表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/31

凛として咲く獣-07

衣同士がこすれる心地の良い音が、ドレスルームに響いた。

寅之助は上下にボロボロの柔道着を着込み、そして帯を締める。

この道着は、ここ第6ブロックに来る前、健全な柔道を行っていた際に着ていたものだ。


「やっぱ良いな、道着って」


汗と垢で黒ずんだ道着だが、それでもこれに袖を通すと、真っ白な清廉な気持ちになれる。

かつて、この道着の色がそうだったように。


普段、寅之助はここ『アトロシタス』での賭け試合に挑む際には、上裸で試合に挑んでいた。

上着を着て試合に挑むと、相手が掴める場所を増やし、不利という判断からだ。

だが今日ばかりは柔道着をまとい、試合に挑む。


「柔道着の分厚い生地は……着てねぇよりはマシなハズだよな」


今日の試合は、死ぬかもしれない。

生き残ったとしても、重大な障害を負う可能性は高い。

これは事実上の試合ではなく、制裁。

それでも生き残る可能性を0.001%でも上げるために、少年はこの白い鎧をまとう。


「お前はいつでも正しいな、巴」


寅之助はロッカーにぶら下がった犬のぬいぐるみを指先ではじき、微笑んだ。

少年の親友はきっと、具体的にこうなることまで予想していたのではあるまいか。

彼女の明晰な頭脳ならばそこまで予想していてもおかしくはない。

だが、それでもこの石川寅之助という岩の塊は死ぬつもりはない。


「へへ、お前さんもいよいよ潮時だな」


寅之助がドレスルームを出ると、前歯の無い小太りな男が声をかけてきた。

普段ならば彼にオープンフィンガー・グローブとマウスピースを渡す役だが、今日は無しだ。


「まだ満ちてもいねぇよ」


寅之助は振り向くこともなく応えると、ダンスホールに通じる道を歩く。

普段ならば聞こえる歓声が、今日は控えめだ。


「絶対に生きて帰ってやる……!」


少年はゆっくりと進み、ホールの中心へと歩み出た。






会場の様子が、普段とは違っていた。

普段なら人垣がリングを作り、そこにいるのは寅之助の対戦相手と、レフェリーとは名ばかりの男だけ。


だが今日は、他にも数人の男がいた。

まずはこの『アトロシタス』のオーナー、寅之助が腕をへし折った男、そして二人の見覚えのない男。


一人は高級そうなスーツに身を包み、センスのよい山高帽を被っていた。

そしてもう一人は腕まくりをしたワイシャツとスラックス、そして鞘に入った日本刀を持っていた。


「これがウチの坊やの腕をへし折ってくれた、例の用心棒かい」


山高帽の男が、寅之助の前に進みでた。

これがおそらくは例のギャングの『幹部』だろう、そう寅之助は推測した。


「女性を殴って喜んでるヤツを相手にしちゃあ、手心を加えたつもりスけどね」


「フ、だろうな」


『幹部』はニヤリと笑った。

そのあとにオーナーが何か言っているのは聞こえていたが、耳には残らなかった。

寅之助には奇妙な違和感があったからだ。


「……変な事聞きますけど、どこかで会った事ないスか?」


「ボケてんのかい、兄ちゃん」


『幹部』は、今度は笑わなかった。

そして『幹部』と入れ替わりに、日本刀を持った男が前へと進みでてきた。

顔には切創と、そして手に持つ日本刀のように鋭い目つきの男だった。

寅之助と目が合う。


「さぁ、本日の選手のご紹介をいたします!まずは東の入場者、ご存じ、この店の用心棒!石川ぁ~寅之助ぇ~!」


黄色い歓声が上がった。

この店で働く娼婦たちが声を張り声援を上げる。

そこには顔を男に殴られていた女性や、寅之助と食事をしたユラの姿もあった。


「まさか俺に女の子の応援がつくとはね」


剃り込みの入った坊主頭を、寅之助は照れくさそうに、かいた。

獰猛な虎の如き顔は、やはり整っているとは言い難い。


「そして西の入場者!対するはやはり『ラフリーズ』の用心棒!語り草になったダイナジョーでの決闘では10人を切った伝説を持つ男!金串ィ~ルィ~!」


