凛として咲きそーで咲かないけもの そのに
気持ちの良い音が、蒼天の元に響いた。
二度、三度と、テンポよく響く。
「おっ、誰かやってるな」
レザーのジャケットを着こなした、精悍な青年がその音に反応する。
かつて自動車工場だった廃工場を改造し、この第5ブロックで道場を営む青年は、嬉しそうに笑った。
その道場の扉を開け、ブーツを脱いで道場へと上がる。
「さて、誰だ?カイルか、風馬か、それとも寅之助か?」
その青年は、頭の中でこの『気持ちの良い音』を上げられそうな男の名前を上げる。
音の軽さから、重量級の寅之助ではなさそうだ。
風馬の音ならばもっと手裏剣のように鋭い。
芸術派肌のカイルかな?そう思いながら、かつて工場だった重い扉を開けた。
「えーとルソーが社会契約説を……違った、社会契約論か」
「シッ!シッ!」
そこには、彼の想像とは全く異なる光景が広がっていた。
道場の畳の上にあぐらをかき、参考書に必死に目を落として、ぶつぶつと何事かを呟く、小山のような男は良く知っていた。
かつてこの青年と戦った事もある男、石川寅之助だ。
そして何よりも意外だったのは、『気持ちの良い音』の主だ。
見知らぬ黒髪の美少女が、レガースを履いて、サンドバッグを蹴り飛ばしていた。
「……誰だ?」
青年が声を上げると、二人の視点は青年に集中した。
寅之助が手を上げて挨拶する。
「あ、ガイさん。すいませんお邪魔してまさぁ」
「はじめまして。武蔵野巴と申します」
もう一人の少女は、礼儀正しく頭を下げた。
巴と名乗る少女がこの『気持ちの良い音』を立てていたとは予想外であった。
「寅之助の連れか?良い趣味してるじゃないか」
「そういう言い方はやめてくださいよ。女の子には敬意を持たなきゃ」
歴史の参考書を開きながら、寅之助は顔を歪めた。
ガイと呼ばれた青年はニヤリと笑う。
「武蔵野さんか、よろしく。門ガイだ」
「カドガイさん?」
「門とガイだ。名前がガイ」
ガイは自己紹介の旅に行う、もはや儀式となった訂正を行った。
門貝や角貝などと言った苗字があるにも関わらず、親はなぜこんな名前を付けたのだろうとガイは思う。
「あ、申し訳ありません。門さん、失礼しました」
「ああ、いいよ。こっちのデカいのも同じ間違いしやがったしな。それとガイでいい。ここではそれで通ってる」
「分かりました、ガイさん」
眼鏡をかけた少女は、わずかに口角を上げて笑った。
十代の後半から二十代の前半に見えるが、おそらくは寅之助と同じく13歳だろう。今日日の子供は早熟だなとガイは思った。それは勘違いで、この二人だけの事なのだが。
「それで、このボロ道場に入門に?」
「あ、いえ、そこまでは……」
「打撃系の格闘技に興味あるとか突然言い出したんスよ。それでここに」
寅之助は視線を参考書に落としたまま、代わりに応えた。
その様子を見て、巴は寅之助とガイがずいぶん親しいようだと察する。
「日本拳法は打撃じゃない、総合格闘技だ」
「打撃がメインじゃないッスか。あのグローブじゃロクにつかめねーし」
「まだキンタマ蹴っ飛ばした事を根に持ってるのか?」
ガイの言葉に、巴は驚く。
「キンっ……睾丸を蹴り上げるんですか!?」
「ん?ああ。日本拳法じゃルール上、有効な打突だ。驚いたかい?」
ガイは笑って答え、寅之助も参考書に目を落としたまま苦笑する。
巴だけがあんぐりと口を上げて引いていた。
「ま、本当に何もないところだが、ゆっくりして行ってくれ。俺は勝手にやってるから」
そういってガイは笑って奥へと引っ込んでいった。
さわやかな気風の良い笑い声であった。
「シッ!シッ!」
