凛として咲きそーで咲かないけもの そのさん
大男が両手をコンパクトに構える。
その目線は、相対する自分を舐めるように見据えていた。
性的な意図の混じった目線。
そして、その男は盛んにステップを踏み始めた。
来る。
そう思う間もない。
目の前に火花が散り、激痛が走る。そして──
「……あうっ!?」
巴は声を上げて、ベッドから飛び起きた。
汗をかいている。
また、病院でギャングと戦った時の夢。
「いつまで見るのでしょうね、この夢……」
何度となく繰り返す、あのボクサーと思われる男に殴られた夢。
あの瞬間が、おそらくは巴の人生の中で、最も恐怖を感じた瞬間であると、彼女は思った。
「喉が渇くわね……」
巴は眼鏡をかけて、ベッドから起き上がった。
その脇には、PTSDやトラウマに関する本が、山積みになっていた。
「一本!白の勝ち!」
審判が旗を上げる。
巴は二回戦も危なげなく勝ち抜いた。対戦相手と互いに礼をすると、試合場の脇にいる寅之助へと近づく。
「いやぁ……すげぇヤツだとは思っちゃいたが、ここまでとはなぁ」
「私も驚いている」
巴は無表情でそう答えると、寅之助に面を外すように促した。
長年の友人はその態度に、何かを感じ取る。
「……何か、楽しくなさそうじゃねぇか」
「初めての試合だもの。ただ目の前のワークをこなすだけで精一杯で、楽しむ余裕なんてないわ」
巴の言葉に、寅之助は乾いた笑いを上げた。
「武蔵野巴にしちゃあ、下手くそなウソだな」
巴は心臓が跳ね上がった。
自分のように言動から論理を組み立てるのではない、直観で正解を当ててくるこの少年を、時に脅威に思う。
「そもそもお前が格闘技に興味を持ったのが土台ヘンだったんだよ。それも打撃系なんて限定してよ。……話してみ」
場内へアナウンスが響いた。
女子の部の決勝戦は20分の休憩をはさんだ後との事。これでもう、逃げられない。
「……こっちへ来て頂戴」
巴は寅之助の手を引くと、通路へと引っ込んでいった。
「トラウマ?」
「そう。何度も殴られた瞬間を夢に見る」
巴は観念して、寅之助にすべてを話した。
病院で3人組のギャングと戦った際、その中にボクサーらしき男がいて、その男に殴られた事が原因で、軽いPTSDのような症状があると。
「病院へは……行けねぇか」
寅之助は沈痛な表情を見せた。
病院へ行けば、必ず原因を話す必要がある。カウンセリングには正確な事実が必要だ。
医者に守秘義務があると言えど、犯罪に関する情報はその限りではない。
「謝らないで」
「まだ何も言ってねぇ」
「謝ろうとしたでしょう」
「悪いが、今回は外したな」
寅之助は、バツが悪そうにそう言うと、顔をそむけた。
本音を言えば、巴へと謝りたい気持ちはある。
だがそれは、彼女の気高い決意を汚す気がした。あの第5ブロックでの駅で、巴が服を脱ぎ捨てようとした時から決めたのだ。
彼女を、美化の檻には入れはしないと。
「……とにかく、それでトラウマの治療には、似た経験を何度も克服するのが有効だと本にあったわ。そうすることで、トラウマを薄れさせると」
「それでいきなり格闘技かよ。発想が相変わらずぶっ飛んでるというか……」
寅之助は、コイツのそういうところが良いなぁ、とは口に出さなかった。
「まぁ、お前の考えは分かった。何か言ってやりたいが、悪いが何も思いつかねぇ」
「でしょうね」
巴は無表情のまま言い放った。
自分でさえ考えつかないのだ。