目つきの鋭い、日本刀を持った男が前へと進み出た。

金串と呼ばれた男の顔を寅之助は見る。


「ぼくちん人を殺したことありますってか。自慢にゃならねぇよ」


「……」


その男のワイシャツにスラックスという出で立ちは、とても戦う恰好ではない。

戦うのも馬鹿馬鹿しいと思っているのだろう。

それもそのはずだ。


「そして本日の特別ルールをご説明します!本日はなんと『武器の使用、可!』金串選手は日本刀を使用しての戦いになります!」


歓声が上がった。

娼婦たちでさえも。

皆、期待しているのだ。

治安の悪い第6ブロックと言えど、本当に目の前で人が切り殺されて死ぬ事などそうはない。

それが見えるかもしれないというドス黒い期待。

中世においては洋の東西を問わず、処刑は庶民の娯楽であったのだ。


「本日の賭けは一方的なオッズが予想されます!つきましては特別に石川選手が『何秒戦闘を行えるか』という項目を設けました!皆様つのってお賭けください!もちろん石川選手への勝利に賭けられても結構です!」


金串は目を伏せたまま、表情を動かさずに鞘を抜いた。

その瞬間、会場の声が一瞬止まった。

誰も彼もが、その刀身に吸い込まれていた。


「あずかろうか」


「……どうも」


抜いた鞘を『幹部』の男へと手渡すと、刀を構えた。

ホールの光に反射してギラリと光る。


「つまらなそうだな。これから俺が面白くしてやるよ」


寅之助も構えた。

重心を高くし、フットワークを重視した構えだ。

心臓の鼓動が、いつもより早く、大きいのを自覚する。


「それでは……ファイト!」


レフェリーの声が響いた。

声と同時に、金串は刀を両手に持ち、中段に構える。

剣先を寅之助の目へ向ける、正眼の構え。

剣道の最も基本的な構えだ。


「良く出来てるよなぁ、これ」


正眼と相対するたびに、寅之助は思う。

ただ剣を持ち立っているだけ。そんな形容さえできてしまうシンプルな構えは、相対して初めてその脅威が理解できる。


目線へと突き付けられた剣は、剣士を覆い隠す盾として機能する。

既にこれだけでどこへ打てばよいか分からなくなるほどだ。


加えて生理学的な反応として、目の前に突き立てられた突起に、どうしても人間の視線は集中する。

そのために動作の際の術者の「起こり」への反応が鈍り、防御が遅れる。


そしてシンプルな構えだけに、ここからどのような動きへもスムーズに変化が可能。

まさに攻防一体、この構えが剣道のもっとも基本になる理由も良く分かるというものだ。


「……」


「っ!?」


この場にいたもので反応できたのは、寅之助と、おそらくは『幹部』の男だけであった。


突。


静水が変化するが如く、流麗な突き。

数刻前まで寅之助が立っていた場所に、剣先が煌めいた。


「あっぶね!?」


紙一重で避ける。明白な死を感じながら、寅之助は嗤っていた。

金串の突きは、やはり変化をほとんど悟らせぬ動きで、今度は逆胴へと変わる。

それもまた、寅之助は避けて見せる。

金串は、その切れ長の目を見開いた。


「……ほう、剣を相手にしたのは初めてではないな」


「キレイな光物を見せびらかしたくなるヤツが多くて困るよ」


「下らん仕事だと思ったが、存外に楽しめそうだ」


「これからもっと楽しめるさ。最後にはアンタは楽しくなくなるだろうけど」


金串は笑った。

寅之助も笑っていた。

その表情に観客は期待する。これは血が見られるぞ、と。


(さて、と……)


恐怖、狂喜、そして沈思。

全く異なる三つの感情が、寅之助の中で同時にドライブしていた。

日本刀を相手にするのは、見抜かれた通り、初めてではない。

だが使い手のおおよそは単なる街のチンピラ。これほど流麗に、美しさを感じるほどに剣を操る相手では、ない。


寅之助は、事前に考えていたいくつかの策を捨てた。

この金串という男に通用する物では、ない。

では通用する策はなんだ?


