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凛として咲く獣-08

勤務を終え、自宅へと急ぐ医師の前に、一人の女が現れた。

ふわりとした服を着て、医師へとにこやかに近づく。


「黒手先生でいらっしゃいますか?」


「そうだが、君は?」


その女、武蔵野巴は答えずにニコリと笑った。すると黒手と呼ばれた男も、つられて微笑む。

若くて美人の女が笑うだけで、警戒を緩める男のなんと多い事か。

巴はくだらないと思いつつも、今日ばかりは自分の容姿に感謝する。


「黒手先生に折り入って相談したことがございまして。……例えば、医療費の水増しだとか」


中年医師の顔が強張った。

アタリだ。

巴は確信した。

油断させてからの、緊張の振れ幅。

その間に人の本音は確実に出る。今のは『知っている』人間の顔だ。


「なんのことか分からんよ。誰だか知らんが、失礼する」


黒手医師は、背中を向けて去って行こうとする。

しかしその背中に意識が集中している事は、誰の目にも明らかだった。


「別に私は良いのですよ?貴方を告発するだけでも最低限の目的は果たせますから。……ですがもう少し、お互いの得になるお話が出来るかもしれません」


黒手医師は、振り向いた。




巴に誘われるまま、黒手医師は街にできた『くぼみ』としか言いようのないスペースへとやってきた。

錆びたカナヅチや、小さな箱などのゴミがあたり一面に散らばった、閑散とした場所だった。

周囲に人気はなく、視線も届かない場所。

退役した巨大宇宙空母を基部として建設されたこの街、ネイモアシティには、元の空母としての構造に起因する、街としては機能しないこういったスペースがいくつもあった。


「……もう一度言うが、なんのことか分からん。用があるなら早く言いなさい」


愚かな虚勢だと、巴は思った。

本当に無関係ならば、こんな怪しい誘いについてきたりはしない。

巴は静かに口火を切った。


「黒手先生もご存じの通り、医療費水増しの立証は困難です。適切な裁量の範囲で余裕を持たせているのか、明確に不要なのか。その線引きは難しい」


朗々と発せられる巴の言葉を聞く黒手医師の視界に、一つのカナヅチが映った。


「ですが水増しで検挙された例がないかと言うと、そんな事はありません。過剰な指示が繰り返された複数のカルテと、その具体的な指示の物証。それさえあれば裁判で立証された例がある。皆さん、快く協力してくださいました」


そういって巴は分厚い封筒を手渡した。

黒手医師はそれをひったくるように奪う。

巴のゆったりとした服が、重そうに風になびいた。


「バカな……!」


そんなはずはない、適切に見えるよう細心の注意を払ったはずだ。そして何よりも『協力するはずがない』。そう言いかけたのを飲み込み、中身を急いで確認する。

その中には、確かに見覚えのある、水増しをした複数のカルテ。そしてレコーダーが入っていた。


「どうぞ。お持ち帰りになってお聞きください。コピーはいくらでもございますから」


「こ、こんなものは状況証拠にすぎん」


「勘違いしていらっしゃいますね?状況証拠の積み重ねで有罪となった事件、決して珍しくありませんよ?『被告が犯人であること以外に、状況に適切な理由が与えられない場合』なんて言い回しは、判例の中で何度も出てきますから」


