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凛として咲く獣-05

武蔵野巴は、目覚ましが鳴る前に目を覚ました。

まだ部屋には朝の光が届かない。だが彼女の体内時計は、秒単位で正確だった。

ベッドから起き上がると、まずカーテンを開ける。その日は曇天だった。


「いやな天気……」


そう呟く声は、年齢にしては少し低く、落ち着いていた。

洗面所で顔を洗い、歯を磨き、肌の手入れをする。

動作はすべて無駄がなく、流れるように整っている。


「ケイちゃん、起きて。朝だよ」


「う〜ん……あと五分……」


妹の寝ぼけた声に、巴は小さく笑った。

朝食は、昨晩のうちに仕込んでおいた自家製のグラノーラと、オレンジを絞ったジュース。

妹のケイの分も、きちんと二人分用意してある。


「ごちそうさま」


「ふわぁ……ごちそうさま」


そして食後、トレーニングウェアに着替えると、巴は手首と足首に、砂鉄入りのパワーリストを装着する。

これは、いわゆる『重り』である。

まだ小学生の妹と同じ距離を走るならば、その分、質を高めるべしと、寅之助が提案してくれたものだ。

こんな道具、もし寅之助と知り合っていなかったならば、今でも知らなかったに違いない。


「さ、行こうか。ケイちゃん」


妹の手を引き、エレベーターで下層へと降りる。

走るコースは、都市の中層をぐるりと回る遊歩道。

人工の緑と、整備された空気循環装置が並ぶその道を、巴は静かに走る。


『言う気はねぇよ』

『ジジイは、きっと俺のためなら店を捨てるよ。そんなジジイの店だから、俺は守る』

『じゃあ、どうすればいい?カネでもくれるのか?』


面と向かって寅之助から突き付けられた言葉が頭に浮かぶ。

すると無意識に、巴の足は速くなる。


「おねーちゃん、早いよぉ……!」


その声に気づき、巴は立ち止まる。

振り返ると、妹のケイが肩で息をしていた。


「ごめんね。ちょっと、気が急いてた」


そう言って、追いついてきた妹の頭を撫でる。

そして再び走り出す前に、巴はふと空を見上げた。

やはり不吉な曇天が、巴を睥睨する。


「……寅之助、今日も走っているかしら」


その声はまるで、遠くにいる寅之助と同じ時間を共有していることを、確かめるようだった。

そうしなければ、彼がどこかへ行ってしまうのではないか、そんな不安を抱えながら。






放課後。

学校を終えた巴は、迷いなく病院へ向かった。

寅之助のことが心配で仕方がない。

だがそれ以上に、昨日、彼の言葉に潜んでいた違和感が、頭から離れなかった。

確かめなければならない。

彼を助けるために。


「おお、巴ちゃん。すまないね」


病室に入ると、寅之助の祖父が穏やかに笑った。

思っていたよりも顔色が良い。背筋も伸びている。


(……本当に『1年の入院』が必要な人の状態だろうか?)