それは技術的な策でなく、構造的な策。


全ての物事は表裏一体。

剣を持つ相手に、素手が優位性を確保できる面もあるはずだ。剣術家に、柔道家が勝る点があるはずだ。

考えが、まとまった。


「……そうだな。すべての立ち合いは勝つ気でやらんとな」


唐突に話しかけられ、寅之助は不意を突かれる。


「あんたまさかサイキックとか言わねーよな?だとしたら初めて会うぜ」


「違う。だが、お前が今、俺に勝つ腹積もりが決まったのは分かった。うれしいぞ」


金串の構えが変わった。

諸手左上段。

防御を捨てた、完全に攻撃だけに特化した構えだ。


「へへ……あんた意外とおしゃべりだな」


その構えは、千の言葉よりも雄弁であった。


「鋭!」


金串の発声と共に、鋭い上段が振り下ろされた。

腕と手首のスナップを利かせた、最小の動きで最大の威力を発揮する斬撃。

それを寅之助は、わずかに引く事で避けて見せる。

だが斬撃は、やはり流麗に変化する。


咽。

小手。

草摺。

それを避ける、避ける、避ける。

観客が湧いた。


「その分厚い体で、よく動く……」


「あんたこそ、その細い体で、よくそんな重いもん振り回すよ」


(あ……)


口走った後に、寅之助は反省する。

どうにも自分は嘘や隠し事が下手くそだ。勝負事そのものに向いていないとさえ、たまに思う。


「……?」


金串は寅之助の様子がおかしい事に気づくが、その理由までは察せていないようだった。

この異様に勘のいい男ならば気づきかねないが、今回はそうでは無いようで寅之助はほっとする。


「悪いね、ガスの元栓を閉め忘れたの思い出しちゃった」


「……まぁ、いい。何を考えているのかはしらんが、楽しみにしよう」


『鬼ごっこ』が再び始まった。

切る、突く、叩く。

避ける、避ける、受ける。


防戦一方であった。

この戦いが始まってから、寅之助は一度も攻撃ができていない。

紙一重で斬撃こそ避けて見せるが、それでもある時は皮を切り、時に肉へと食い込む。

真っ白な柔道着が赤く染まり、着崩れし始める。


「ぎゃあああああ!」


鮮血が吹きあがった。

客の一人が、試合に巻き込まれ、切られた。

そもそも明確なリングなどない人垣だけだ。そして人が死ぬのを見に来ているのだ。切られても文句は言えない。


(しまった!)


金串は焦る。

人を切った事などはどうでもいい。

だが肉に刺さった剣を抜くその一瞬。コンマ1秒の隙を、この石川という男はきっと突いてくる。

急ぎ剣を抜き、身構える。


「……何?」


予想された攻撃は、なかった。

寅之助は距離を取り、そこから動いてはいない。

金串は肩で息をし、滝のような汗を流しながら、鼻を鳴らした。


「……下らん。少しは見込みがあると思ったが、ただの臆病者か」


「臆病者?素手の相手にカタナが無きゃ戦えないオッサンの事かい」


金串の額に血管が浮かんだ。

刀を持つ手に力が入る。


「プッ、確かに自分は武器を持ってて臆病者はないだろ」


観客の一人が小さな声で笑ったのが、耳に届いた。


「ぬぅぅぅぅぅぅ!」


顔に怒りをにじませ、金串は突っ込んできた。


(よし!)


寅之助は内心で歓喜する。運の味方もあると。

そして金串の動きを見る。


切る。切る。切る。

避ける。避ける。避ける。


さらに寅之助は血に染まり、道着は崩れ、そして帯が地に落ちた。

反射的に帯を拾いそうになった自分を、寅之助は強靭な精神力で抑え込む。


(まだだ!意図しての動きじゃあダメだ!偶然の……いや必ず訪れる必然を待つんだ!)