巴は口の端から呼気を漏らしながら、サンドバックを蹴るのを再開した。
道場の外から聞こえていたように、気持ちの良い音が響く。
道着に着替えたガイは、その様子をつぶさに観察する。
「ふむ……」
ガイは寅之助へと近づくと、小さく耳打ちする。
「あの武蔵野って子、格闘技の経験はあるんだよな?」
「え?ないスよ。運動神経は昔から良かったッスけど。器用ですしね」
寅之助の回答に、ガイは二つの意味で驚嘆する。
一つは巴のセンスに、そしてもう一つは、寅之助が驚いていない事に。
「……なんでそんな平然としてるんだ?」
「え?ちょっと意味が分かんねぇッスけど」
ガイは顔を押さえた。
この寅之助という男には一目置いていたのだが、もしかすると柔道以外は、格闘技も含めて全くのポンコツなのではないか?そんな疑念が浮かんだ。
打撃を嗜む格闘技者であれば、このセンスには嫌でも反応するはずだ。
「武蔵野さん、ちょっといいかな?」
「はい?なんでしょう」
汗にまみれた巴が反応する。
このわずかな時間での滝のような汗は、なるほど、格闘技の初心者のそれだ。
他のスポーツをかなりやり込んでいたとしても、打撃という、他のスポーツにはない未知の動きから来る肉体の負担は、かなりの物であるからだ。
慣れぬうちは、本当に数十秒のシャドーでさえ息が切れる。
「その蹴り方は、誰から?」
「寅之助から……」
そういって巴は視線を送る。
その先にいる柔道坊やは、やはり参考書を必死に読み込んでいる。
「別にその蹴り方が悪いわけじゃないが……」
巴の蹴りは、アウトへと大きく踏み込んでの回し蹴りであった。
足を大きく振り回す、すなわち加速する距離が長いために大きな威力が出る。
プロの打撃系の選手でも、こういった蹴り方をするものがいないわけではない。
しかし、ガイは確信を持って思っていた。本当の競技者には全く有効でないと。
「お願いがあるんだが、こうやって蹴ってもらえるかな?」
ガイはゆっくりと説明しながら動く。
インに踏み込み、ゆっくりと膝を上げ、そして膝の先だけくるりと回して蹴る。
「えぇと……」
その動きを一度見た巴は、ゆっくりとトレースする。
そして再度、サンドバックへと蹴り込んだ。
バシッ!
先ほどよりも、鋭い音が響いた。
ガイは目を見開いた。
「成程。小さくコンパクトに動く事で、相手へと届く時間は短くなる。それに動きが最小限になる事で、相手へ意図も悟らせない。勉強になります」
ガイは舌を巻いた。
巴の蹴りは、自分の蹴りをほぼ完璧にトレースしていた。
さらにはその動きの意図の変化も完全に理解している。
ガイは楽しくなってきた。
「ちょっと待っててくれるかな」
ガイはミットを両手にはめた。
そして巴に道場の中心に来ることを促すと、両手を掲げる。
「俺が両手につけたミットを、好きなように打ってもらっていいかな?パンチでも、キックでもいい」
「……?はい、わかりました」
巴は意図を察せぬといった面持ちで、ゆっくりと頷いた。
そしてガイが両手を置いた距離を、巴は突いた。
「!?」
寅之助はその乾いた音に、思わず視線を参考書から離した。
「ジャブやストレートは教えてねぇぞ……?」
しかし巴の突きは、全く合理的だった。
半身に構え、後ろ足で大地を蹴り、その威力を拳へと伝える。
その術理を、理性ではっきりと理解している動きであった。
「次!」
「ふっ!」
「はい次!」
「シッ!」
ガイのミットに翻弄され、巴は肩で息をしながら、両手を膝についた。
その姿を見て、ガイも寅之助も、巴が初心者だったことを思い出す。
「巴、大丈夫か!?」