「……本当に役に立たねぇ事を言うけどよ」
寅之助が頭を掻きながら切り出した。
「頼むから、俺にして欲しいことがあったら、それを隠すのはやめてくれ。何だってやってやる。俺はお前に、それだけのことをしてもらった」
「そ……」
巴が言葉を返そうとするのを、寅之助は手で制した。
そしてそのまま言葉を続ける。
「分かってる、こんなのは間違いだ。お前が本当に何をしてもらいたいのか、ちゃんと考えて、自分から動いてやらなきゃいけねぇ。それが本当の親切って事だ。だけど俺はお前ほど察しが良くねぇ……」
そんなことは無い、そう巴は言おうとした。
しかし寅之助は、巴の想定を超える言葉を被せてきた。
未熟で、本人のいう通り役に立たない。だが、その姿勢そのものが嬉しかった。
「努力はする。だが完璧は無理だ。だから頼むから、俺を頼ってくれ」
「頼むから頼ってくれ、なんて、おかしな言い回し」
巴はくすりと笑った。
そして寅之助の腹部を、強く打った。
1か月の訓練程度ではとても撃ち抜けない、鍛え上げられた腹筋に阻まれた。
「なんだよ!?サンドバックになれってことか?それは嫌だぞ」
「なんでも、じゃないの?」
そういうと寅之助は苦虫を噛み潰したような顔をする。
巴の突きによるダメージなどは全く見て取れないようだった。
「本気で言ってんなら……」
「冗談よ。でも、気が晴れた」
巴は、その言葉以上に気が晴れていた。
自分でもなぜこうも気分が上気したのか分からない。
だがとにかく、気分がポカポカと、春の陽気のようであった。
『女子決勝戦、5分前です。武蔵野選手、ハリング選手、試合場までお越しください』
アナウンスが響いた。
二人は目を合わせて、笑った。
「さ、行きましょ。セコンドよろしく」
「あ、一つ思いついた。先輩ファイターとして、新人にアドバイスだ」
寅之助は肩を叩いて、巴を呼び止めた。
巴は疑問符を浮かべて振り向く。
「試合場にいるのはな、互いにブン殴る事も、蹴り飛ばされる事も承知で立つ相手だ。同情なんてのは失礼でしかねぇし、特に日拳はケガしねぇように防具だってしてる」
寅之助は、再び笑った。
先ほどの穏やかな笑みとは違う。獣の笑み。
「だから、気持ちよくブッとばしてこい。勝つって、超楽しいぞ」
巴ははっとした。
1回戦での試合で、巴の沈痛な視線を、寅之助はしっかりと見ていたのだ。
役に立たないなんて、自身への過小評価が過ぎる。それがこの少年の悪癖だと思った。
「……押忍」
そういって、巴も笑った。
同じように獣の笑みであった。
「えー、それでは女子決勝戦を始めます。蹲踞!」
赤いハチマキを背中に巻いているのが対戦相手のハリング、白いハチマキが巴であった。
二人の格闘家は、審判の言葉通りに蹲踞し、そして拳を地面に当てる。
「はじめっ!」
審判の言葉を合図に、二人は立ち上がり、構えを取った。
その構えを見た瞬間、寅之助は声を上げた。
「あ、ヤベ」
巴は体を半身に取った、スタンダードな左中段の構え。
一方で対戦相手のハリングは、腕をL字に構えた、ヒットマンスタイルと呼ばれる構え。日本拳法ではなく、ボクシングの構えだ。
日本拳法は、その総合的な性質から他競技からの転向者も多い。
「巴っ!気ィつけろ!ムチみてぇなジャブが飛んでくるぞ!」
「ムチ?」
寅之助の声に、巴は頭に疑問符を浮かべる。
だがその解答は即、開示された。
対戦相手のハリングは、L字に構えた腕を左右に振り始める。そしてその腕が、消えた。