徐々に剣の煌めきが鈍り、流麗さが消えうせ、そして偶然、いや必然、寅之助は地に伏せて剣を避けた。


「これだっ!!」


寅之助は叫び、避けると同時に落ちていた自分の帯を掴み、そして投げた。


「なっ!?」


金串の眼前に帯が舞う。

帯などぶつかってもダメージはない。だが当たろうが、よけようが、切り捨てようが、寅之助はどれでも良かった。

必要としたのは、金串が判断に迷い、そして帯を処理するまでにかかる、コンマ数秒。

普段の金串であれば、何事もなく処理できるはずの時間。


「しゃっ!」


金串の意識の隙を縫って放たれた、超低空のサブマリンタックルは金串の足をすくい、テイクダウンに成功する。


「しまった!?」


飛んできた帯を処理しながら、金串は自らの失敗を悟り、口走る。

そして寅之助の最初の攻撃は、そのまま最後の攻撃へと変化する。

倒れた金串の体を、寅之助が這い、そして折りたたむ。


「疲れただろう!?休む言い訳をくれてやる!」


腕ひしぎ十字固め。

一瞬の躊躇もなく、寅之助は剣を持つ腕を折った。


「ぐあああああっ!」


金串が野太い悲鳴を上げるが、折った事に後悔はない。

この男は決してタップしないからだ。

そしてこれで終わらせはしない。

腰を両足で背後から挟み、首を腕で絞める。

裸絞めだ。


「お前……最初……から」


「ああ、そうだ。ハナから帯を使う気だった。だがアンタの技量、そしてアンタの異常な勘の良さは、雑に帯を投げたって、簡単に処理しちまうだろうからな。もう一つ仕掛けが必要だった」


金串は、腕と首の間に顎をねじ込み、絞めを何とかガードする。

しかしそれは、落とされる時間を僅かに引き延ばすだけだ。


「考えたよ。俺の『柔道』がアンタの『剣術』に勝るのは何かって。そうしたら二つ……いや、一つかな。見つかったよ」


寅之助は全身を怒張させて、金串を落としにかかる。


「それは結局、武器を使わないって事だ。あんなもん振り回してたら、いや構えてるだけでも疲れちまうだろ。そして疲労は集中力を大きく下げる。突然の状況への対応力を下げる」


『構える』という事。

それは想像以上に体力を消費する。

武器らしい武器といえば8オンスから10オンスのグラブだけ、加えて3分に一度休憩を挟めるプロボクシングでさえ、試合終盤になると構える疲れからガードが自然に下がってしまうのだ。

この時間無制限の試合で、真剣を振り回し続ければどうなるか、言うまでもないだろう。


「それに剣道の試合って何分やるんだ?5分?10分?あの重てぇ防具を付けてやるんだ、ハードなんだろうさ。だがな」


金串はついに意識がもうろうとし始める。


「伯専柔道の団体戦はな、延長にもつれ込むと時間無制限の一本勝負。基本的には『待て』さえかからねぇ。スタミナのマラソンで俺が負けるとは1ミリも考えなかったよ。そしてアンタのスタミナが尽き始めた時が、チャンスだと思った」


