凛として咲く獣-06
剃り込みの入った坊主頭の少年が、街を走っていた。
見た目だけなら二十代。
だが、彼の実年齢はわずか十三歳。
異様な肉体を持つ少年だった。
盛り上がった背筋、大胸筋、肩甲挙筋。
全身が分厚く、175cmほどの身長ながら、巨大な肉の塊が疾走しているように見える。
薄汚れた街を走っていた。
卒塔婆のような、ブロック全体を支える巨大な支柱が町全体を睥睨する。
巨大なネズミが子猫の死体を咥えて走り去り、空を飛ぶいくつもの広告ドローンは、卑猥な立体映像を街の空へと映し出す。
額からは滝のような汗。
ショートパンツもアンダーアーマーも、まるで水を浴びたように濡れていた。
少年は立ち止まり、防水処理された安物の時計を見る。
「ハッ……ハッ……クソ、もうこんな時間か」
額を汗で光らせながら呟く。
「もうちょい……走れるが……」
まだ余力はある。
倒れるまで走っていない。
限界まで絞り出していない。
極限まで鍛えたい。
倒れるまで走りたい。
そんな欲望とも不安ともつかぬ感情が胸に湧き上がる。
ここで止まるのは、怠けた心ではないと言い切れるか?
本当に自分はベストを尽くしているのか?
「……ダメだ。オーバーワークだ」
そう言って彼は踵を返した。
10km以上の距離を再び走り、商業ブロックを抜け、そして違法に建築物が積み重なった、巣穴のようなアパートへと入る。
ここが、現在の彼の住処だった。
靴を乱暴に脱ぎ、洗面所へ向かう。
鏡には、短く刈った坊主頭と、潰れた耳。
そして、野犬のようにギラついた目。
その目で、鏡の中の自分を睨む。
「お前は強い。お前は強い。お前は強い……」
三度唱える。
自分に言い聞かせるように。
そうしなければ、心が折れてしまいそうだった。
「……よし」
気合いを入れ、ボロボロのヘッドがついたシャワーで体を洗い流す。
水不足が深刻なこの地球で、ネイモアシティの地下プラントが汚水処理施設になっているからこそできる贅沢だった。
毎朝の儀式を終え、朝食の準備に取りかかる。
昨晩のうちに用意しておいた山盛りのブロッコリーとキャベツ。
同じく山盛りのネギと合成タラの水煮。
そして、これでもかというほどの玄米。
それらを電子レンジで温め、猛烈な勢いでかき込む。
賞味期限の切れたキャベツとブロッコリーはしなび、合成タラは、本物のタラから訴訟を起こされかねない味。
だが、少年は気にすることなく口へと運ぶ。
「ごちそーさん!」
手を合わせ、人工フルーツ粉末と安物プロテインを合成ミルクで割って飲み干す。
合計1800kcal。
歯を磨きながら服を着替え、あっという間に身支度を終える。
そして声をかけようとして、気づく。
「行ってきますと言う相手もいないのは、寂しいねぇ」
鼻を鳴らしながら、少年──石川寅之助は、ボロボロのアパートの扉を閉めた。
朝と夕、2回のランニングを経て、少年が向かったのは如何わしい雰囲気のバーだった。
店の名は『アトロシタス』。この店を経営するギャング組織の名前が、そのまま店名であった。
ネイモアシティの住居エリアとしては、最下層に当たる第6ブロック。
その主流産業はアルコール、ギャンブル、セックス、ドラッグ、そして暴力。
この『アトロシタス』では、そのすべてが提供されていた。
その店の片隅に、寅之助は不動のまま佇んでいた。
いかにも安くはなさそうな青いスーツを上下に着用し、店全体を睥睨する。
客の身なりは大半が明らかに上等でない一方で、一部には異様に高価な衣服を身に着けている客もいた。
それらの大半は、およそどれもがアルコールやギャンブルを楽しんではいない。
明らかに10代かそれ以下に見える少女を連れているか、あるいは白い粉を鼻から吸い、腕に注射針を刺しているか。
寅之助はギャングの内部抗争によって店を破壊された結果、そのギャングの片棒を担いでいる自分を自嘲した。
「誰か、誰か助けて!」
悲鳴が店に響き、店中の視線が一斉にそちらへ向いた。
全裸の女性が、頭から血を流しながら店の個室から飛び出してくる。
頭だけでなく、その顔全体に殴られた後があった。
目はつぶれかかり、唇はめくれ上がり、前歯が折れている。そして寅之助の記憶の限りでは、もっと小さな顔の女性だったはずだ。