巴は胸の奥で、疑念が静かに膨らむのを感じた。


「まぁ可愛らしい。いつも来ている子とは別のお孫さん?」


看護師が明るく声をかける。


「私の血が入ってこんな可愛い子が出来ると思うかね?孫の彼女だよ」


「いえ、友人です」


「まぁ青春」


巴は否定したが、看護師は楽しげに笑って処置を続ける。

訂正する気力も湧かない。


「寅之助は、よく来るのですか?」


「頻繁に来とるよ。来んでもええと言っとるんだがな。そんで病院まで来て筋トレしとるんだ、あのバカは」


祖父は照れくさそうに笑った。

その表情に、寅之助の面影があった。


「凄いのよ~寅之助君は。ベッドの横で腕立て伏せしたり、長椅子に寝転んで足を上げ下げしたり。家で真似したけど、一回もできなかったわ」


「ドラゴンフラッグと言うそうですよ、あれ。できませんよね」


巴は思わず小さく笑った。

寅之助らしい。

どれだけ状況が悪くても、彼は強くあろうとする。そういう寅之助のストイックな部分が、巴は好きだった。

看護師が去り、病室に静けさが戻る。

祖父は、巴の表情を見てすぐに察した。


「で、まさかこんなジジイの話し相手に来たわけじゃなかろう。寅之助に何があった?」


巴は息を吸い、言葉を選んだ。


「……全てを言う事は出来ません。寅之助との約束があります。ですが、彼は今、良くない状況にいます。彼を助けたい。そのためには、石川さんの協力が必要です」


「私の孫のことだ。知る権利があると言っても、話せんかね?」


巴は迷った。

言えば、すべてが解決する。

祖父が店を売れば、行政の支援が受けられる。

寅之助は危険な場所から抜け出せる。

だがそれは、寅之助の大切なものを奪う行為でもあった。

巴は、寅之助だけでなく、寅之助の大切な物も守りたいと思った。


「……申し訳ありません。言えません」


「……そうか。だが、お前さんは頭がいい。そして寅之助の友達だ。正しい選択をしとると信じとるよ」


巴は深く頭を下げた。


「それで、このジジイに何をしてほしいんだ?」


「まず、麻痺の程度を教えてください。今のご体調は?」


「だいぶ良くなっとるよ。倒れた直後は顔も動かせんかったが、三か月でここまで戻った。サイボーグ置換も必要ないと言われた」


(……やっぱり)


巴の中で、昨日の違和感が確信へと変わった。

寅之助は「脳梗塞で1年入院」と言った。

だが現代医療で、この程度の軽度な脳梗塞で1年はありえない。


「投薬リスト、リハビリ計画、カルテ。主治医の方に、すべて用意していただけますか?できるだけ早急に」


「構わんが……何をする気だね?」


「すぐに分かります」






帰宅した巴は、制服を脱ぎ捨てるようにして着替えると、ガレージへ行きPCを起動した。


「結局必要になるなら、とっとと買えば良かったわね……カメラ」


通販で最安のものを購入する。

欲しかった靴は諦めた。

次にSNSを開き、病院の公式アカウントを探す。


「あった」


巴は小さく呟くと、即座に簡易プログラムを書き、病院が投稿した写真をbotに収集させた。

病院の案内図、航空写真、投稿文――

それらを組み合わせ、病院内部の見取り図を作り上げる。


(……ここまでは合法。ここから先は、まぁ……寅之助のせいね)