今日の、この場のために、必死に読み込んだ医療裁判の判例集を引用する。

我ながらこんな付け焼刃、どこまで通用したものか──、巴は内心、不安だったが、効果はてきめんだったようだ。

黒手医師の手は震え、目が血走っていた。


「な、なにが狙いだ。君は何者なんだ」


「特に背景のある女ではありませんよ。私の単独犯です。私以外にこれを知る者も特におりませんよ。そして、狙いですか」


黒手医師を挑発するように焦らし、そして『単独犯』である、それを念押しする。

さぁ、言い訳になる言葉を与えたわ、行動に移しなさい。せっかくこんな重たい服を着てきたのだから。内心で巴は考える。


「そうですねぇ。お金もいいですし、お薬を流してもらってもいい、診断書の偽造もいいな。お医者様という立場だと、いろいろできますものね」


我ながら、悪女のフリには反吐が出る。

自分の言動に嫌悪感を持ちながら、巴は演技を続ける。

巴はあえて背を向き、さらに黒手医師から距離を取った。

錆びたカナヅチが、医師のすぐ足元に落ちている。そのカナヅチは、巴が置いた物だ。


「ご家庭も調べさせていただきましたよ」


家族。

その言葉が出た瞬間、黒手医師の目の色が変わった。

しかし背を向けている巴には、それは見えなかった。


「可愛らしいパートナーとお子さんですね。指示に従っていただければ、ご家族に火の粉が降りかかる事も御座いませんから」


「……従わなかったら?」


「さぁ?ただまぁ、私としては面白くありませんから。例えば可愛らしいお坊ちゃんに不幸な事が起こるとか──」


家族、そして彼の息子への危害を示唆する。

その言葉がトリガーだった。黒手医師が、動いた。

目を血走らせ、落ちていたカナヅチを拾い、巴へと殴りかかった。


「ああああああああああ!」


こぉん。


「!?」


意外な音と、意外な手ごたえ。

想像していた肉を潰す手ごたえではない。

何か固いプレートを打ったような、そんな手ごたえだった。


「全く……こうなるように仕向けたとはいえ、本当にやるとは、ね」


その声色から、悪女の仮面がはがれていた。

凛とした声を上げ、腕でカナヅチを防いでいた。

その腕が震えていたのは、打撃を防いだ衝撃だけが理由ではない。


(恐怖は忘れなさい……!)