「お願い、誰か!」
女性は涙を流しながら懇願する。
しかし一瞬集まった視線は、すぐさま興味なさそうに戻される。
客も、彼女の同僚も、誰もが。
たった一人を除いて。
「おいおい、話が違うだろ?」
その女性を追って、にやけた顔の男が部屋から這い出して来る。
上半身裸のその男は、腕に短い鉄の棒を持ったまま女性へと迫る。
そこへ、寅之助が割り込んだ。
「待ちなよ」
「あ?あぁこの店のバウンサーか。俺はな、この女に何してもいいって条件で10倍の額を払ってる。店に確認を取ってみな」
男はニヤけた顔を崩さぬまま、寅之助を避けて女性に近づこうとする。
しかし寅之助は腕で制した。
「あ?聞こえなかったのか?俺は10倍の……」
「聞こえたよ。だから?」
「だからって……おいおい」
男は肩をすくめると、バーテンダーへ視線を向ける。
しかしバーテンダーはそれを無視した。
寅之助は裸の女性に自分のジャケットをかぶせると、男へと再度向き合う。
「悪ィが店とアンタの約束に俺は興味がない。俺が言いてぇのは、すべての女性に敬意を払えってことだ」
「ふざけるな!商売女に敬意なんか払えるか!」
それ以上の言葉は必要なかった。
男の小指が、へし折られていた。
「が、があっ!?」
男は何が起こったか、理解できなかった。
ただ痛みと恐怖だけが男を支配していた。
「帰れ。十分だろ」
だが、男には存外にガッツがあった。
それが不幸でもあったのだが。
「お前ええええ!」
手に持ったままの鉄棒で、寅之助に殴りかかった。
寅之助は微動だにしないまま、それを額で受けた。
「へ、へへへ……悪いのはお前だ……ぞ?」
「こんなもんでソラニクさん殴ったのかい」
殴られた寅之助には、ダメージは見て取れなかった。
そして男の持っていた鉄棒を、強引に奪い取ると、ぞうきんを絞るようにねじった。
「ひっ!?」
鋼鉄が、一瞬にして粘土に化けた。
鉄の棒は、らせん状のオブジェと化し、ねじ切られる。
「なぁ……今、どんな気分だ?」
一方的に弱い者へ振るわれる暴力。その怖さも、屈辱も、よく知っている。
泣き叫ぶ幼い少年。タバコの火を押し付ける手。横で笑っていた女の顔。
遥か昔に治ったはずの火傷が、うずいた気がした。
そして、動いた。
小手挫。
腕がらみ。
最期に強引に肩を引っ張り、脱臼させる。
「あ、あああああ!?」
手首、肘、肩。
3つのジョイントが破壊され、男の右腕が、体にぶら下がるだけの肉の棒と化した。
男の顔には、恐怖と赦しを請う表情だけが浮かんでいた。
「殺してぇぇぇぇ!」
殴られた女性が、悲鳴を上げるように叫んだ。
それに呼応するように寅之助は一歩近づいた。
「理由が出来た」どこか、頭の中ではっきりと自覚する。
そして寅之助は、嗤った。
「ひいっ!」
その貌を見た男は、すべてを悟った。
寅之助の腕が、男の首にかかろうとした時であった。
スラックスのベルト止めに引っ掛けていたものが揺れ、それが寅之助の視界に入る。
巴から預かった、犬のぬいぐるみだった。
「お、お願いだ、俺が悪かったです……だから助けて」
しゃがみこんで懇願する男に、寅之助は顔を近づける。
「……怖えだろ?アンタに殴られたソラニクさんは、間違いなくもっと怖かったはずだ。だからもうこんな事やめろ。……行け、二度と来るな」
それを聞くと、男は腕を押さえながら一目散に逃げだした。
酔客たちから歓声が上がった。
そして寅之助は、一直線に殴られた女性へと駆け寄った。
「大丈夫スか」
「……どうして殺してくれなかったの」
「すいません……」
寅之助は女性に肩を貸しながら、奥のドレスルームへと引っ込んでいった。
店が閉店する。
寅之助は高価そうなスーツを脱ぎ、クリーニングの回収用ハンガーへと丁寧にかけた。
もちろん寅之助の私物ではなく、この店のバウンサー(用心棒)としての衣装だ。
寅之助は店の賭け試合に出るだけでなく、バウンサーとしてもこの店に雇われるようになっていた。
仕事は先ほどのように、迷惑な客をつまみだすこと。
この店では、毎日のように仕事があった。
服を着替えて店から出ると、強く甘い匂いが香った。
その臭いは、一人の露出の高い格好をした、金髪の女性からであった。
