎日、このジイちゃんの包帯を清潔な物に変えるんだ」
「毎日って……いつまで?」
寅之助は大きくため息をついた。
もはやここまで来ると、完全に寅之助の怒りの原因は、ホームレスへの虐待ではなく、彼らのバカさ加減に移っていた。
「ジイさんのケガが全快するまでに決まってるだろうが!」
寅之助は大声で怒鳴り散らした。
5人の若者は全員が慄いたように、肩をビクリと震わせた。
これでこの5人全員がおそらく、自分よりも年上だと思うと、寅之助は頭が痛くなった。
「言っておくが、俺は3日に一回はここに来てる。お前らがサボったら即バレるからな。お前らのIDを撮影した意味も分かってるな?」
それから数週間が経過した。
若者たちは寅之助の言いつけを守り、毎日のようにホームレスの介護をしていた。
体を拭き、包帯を変え、食事を食べさせる。
彼らは寅之助に脅され、どやされ、時に殴られながら、それでも自分たちが傷つけたホームレスの世話を続けていた。
そんな生活が続いたある日の事だった。
「……あの坊主頭は?」
「いないみたい。とっととやっちゃおう」
路地裏を覗き込み、少女と野球服の男が二人、ホームレスの介護に来ていた。
寅之助が居ようと居まいと、することは変わらない。
だがそれでも、あの分厚い肉体が与える圧は、二人の若者にとって恐怖であった。
ボロボロの服を脱がせ、清潔なタオルで体を拭く。
最初の頃は嫌がって抵抗し、大人しくさせるために体を強く押さえつけると、それを見ていた寅之助に蹴り飛ばされた事もあった。
しかしいつの間にか、ホームレスの老人は体をまかせてくれるようになっていた。
(このジジイ、何考えているんだ?)
野球服の若者は、虚空を見つめる老人の目を見て思った。
コミュニケーションらしいコミュニケーションが取れたことは、ない。
口にするのも、短い単語をうわごとのように繰り返すだけだ。
「……がとう」
「え?」
野球服の若者と少女は、耳を疑った。
「ありがとう……ありがとう……」
ホームレスの老人は、そう言葉を繰り返した。
二人は顔を見合わせた。
「いや……俺たちがやった事だから……」
野球服の若者は、この時ほど自分がミジメに思えた事は無かった。