巴は自嘲気味に笑った。

だが、その目は真剣だった。

時計を見ると、もう11時を過ぎている。

今日はここまでだ。


翌日。

巴は再び病院を訪れ、祖父からカルテ一式を受け取った。


「これでいいかい」


「ありがとうございます」


巴はその場でカルテを開き、主治医の名前を確認する。

黒手。

病院HPで顔とシフトが確認できる。


「巴ちゃん、一体何をする気だい?」


「え?ああ、この病院に忍び込んで、治療費が不正に水増しされている証拠をつかみます」


「えほっ!?」


祖父が盛大にむせた。


「ちょ、ちょっと待ちなさい。話が飛躍しすぎてジジイには分からん」


「そうですね。まずは父の伝手で、石川さんの病状とカルテの整合性を確認します。忍び込むのは、その後です」


巴は淡々と説明した。

だが、その口角はわずかに上がっている。

寅之助が見れば、間違いなく言っただろう。『絶対ロクな事にならねぇ』と。


「そ、そんなことしなくても、警察に通報すればいいんじゃないのか?別の病院に移ったっていい」


「それも一つの手です。でも、私にはもう少しだけ良い考えがあります」


巴は人差し指を口に当て、悪戯っぽく笑った。

普段の彼女なら絶対にしない笑い方だった。

もしここに寅之助がいたら、間違いなくこう言っていた。


『ヤバい。絶対巻き込まれる。最悪だ』




さらに翌日。

インド洋の人工都市に赴任している巴の父から連絡が入った。

北太平洋上のネイモア・シティとは十八時間の時差がある。


「お父さん?……うん、見てくれた? そう。ありがとう。科学隊のお仕事、頑張って」


通話を終えた巴は、小さく息をついた。

やはり自分の直感は正しかった。

寅之助の祖父のカルテを確認した医師は、「一年も入院が必要とは思えない」と断言したという。


カルテは仕組み上、偽造がほぼ不可能だ。

だからこそ、別の医師の目に触れれば、不審な診療はすぐに露見する。


「ふむ……となると、また準備が必要ね」


巴は端末を操作し、別の番号へ発信した。


「もしもし、アリシア? また手伝ってほしいことがあるの」


電話の向こうで、快活な少女の叫び声が響く。


「またぁ〜!? もうやだぁ〜!」




「やれやれ……ほとんど『燃えないゴミ』だったこれが役に立つ日が来るとはね」


巴の自宅ガレージ。

彼女の目の前には、奇妙なゴーグルが置かれていた。

フレームと一体化した筐体が緑色に点灯し、ケーブルで充電されている。

巴は眼鏡を外して生体式コンタクトレンズに替えると、ゴーグルを装着し電源を入れた。

視界に、補助情報が次々と浮かび上がる。現在時刻、俯瞰地図上の自分の位置、危険情報――。


いわゆる拡張現実、ARゴーグルだ。

昔、物珍しさから両親にねだって買ってもらったが、すぐ飽きて物置に眠っていた代物である。


「良いわね。旧式部品の置換はうまくいってる」


バッテリや素材など、手持ちの部品で交換できるものはすべて更新した。

動作も問題ない。

筐体もABS素材から、3Dプリントしたカーボン素材へと換装済みだ。


「さて、問題はここからだけど……」


PCに接続し、自作アプリをインストールする。

作業はすぐに終わり、巴は再びゴーグルを装着した。


「よし、うまくいった!」


冷静な巴も、思わず声が弾んだ。

表示される情報が一段と精密になっている。

マップ上の位置情報はより正確に、監視カメラの位置や視界も推定して警告表示される。

次に、ガレージの明かりを落とす。

小さな採光窓しかない空間は、完全な闇に沈んだ。


「次は赤外線探知……必要のない知識とスキルが増えていくわね……」


ぼやきながら赤外線ライトをオンにする。

アリシアにまた手伝ってもらい、ゴミ捨て場で収集したリモコンなどから、赤外線装置をまとめたものだ。

人間の目には見えない光が反射し、ARゴーグルは闇の中の情景を鮮明に描き出した。


「ふう……一番大変だと思っていたけれど、案外なんとかなったわね」


ゴーグルを外して机に置くと、簡易ハンガーにかけていた衣服を取り出し並べる。


長い髪をまとめるキャップ。

顔を隠す防護マスク。

動きやすく頑丈なスラックスとジャケット。

指紋を残さず、物をつかみやすいグローブ。

靴底に静音材を貼り付けた安物のスニーカー。

すべて光を吸収する黒色スプレーで真っ黒に染めてある。

近所のホームセンターで揃えた安価な品だ。


巴は服を脱ぎ、それらに着替える。

そして再びゴーグルを装着し、姿見の前に立った。


「……私、間違いなく迷走している」