「トラちゃぁん、一緒にかえろ。ご飯おごってあげちゃう」
「……ユラさん、また寂しくなったんスか?」
「もぉ、そういう言い方やめてよぉ。お疲れ様、でしょ?」
ユラと呼ばれた金髪の女は笑いながら寅之助に抱きつき、指先で胸元をなぞる。
寅之助は一瞬、体温が上がるのを感じたが、そっと彼女の手を外した。
「お疲れ様ス」
「つれないなぁ」
ユラは、まるで子供の用にプっとむくれた。
それを見て寅之助は苦笑する。
彼女は決して美人というわけではなかった。
だが彼女の持つどこか壊れた可憐さは、男を狂わす独特の魅力があった。
「ほら、一緒にいこ?」
「いいスよ。腹減ってたとこだし」
ユラが腕を絡めてくる。
寅之助は拒まなかった。
年齢は自称20歳。だが実際にはもう少し下であることが、肉体に触れた寅之助には察せれた。
深夜のダイナー。
二人は向かい合って食事をしていた。
「今日もカッコよかったよ~。アイツの腕、グシャッてやったとこ!」
「……褒められる仕事じゃないスよ」
寅之助はエッグソースをミートボールにかけて、かじりついた。場末のダイナーにしては悪くない味だ。
ここでは自分の暴力性が否定されることはない。
それどころか、好きなだけ暴力を振るう事が出来、振るう事で賞賛され、振るう事で賃金まで得られる。
この仕事は、向いている。
寅之助はそう思った。
抗いがたい心地よさを感じていた。
「でもね、みんな言ってるよ。トラちゃんが来てから安心して働けるって」
「俺が単にムカつくんスよ、ああいうの」
寅之助は僅かに口角を上げ、ユラは一瞬、目を見開いた。
寅之助の言葉は、いつも真っ直ぐすぎる。
「……ふふ、そういうとこ好き」
ユラが笑ってチキンを口に運ぶ。
その腕に、隠しきれない注射痕が見えた。
寅之助は視線を逸らさずに言った。
「……また打ったんスか」
「やだ、見ないでよ」
ユラは腕を隠すようにして笑った。
その笑顔は、どこか壊れたガラスのように脆い。
「治療、行ってるんスよね?どうスか。今は昔と違って、ナノボットとかでちゃんと依存症も治るんでしょ?」
「お金がね……。IDないと、まともなとこ行けないし。その分とっても高くついちゃうの。それに、やっぱり頭の中に機械を入れるのって、怖いよ」
「……薬を打つのは、怖くねぇの?」
ユラは少しだけ黙り、そして小さく笑った。
「怖いよ。でもね、薬がないともっと怖いの。やめたいけど……薬がないと、私、私じゃなくなるの」
寅之助は胸の奥がざわつくのを感じた。
彼女の言葉は、昔の自分の痛みを思い出させる。
「ユラさんは……前を向こうとしてるんスよ。俺は、そう思う」
「やめて。そういうの、つまんない」
ユラの声は冷たかった。
寅之助は、安易に彼女のプライドに触れた事を反省する。
「……すんません」
「ねぇ。どうしてもやめさせたいならさ、もっと怒ってよ」
「は?」
ユラは席を立ち、寅之助の隣に滑り込む。
細い指が、寅之助の太腿をなぞった。
「トラちゃんが叱ってくれたらさ、私やめられるかもよ?トラちゃんに怒られるとね……なんか安心するの」
寅之助には、今の言葉が理解できてしまった。
奴隷には、奴隷の安心がある。
それを寅之助は、4歳の時に知ってしまっていたから。
「……わかりますよ、それは。でもその寄りかかる相手は誰かじゃねぇ、自分自身じゃないとダメなんだ……!」
寅之助は、怒りとも悲しみともつかない、ただ真剣さだけを湛えた瞳で、ユラを見た。
「これが正しいのか俺にも分からねぇ。でも俺は、ユラさんを叱ったりしたくねぇ……」
火傷の痕が、また疼いた。
ユラにも似たような傷があった。
「……ふーん、じゃあ、いいよ。それよりさ」
寅之助の太腿に置かれた指が、上方へと怪しく這う。
「楽しいことしよ? 今から私の部屋、行こうよ」
寅之助は下半身に血が集まるのを実感した。
そして頭の中で声が響く。
誘ったのは向こうだ、抱いてもお前の美学に反しねぇだろう?と。
こうも言う。
もう、堕ちちまえよ、と。
その声の主は──
「……」
寅之助はその手を掴んだ。
強くではなく、逃がさない程度に。
「……行きてぇスよ。正直」
ユラの目が揺れる。
「でも今のユラさんと行ったら……俺、多分後悔する。俺は、ユラさんに敬意を払いてぇ」