巴は自らを鼓舞しながら、右手でカナヅチを防ぎ、左手でポケットから自作した道具を取り出し、そしてスイッチを入れる。

コンデンサにチャージされる甲高い音が、静かに響いた。


「え……え?」


そして困惑し続ける黒手医師が、次に感じたのは、痛み。

長い警棒状のスタンガンに、思い切り脇腹を殴られた。


「ぐあ……っ!」


悲鳴を上げそうになるが、出来なかった。

電撃による体の弛緩が、声を上げる事さえも奪う。

市販の防犯具というのはここまで強力なものなのか?黒手医師は思案する。


痛みと電撃によって動けない体に、少女が近づき、両腕をプラスチックバンドのようなもので縛った。

携帯手錠と呼ばれる、使い捨ての拘束具だ。10個入り7ギルタン、通販で購入したものである。


「ふう……いたた。バイク用のレガースを付けてきたのに、アザになりそう」


ゆったりとした服の下に仕込んだレガースを外し、打たれた場所を確認する。

肉体的なダメージはほぼない。

しかし今になって足が震え、息が乱れ始めるのを感じていた。


「はぁ、はぁ、はぁ……こんな怖い事、寅之助は何が楽しくてやっているのかしら」


子供同士の諍いなどではない、人生で初めて経験する本格的な暴力。

巴は自分の喉が渇ききっている事に気づいた。

そして一息つくと、落ちている箱を拾い上げる。

中にはカメラが入っていた。

今の黒手医師の暴挙も明瞭に写っている。


「大活躍ね、これ」


病院に侵入した際にも設置した、カメラであった。

巴はこのカメラを使って、病院のPCにログインする手元を映し、アカウントとログインパスワードを入手。

堂々と正面から病院のパソコンに侵入し、内部データを取得したのだ。

ピーピングと呼ばれる、もっとも原始的で有効なハッキングの手段だ。


「うぅ……」


黒手医師がうめき声をあげた。

巴は、震えを隠しながら、毅然とした態度で話しかける。


「……私が誘導したのは事実だけれど、本当に人を殺そうとまでするとはね。証拠も取ったわ」


巴はカメラを黒手医師の目の前に示した。

医師の目に悔恨の念が浮かぶ。


実のところ、『医療費水増しの証拠』というのは、巴の目的達成の道具として弱いと思っていた。

もし相手に開き直られたら、確定判決が出るまで、それこそ1年どころではないだろう。

そうなれば、寅之助がどれだけ堕ちるだろうか?一刻も早く助けだすことが目的の彼女にとって、あまり有効ではないツールに思えていた。


そこで思いついたのが、もっと直接的な犯罪の証拠を『作り出す事』。

誘いだし、暴力を振るう動機と状況を作ってやれば、あるいは──。

駄目で元々と始めた作戦が思いのほか成功し、巴は内心で驚いていた。


「た、頼む……どうしても金が必要なんだ」


「あらそう。私も新しいレースアップシューズと卓上NCが欲しいわ」


「お願いだ、私の家族の事を調べたんだろう!?金がいるのは分かっているはずだ!」


縛られた黒手医師が必死に懇願すると、巴は少し困った顔をする。


「……貴方の机の上に家族写真があったから、脅しに使っただけよ。貴方のパートナーも子供も、名前も知らないわ」


「私の子は、磁壊獣症候群なんだ。もう入院して2年になる……」


磁壊獣症候群。

約20年前に終結した宇宙怪獣の侵略を期に、太陽系各地で発生している謎の奇病。

原因は宇宙由来のウィルスとも神経症ともいわれているが定かではなく、対処療法によって患者の自己治癒による回復以外に治療の手段がない難病であった。


「……それは同情するけれど、お医者のお給料で入院費が払えないとは思えないけれど」


「重症なんだ。それで、認可されてない新薬を自由診療で使った。そうしたら、効果があった……!あの子が目を覚ましたんだよ!!回復が見込めてる!だけど保険の効かない自由診療は高額だ、だから医療費水増しを誘われて、手を出した」


黒手医師は縛られたまま、涙を流した。

だが巴は両腕を組み、反応を見せない。

ただ冷たい目で見降ろしていた。


「頼む、見逃してくれ!私は、私は悪人じゃないんだ……悪人じゃない……」


巴は毛が逆立つのを感じた。

あのビストロでの、思いつめた横顔。

ジジイの店は俺が守る、そういった声。

一人の人間をお前は壊したのだという怒り。

倒れ伏した黒手を仰向けにすると、襟をつかむ。


「勝手なことを!貴方には同情する!だけどそれは!別の家族の人生を壊していい理由にはなら……ない……?」


正義とは、まずそれを掲げる者を真っ先に裁く。

巴は自分の言葉に打ち貫かれた。


私と、この医者。やっている事はどう違う?


巴は寅之助を助けるという理由で病院に忍び込み、不正アクセスを行った。

いくつ法を犯しただろう?いや、もしかしたら、目的によって正当化される範囲かもしれない。

だがあの夜、巴は無関係な、ただ仕事をしていただけの警備員を傷つける覚悟を決めた。

そうせずに済んだのはただの偶然だ。罪は、それを決心してしまった事。


「……?」


激昂した巴が急に黙り込んだ事に、黒手医師は怪訝な目を向けた。

そして彼女はハサミを取り出し携帯手錠を切った。


「……そうですね、信じます。貴方は悪人じゃない」


そういうと、力なく座り込んだ。

だが彼女はそれでも、絞り出すように言葉を続ける。

感情でなく、明文化された論理を。

それが彼女の、武蔵野巴という人間に染みついた生き方であり、正義だから。


「寅之助のお爺さんへの治療は適切でした。もし医療費の水増しをするなら最低限の治療だけを行い、病状を長引かせた方が、不自然ではないし請求額も増やせる。だけど貴方は適切な治療を行い、リハビリの期間だけを延長させた」


「……君は、そうか、そういうことか」


その言葉に、黒手医師も察したようだった。

申し訳なさそうに目を伏せ、そして自分の行為を理解する。

子供のためにと言い聞かせた行為の影に、被害者がいた事を。


「ですからお願いします。私の大切な友人が、貴方の水増しのせいで、人生を壊してしまっている。一刻も早く彼を助けたい。だから協力してくれませんか」


巴の目は、その眼鏡の奥に涙を湛えていた。

自らの罪を自覚した痛みは、カナヅチで殴られたよりもはるかに堪えた。

黒手医師は、うなずいた。




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