「っ!?」
巴は反射的に身を引いた。
その顔があった空間に、まさにムチのような、軌道が曲線を描くジャブが舞った。
「さすが」
ハリングは小さく呟いた。
彼女がこの小さな大会に出たのは、単純に地元で開催された事、そして勝負勘を養うためだ。
1回戦と2回戦はそれ故に、ボクシングのテクニックを封印して戦った。
だがハリングの目の前に立つ、この白帯の少女は、何年も格闘技をやり込んだ人間のような正確な蹴りで、1回戦と2回戦を勝ち上がった。
これはぜひとも本気で戦って見たくなった。
「どうする……巴!」
通常のジャブは当然ながら、まっすぐに直線的な軌道を描く。
一方で彼女が繰り出す『フリッカージャブ』と呼ばれるジャブは、曲がりうねった軌道を描いて到達する。
それ故にジャブの『起こり』が分かりづらく、防御が困難であった。
「ハァ……ハァ……ハァ……ハァ……」
巴は既に肩で息をしていた。
試合が開始して、まだ1分と立っていない。
スタミナの消耗でなく、心因性の疲労が彼女を襲っていた。
「シッ!」
ハリングは呼気を漏らしながら、再びジャブを見舞う。
フリッカージャブと、通常のジャブ。軌道の異なる二種のジャブを硬軟織り交ぜて撃つ。
巴は動きを固くしながら、避け、裁き、受ける。しかし限界が来るのは、早かった。
「一本!」
審判が全員、赤い旗を上げた。
ハリングの拳が、巴の面へと触れていた。
巴は、ペタンと尻餅をついていた。
「ハァ……ハァ……ハァ……」
何もできなかった。
あの時、ジャブと相対した時と同じだ。
病院で戦ったギャングの顔が脳裏にチラつく。
「巴……っ」
聞こえるはずのない距離で、小さく呟く声が聞こえた。
その方向へと振り向くと、寅之助が絶望的な顔をしているのが見えた。まるで世界でも終わるような、そんな顔。
それが面白くて、巴はクスリと笑った。するとその瞬間、体の疲労が消えた。
「同じじゃない。あの時は何も見えなかったけれど、今は動きの起こりが分かる。打たれるのを裁く事も出来た」
それに何より、今は見守ってくれる人がいる。
そんなおかしなことが一瞬、脳裏に浮かんだが、それはすぐさま頭から追い出した。
「早く立って」
「え?」
審判に促される声に、巴は現実に引き戻される。
すぐに立ち上がると謝罪をして開始線へと戻る。
「二本目……始めっ!」
開始直後から、再びハリングはL字に構えた腕を、左右へと振り始めた。
巴はそれを見て、バックステップで距離を取る。
「いかん……武蔵野さん、完全にビビってるな」
ガイもまた心配そうにつぶやいた。
1本目の防戦一方を見れば当然の感想である。
「いや……ありゃ違いますよ」
しかし寅之助は否定した。
いつの間にか心配そうな顔は消え、座った目で巴を凝視していた。
「え?しかし下がってるぞ」
「視界を広げたんです」
そう言って寅之助は口角を上げた。
「ブチのめしてやれ、巴」
(なるほどね……)
巴は心の中でうなずいていた。
こうして距離を取り、相手の動き全体を視界に入れると、その術理が良く分かる。
腕を左右に振るのは幻惑させるためでなく、腕のスナップを作るためだ。
そしてそのスナップを使って、下方向から跳ね上げるように撃つ。だから見えにくい。
「全ての物に構造は存在する……見えない物なんて物は存在しない」
どういう技か、これで彼女は理解が出来た。
だったら話は早い、そう巴は思った。
(1回戦と2回戦は、マグレか?)