鏡の中には、アメコミから飛び出してきたようなコスチューム・ヒーローが立っていた。




さらに翌日の夜。


「ぷはっ!」


物入れの中から『完全装備』の巴が顔を出した。

面会時間内に堂々と病院へ入り、物入れに隠れ、営業時間外になるのを待っていたのだ。


「暑い……次は脱水対策を考えないと!」


汗を拭いながら反省を口にする。

ARゴーグルを起動し、目的地までのルートを表示させた。

目的地は、寅之助の祖父の主治医・黒手医師の個人端末。

SNSの情報をつなぎ合わせ、医師の部屋まで割り出せたのは幸運だった。


「おっと」


物陰から出ようとした瞬間、ゴーグルが警告を表示する。

監視カメラの位置と推定視界が強調されていた。

AI技術の恩恵だ。

視界に入らないよう慎重に移動する。

その姿は、きっと、外から見れば滑稽なのだろう。だが、そんなことはどうでもいい。


「この姿を見たら、貴方は笑うかしら?それとも心配するかしら?」


巴は小さく呟き、そして小さく口角を上げた。

馬鹿でも、滑稽でもいい。

もしこれで、寅之助を救う事が出来るのならば。


貴方はきっと、私に救われたと思っている。

でも私だって貴方には救われたのだ。


家族以外は皆、私にはどこか距離を置いていた。

それを4歳の時から感じていた。

内面を見透かす視線?どこか近寄りがたいとされる態度?感情を感じさせない表情?あるいは他の何か?

私が私らしくあろうとすると、他人は距離を置いた。


そんな中で、貴方だけが無邪気に、私の隣に居続けてくれた。

私は貴方に与えるだけではなく、貴方から貰った物だってたくさんあるのだ。


(もう一度、あなたと馬鹿馬鹿しい事がやりたい。あれでお別れなんて認めない!)


夜の病院を足早に進んでも、足音は猫のように静かだった。

スニーカーの静音材は成功だ。

音と光に反応する安物の警備ロボットたちは、すぐ真横を通り過ぎても反応さえしない。


「!」


そして、反対側から足音が近づく事に、先んじて気づく。

警備員か、宿直の医療関係者か、あるいは患者か。

隠れられる場所を探すが、完全に身を隠せるスペースはない。

祈るように身をかがめ、植木鉢の影に潜り込む。


「いつになっても慣れないなぁ、夜の病院は」


若い警備員が懐中電灯を照らしながら通路を歩いていく。


(自分の準備を信じなさい、巴)


着ている衣服は、光をほとんど吸収する特殊塗料で覆われている。

日光の下でも塗った形の『穴』のように見えるほど真っ黒だ。

この暗さなら、至近距離でも気づかれない可能性は高い。


コツ……コツ……コツ……


足音が近づいてくる。

迷彩があるとはいえ、懐中電灯が直接当たれば、間違いなくバレる。

そして、そうなった場合の準備まで、巴は怠らなかった。


「使わせないでよ……」


巴は四角い長方形の物体を取り出した。

電気自動車のキャパシタを利用した、大出力のスタンガン。

どんな大柄な男性だろうと一発で気絶させられる代物。

それはつまり、最悪の可能性まである威力という事だ。


(使いたくない……それでも人間一人の人生がかかっている……)


巴の顔から、感情が消えた。


「ふわぁ……」


眠そうにあくびをしながら、警備員は巴の脇を通り過ぎた。

気づいた様子はない。


「ふぅ……」


巴は小さく息を吐いた。

僅かな疲労感はあった。

しかし、それ以外は自分でも驚くほど冷静であった。

『きっと自分は、見つかったらこれを使っていた』その事実を明瞭に認識しながら、スタンガンをリュックにしまった。


常夜灯のある通路を除けば、夜の病院は本当に暗い。

しかし赤外線暗視機能のおかげで、全く迷う事なく目的地へと進む事が出来る。

グレイブヤードで赤外線を照射する装置を集めるのを手伝ってくれたアリシアに、心から感謝した。


そして、ついに目的地へ到達する。

黒手医師の個人端末が置かれたデスクだ。

巴は通販で購入した遠隔操作カメラを、キーボードと画面の両方が映る位置に設置し、巧妙に隠した。


そのデスクの上には、一枚の写真が立ててあった。

幸せそうに子供を抱いている男性と、その横ではパートナーと思われる女性が微笑んでいる。

それを横目で見た巴は、小さく鼻を鳴らす。


「黒手先生、今からお会いするのが楽しみだわ」


そう言うと、巴は病院の窓から静かに脱出した。


巴は気づかなかった。

夜の暗さが覆い隠していた。

先ほどの写真に写っていた子供が、チューブに繋がれて弱弱しく微笑む写真が、もう一枚あったことを。



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