ユラは笑った。
笑ったが、その目はまた笑っていなかった。
「……ほんと、トラちゃんって変な子」
寅之助は答えなかった。
ただ、彼女の手をそっと離した。
翌日、寅之助は店のオーナーに呼び出された。
40代前半ほどの、神経質そうな細面のその男は、葉巻の先端を切ると、紫煙をくゆらせた。
「お前、どういうつもりだ?」
「なんの話か分かんねぇッスね」
マホガニーの机を挟んで、オーナーと寅之助は向き合っていた。
部屋の片隅には、一体の旧式パワード・スーツが鎮座している。
装甲と筋力増加機能を備えた、いうなれば最小の戦車。
18年前の宇宙怪獣との戦争で従軍していたという、このオーナーが着ていたものと本人は嘯いているが、そんなタフな男には見えなかった。
「おい!聞いてんのか!」
男性としては、高い声が声が響く。
この神経質な男は、第6ブロックを牛耳る複数あるギャンググループのうち一つにして、この店の店名にもなっているギャング『アトロシタス』の一員でもあった。
男は机を強くたたいた。
「ふざけるな!お前が昨日、腕を折った男はな、『ラフリーズ』の幹部の甥だぞ!」
「……ラフリーズってなんでしたっけ?幹部の甥っ子って遠いな~」
「第6ブロックのデカいギャングの一つだよ!このバカガキが!」
「へー。学校じゃ教わらなかったんで。朝刊で読んだ覚えもない」
寅之助の白けた態度に、オーナーは目を血走らせた。
「いいか?この『アトロシタス』はな、管理こそウチの組がしてるが、中立地帯って事になってるんだ。そこでヨソの幹部の家族をケガさせたとあっちゃあ、俺の責任問題にもなってるんだよ!!」
オーナーは頭を掻きむしった。
現在の『アトロシタス』は前任のボスが死亡し、幹部同士の権力闘争の真っ最中であった。
「くそっ、わざわざ身内同士で撃ち合ってる真っ最中に、厄介事を持ち込みやがって……こんな状況じゃ何かの間違いで俺の首が飛んだっておかしくないんだぞ!!」
「話が見えねぇッスね。俺となんの関係が?」
ついにオーナーは立ち上がった。
そして寅之助の胸倉をつかむ。
「テメェ、殺すぞ?腕を折ったのはテメェだろうが!無関係なわけねぇだろ!!ガシィィィィ!」
甲高い奇声を上げて、オーナーは凄んだ。
だがそれでも、寅之助の白けた態度を崩すことはできなかった。
「あんた、勘違いしてねぇか?確かに俺はアンタに雇われてここの用心棒をやってるし、ここで試合にも出てる。だが、それだけだ。俺はお前の奴隷じゃねぇんだよ」
「この……っ!」
ついにオーナーは拳を振り上げた。
だがその瞬間、はじけたように寅之助が動く。
胸倉をつかんでいた腕を制し、そのまま脇固めで動きを封じる。
「ぐあっ!?」
「一つ忠告しとく。柔道家の襟を簡単につかんだりするもんじゃない」
楽しい。
オーナーに脇固めをかけている、この破滅一歩前の状況を、寅之助は明確に楽しんでいる事を自覚した。
脇固めによってオーナーは、寅之助の足元で跪くような形になり、その上から寅之助は声をかけた。
屈辱がオーナーの顔に浮かぶ。
「賢いつもりか、テメェ!いいか、お前のジイさんが入院してる病院は分かってるんだぜ!治療費が大変でここに来たんじゃねぇのか!?」
「あ?」
その瞬間、部屋の温度が一度下がったように感じた。
寅之助の目が、笑いも怒りもない『獣の目』に変わった。
あと、ほんの少し力を加えるだけでこの神経質な男の肘と肩を外す事が出来る。
しかし男の口は止まらない。
「折れるもんなら折ってみろ!その時はテメーもテメーのジジイも終わりだ!金だってもう稼げない!」
寅之助はぎり、と歯をならし、そしてオーナーを開放した。
オーナーは怯えと嘲りの混じった目で寅之助を見た。
「ひひ、わ、分かればいいんだ、分かれば。大人しくババア相手に腰振ってろ!テメェは俺の商品なんだよ!」
「……で、俺に何しろと?」
オーナーは肩を押さえながら机に戻ると、落ち着き払って寅之助を見る。
しかしそれが虚勢であることは誰の目にも明らかだ。
その顔には、明らかに恐怖が浮かんでいた。
「簡単だよ、お前には試合をやってもらう」
部屋の隅のパワード・スーツの冷たい装甲が、光を反射した。