対戦相手のハリングは、急速に気が萎えていくのを感じていた。
中々の相手と思ったからこそ、ボクシングのテクニックを解禁したのだ。
しかし一本目はあっさりと自分の勝ち。これでは甲斐がない。
「とっとと仕留めるか……」
再び彼女は、ジャブを放った。
「一本!」
旗が上がった。
白。
巴の色だ。
「腕より足の方が長い。当然ですよね」
「な……?」
巴の前蹴りが、ハリングの胴へと突き刺さっていた。
「よっしゃあああ!最高だ巴!!」
寅之助が叫んだ。
喜びすぎて、少し恥ずかしい。
「やめてくれないかしら、あれ……。まだもう一本あるのに」
巴は羞恥に顔を染めながら、つぶやいた。
そして開始線まで戻る。
「み、見えなかった……!」
一方でハリングは驚嘆していた。
ボクシング出身の選手が、キック出身の選手に、前蹴りやローで完封される。
確かにそんな試合は、300年前にはいくつかあった。
だが今は当然、そんなものは対策されるし、ハリングだって注意していた。
しかしハリングのジャブに完全に合わせた前蹴りは、完璧なカウンターとなって彼女の胴に突き刺さった。
少しでも相手を恐れていては、絶対に繰り出せない一撃。
「面白くなった……!」
ハリングも笑った。
彼女も開始線まで戻ると、蹲踞して拳を大地につく。
「三本目、はじめ!」
「えーそれでは女子の部、優勝。アダリナ・ハリング選手。おめでとうございます」
拍手が起こり、彼女に小さなトロフィーが手渡される。
その隣では、2位の賞状を持った巴が、満足げに拍手を添えていた。
表彰式の後、ハリングは巴へと近づいた。
それに気づいた巴から挨拶をする。
「優勝、おめでとうございます」
「よしてくれ。初めて1か月の白帯に紙一重だ。恥だよ」
そういってハリングは白い歯を見せて笑った。
「これからもまた大会で会う事になるだろう。次はどれだけ強くなっているか、楽しみにしているよ」
すると、巴は困った表情を作った。
視線を泳がせ、答えあぐねているようだった。
「ええと、ごめんなさい。いろんな意味で」
「え?」
「失礼します」
凛とした声が響いた。
頭を下げた巴は、迷いなく踵を返した。そこにはポカンとした顔のハリングが残されていた。
「おねーちゃん、惜しかったのにぃ……」
巴から眼鏡を取っ払ったミニマム版のような少女が、巴へと抱きついた。
妹のケイを抱きとめると、その頭をなでる。
「応援に来てくれてありがとうね、ケイちゃん」
そこへのしのしと、巨大な肉感を伴ってガイと寅之助も現れる。
二人とも満足そうに笑みを浮かべていた。
「なぁに、初めて1か月なら上等上等」
「これからもっと強くなれるさ。さぁ今から道場に戻って……」
まくしたてる寅之助とガイを制すと、巴はニコリと笑った。
ガイには分からない。だが寅之助は、その作り笑顔に嫌な予感を感じた。
「あ、ごめんなさい。私、これでもう日本拳法はやめるつもりなんです」
「……は?」
「あ、でもエクササイズとしては道場の方へ通わせていただきますので、これからもよろしくお願いしますね」
100点満点の笑顔だった。
だがガイと寅之助は一瞬、思考が停止し、そして再起動する。
「い、いやいやいやいやいや!!」
「勿体ねぇよ!お前絶対に超才能あるって!!」
二人の肉の塊が焦りに焦りながら、身振り手振りでいかに巴が格闘技としての才能があるか説明する。
しかし巴は100点満点の笑顔を崩さない。
造花とは、かようにして美しいものか。
「んー……才能というなら、私にはありませんね」
「えぇ?いやお前……」
「人を叩いたり蹴ったりすると、嫌な気分になるので。それでは、失礼します」
そういって巴はまた頭を下げた。
そしてそのまま、妹のケイを伴い、迎えに来たアリシアと合流する。
「あー、巴ぇー残念だったねー」
「そうでもないわ。帰りましょう」
「あ、その前にさー近くの古着屋にいかない?有名なとこがあんのよこの辺」
歓談しながら去っていく3人の女性の後に、二人の男が残される。
二人とも真顔のままだ。
「……寅之助、一杯付き合え」
「いや俺、まだ13歳。中学二年生」
「あー飲まなくていい。飲まなくていいから一杯付き合え。確実にUFCだって出れたし科学隊にだって入れるタマだったよありゃあ……」
半泣きで言葉を紡ぐガイに、寅之助はハイハイと言いながら同行する。
そして去っていく巴の背中を見た。
「たっけぇハードルだなぁ」
寅之助は苦笑して、独り言ちた。