「そうか、だから、あの時……」


金串は、もうろうとしながら思い出していた。

『あんたこそ、その細い体でよくそんな重いもん振り回すよ』

この言葉には、剣を振る事での体力の消耗を伺う本音がチラついていた。


「気づく……べきだった」


金串が、落ちた。

だが寅之助からは、それが真に落ちたのか演技なのかは分からない。

であるならば、確実に絶命するまで絞め続けるべきだ。

刀を持つ相手と素手の自分。

殺人さえ合法足りうる状況下だ。


「……分かってる、今日は分かってるよ」


だが、少年は離した。

例え金串が、落ちた演技をしているだけでも良いと思った。

しかし起きてくる事は無かった。


「し、勝者!石川寅之助!」


上ずった声でレフェリーが叫ぶと、爆発するような歓声が上がった。

誰も予想しない勝利だった。


「へ、今日も俺に賭けときゃ良かったぜ」


寅之助自身、勝てるとは思っていなかった。

全身に切り傷をつくり、いくつかは縫う必要もあるだろう。だがこの程度のケガで終われたのは、幸運としか言いようがなかった。

寅之助は倒れた金串に近づくと、喝を入れ、目を覚まさせた。


「う……俺の、負けか。……なぜ殺さん」


「え?う~ん……殺したら、もうアンタとヤれないじゃん」


それを聞いて、金串は一瞬無表情になった。

そしてそれは苦笑に変わり、忍び笑いになり、ついに声を上げて笑い始めた。

一通り笑い終わると、切れ長の目をこすりながら笑いかけた。


「成程、お前の勝ちだ」


そこへ、山高帽を被った『幹部』の男が、甥とオーナーを引き連れて現れた。

金串は申し訳なさそうに頭を下げた。


「すいません、ゴンドウさん。負けちまいました。この詫びは後で、必ず入れさせてもらいます」


「ん?あぁ、良い良い。面白いもん見せてもらったしな、気にするな」


そういうと、ゴンドウと呼ばれた幹部の男は、金串の折れた右腕を叩いた。

激痛に顔を歪ませるが、これで負けた分は勘弁してやるという事なのだろう。


「大したもんだな兄ちゃん。これで約束通り、ウチのバカ甥の腕をへし折った分はチャラだ」


「そりゃ勝手にすりゃいいんじゃないスか。また来たら残った腕と両足も折る」


寅之助は悪びれる事もなく言い放った。

その言葉に、寅之助に腕を折られたゴンドウの甥は声を荒げる。


「なっ!?叔父さん、良いんですか!?こんな事を言わせて」


するとゴンドウの表情が変わった。


「いい加減にしとけクソバカが!女を殴ってシメられたってだけでも大恥なんだぞ!まだ俺に恥をかかせる気か!?早いところ消えろ!」


ゴンドウの甥は何かを言いかけたが、肩を落としてホールから出て行った。


「下らねぇ邪魔が入ったな。しかし兄ちゃん、強いねぇ。どうしてこんな所にいる?」


「言いたくねぇ」


寅之助が憮然として答えると、ゴンドウは何かを察したように、今度は『アトロシタス』のオーナーを指で呼び出した。

オーナーは黒いアタッシュケースを抱えており、それを持ったまま小走りで走り寄る。


「ケースをよこしな」


「は、はい、どうぞゴンドウさん」


ゴンドウがケースを開けると、そこには札束が詰まっていた。

本当の『詫び』はこの金で、寅之助の試合は単なる余興と言うわけだ。


「兄ちゃん、あんた気に入ったよ。これだけやるからこんな店やめちまいな。どんな事情か知らねぇが、あんたがこんな所にいる理由は金だろう?」


「ちょっ、ゴンドウさん!?」


慌てふためくオーナーを無視して、ゴンドウはアタッシュケースから札束を4つ取り出すと、寅之助に差し出した。

しかし寅之助は感情の無い目で、それを一瞥しただけだった。


「それで店を辞めて、アンタの犬になれってか?確かにそこの野郎はクソだが、ギャングの犬になるのはもっとごめんだ」


「おっと、確かにこいつは俺の配慮が足りていなかったな。じゃあ兄ちゃん、あのシャンデリアを見てみな」


「あ?」


ゴンドウが指さした先のシャンデリアを、寅之助は見上げた。

すると次の瞬間、衝撃が寅之助を襲った。

ゴンドウの左フックが、寅之助の頬を叩いた。中々の威力だった。


「いってぇ!?」


「悪いな兄ちゃん。俺の手が当たっちまった。コイツは慰謝料だ。これでアンタと俺の間に一切の貸し借りは無し」


そういって再度、寅之助に金を突き出した。

今度は寅之助の顔に困惑が浮かぶ。


「……なんでこんな良くしてくれる?理解ができねぇ」


「もったいねぇと、そう思ったのさ。お前にゃまだ理解できないだろうがな。それにこの店の連中は内輪でゴタついてる真っ最中だ。くだらねぇ理由で殺されちゃあそれこそ勿体ねぇ」


ゴンドウはゴツゴツとした手で寅之助に金を押し付け、そして握らせた。

今度は寅之助も拒まなかった。


「……そういえば、さっきのパンチで思い出したよ。どっかで見たと思ったはずだ。あんた、デスフェンサー・ゴンドウだ」


寅之助の言葉に、ゴンドウは目を丸くする。

そして山高帽を深くかぶりなおした。


「……8回戦までしか行けなかった、古いボクサーの名前なんか良く知っているな」


「たまたまだ。ウチのジジイが持ってた古い格闘技のソフトの中に、アンタの試合があった。アンタの堂々とした戦い方は嫌いじゃなかった」


ゴンドウが穏やかに笑った。

しかしそれでも、顔に染みついた露悪は落ちる事はなかった。


「なら、俺が兄ちゃんに金を渡した理由も少しは理解できるだろう。もう会わない事を祈ってるぜ」






その夜。

寅之助は縫い痕だらけの顔で、寝ころんで4つの札束を見た。

これだけあれば多分、祖父の1年分の入院費には十分だろう。

ここを出て、元の家へと帰れる。

だが──






翌日。


「はぁい」


けだるげな声と共に、ボロボロのアパートの扉が開いた。


「どうも、ユラさん」


「あっ、トラちゃん!」


ユラは来訪者の顔を認めると、嬉しそうに抱きついた。

だが、やはりその目だけがどこか笑っていない事に、寅之助は気づいていた。

しかし、あの妙に甘い匂いは、今日はしなかった。


「ちょっと中入っていいスか?」


「あら、こんな日の高いうちから?いいよぉ~お姉さんは別に」


「真面目な話ッス。すぐ帰るんで」


リビングに通された寅之助はソファに座ると早々に、テーブルに紙袋をおいた。


「なぁに、それ?」


「自分のケガの治療費に使っちまったんで……ちょっと減っちまったんですけど、それでも3万ギルダンはあります」


ユラの表情が固まった。

そして平静さを努めて出すように、ポットで湯を沸かし始めた。


「へぇ、それが、どうしたの?」


「これだけあれば、正規のIDを手に入れて、上のブロックで薬物依存の治療をして、人生をやり直せる」


それだけ言うと、寅之助は無言でテーブルの上の紙袋を滑らせた。

ユラの顔に、隠しきれぬ動揺が広がる。


「え……え、トラちゃんも、一緒に来てくれるんだよね……?」


「俺は行けません。俺は守らなきゃいけないものがある」


「やだよ……一緒に来てよ……」


「すいません……」


寅之助が、娼婦たちに謝るときはいつもこのトーンだった。

深い後悔とやるせなさ。

だが、選択肢などなかったという、深く重い声。


「分かった……」


ユラは紙袋をぎゅっと抱え込んだ。

この時、初めてユラの目に感情が宿った。


「これからもキツい事ばかりだと思います。でもどうか、どうか、幸せになってください」


「でもなんで……なんでこんな事してくれるの!?私、トラちゃんと何にもしてないんだよ!?」


すると寅之助は視線をそらし、そして僅かに顔を赤くした。


「さぁ……ユラさんが可愛いからじゃないッスか」


「……ありがとう」


ユラは寅之助を抱きしめると、その額にキスをした。

それ以上は、何もなかった。




ユラのアパートの帰り道は、いつも通り曇天だった。

ここネイモアシティ第6ブロックまで、設計上は太陽光が届くようになっている。

しかしあまりにも深いブロックなために、届く光はいつも曇りの日のように薄暗かった。

帰り道を行く寅之助は、犬のぬいぐるみを見た。


「これでお前に少しは近づけたかな……なんて言うには、動機が不純かな」


それでも寅之助の心は晴れやかだった。

だが、寅之助は見ていない。

アパートを出る際に、ユラの目に浮かんだ不安と焦燥感を。






ユラが『アトロシタス』から消えて2週間後。

今日も寅之助は走る。

この日は調子が良かった。

記録を伸ばし、普段は走らない隣のエリアまで走る。

三次元モノレールで駅を20はまたぐ距離だ。


「ハァッ……ハァッ……ハァッ……んん!?」


その時であった。

寅之助の鍛えられた動体視力と、遠くまで見える目が、一人の女性を視界にとらえた。


「ユラさん……?」


間違いなかった。

この第6ブロックから出て行ったはずの、ユラの姿だった。


なぜだ?

ここに戻らなければならない理由でもあったのか?

そんな疑問が浮かびながら、寅之助はユラへと走り寄ろうとした。

距離があったために、ユラは寅之助に気づいておらず、そして彼女と同年代か、もしくは少し下の少女と話し込んでいるようだった。


「ユラさ……」


声をかけようとする直前の事だった。

寅之助は見た。

ユラが金と引き換えに、何か小さな小袋を売っている事を。

ユラが買うのではない、明らかに売っていたのだ。

そしてユラの腕にできた注射痕は、この距離からでも増えているのが分かった。


「あ……?」


思考の追いつかない寅之助の前で、ユラは近づいてきた別の男性に抱きついた。

どこか寅之助に似た面影のある、タフな男性だった。


そこまで見ると、寅之助は声をかけるのをやめ、踵を返しランニングを再開した。

もう、彼女にしてやれることは何もないと、寅之助は悟ってしまった。

自分の胸か、それとも頭か。その中にある、柔らかい物がつぶれたのを感じた。


ああ、そうか。

俺はまだ分かっちゃいなかった。

巴が本当に危惧していたのは、俺が死ぬことなんかじゃない。


寅之助は、ペースを上げた。





評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