寅之助は血相を変えて近づくが、巴は無言のまま手で制した。
そして息を整える。
「流石に……辛いですね……」
無表情のまま、息も絶え絶えに巴は呟いた。
そしてガイに無言で礼をすると、持ってきたタオルで汗を拭く。
巴が汗を拭く姿は、うっとりとするほど美しく、官能的な姿であったが、二人の格闘技者には別の思考が渦巻いていた。
二人は汗を拭き終わった巴へと近づいた。
ガイが巴の両肩を掴む。
「な、なんでしょうか……?」
「君、マジで格闘技にもっと興味ない?」
「まさか俺がこっちで、お前がそっちの日が来るとはなぁ」
「人生は、運動量と距離が同時に測定できないから面白い、でしょう?」
寅之助は感慨深げに声を上げ、巴は無表情のまま、わずかに口角を上げて見せた。
その様子は、どこか獣のようであった。
「悪いけど、面の後ろを結んでもらえる?」
巴は全身に防具を身に着けていた。
そして頭部のスーパーセーフと呼ばれる面の一種を、寅之助に結ぶよう促す。
「それ、つけてると思ったよりも前が見えねぇから気をつけろ」
「知ってる」
あれから僅か1か月。
巴と寅之助は、第3ブロックにある市民体育館へと来ていた。
ここでは、日本拳法の小規模な大会が開かれていた。巴はそこに参加していた。
「ともえぇー!がんばれー!」
「お姉ちゃんファイトー!」
ほとんど選手の家族や関係者が座るだけの、まばらな会場の席で、アリシアと巴の妹が声を張り上げた。
その声に、巴は拳を上げて答える。
「ま、初めてじゃ負けて当然だ。気負わずにな」
「ガイさん」
ガイが試合前の巴へと声をかけた。
言葉とは裏腹に、その声色には巴への期待が滲んでいた。
ガイにスカウトされてから1か月、巴は熱心に道場へと通っていた。
しかし巴への期待は、その熱心さからではない。
通常、突き一つ、蹴り一つ、いや足運び一つ覚えるまでに、どれだけも時間がかかる。
反復訓練を繰り返し、ようやく体にしみこませるのだ。
だが巴は、技の覚えが驚異的に早かった。
格闘技と言えど物理的な肉体の動きである。
その構造を理解し、自分の肉体で実践する。それは結局のところ、巴の得意な分野であったのだ。
「あれが最初の相手?」
「らしいな」
巴よりも長身で、年齢も10は上だろう女性が同じように防具を身に着けていた。
日本拳法という、メジャーとは言い難い格闘技の、それも女子、さらにはネイモアシティ内だけの試合である。
本来ならば体重別や年齢別で行われる試合も、今回は無制限であった。
体重別で試合をしては、試合が組めないほど人がいないのだ。
明らかに対戦相手は、巴よりも体重は上であった。
「3回、勝ちゃあ優勝だ。やってやれ」
寅之助はそういって巴の背中を叩いた。
巴はその勢いのまま、試合場の中央へと歩み出た。
「蹲踞!」
審判の声に、巴と対戦相手は蹲踞の構えを取る。
日本拳法が元は剣術から派生した武道である名残であった。
「はじめっ!」
そして試合が始まった。
お互いに半身に構え、そして盛んにステップを踏む。
ガイは総合だと言ったが、やはりどちらかというと打撃系に重心を置いた格闘技の動きと言えた。
「……巴」
寅之助はごくりと唾を飲んだ。
彼女が傷つく事が嫌、そういった彼個人のエゴとはまた別に、これほどまでに見守る側というのは不安なのか。
巴が寅之助を助けるために、自らが傷ついてまで介入してきた理由が、どこか分かった気がした。
(静か、ね……)
一方の巴は、そんな寅之助の心配などよそに、完全に冷静であった。
自分の鼓動、相手の動き、後ろで心配する寅之助の呼吸。
全てが分かる気がした。
(なんというか……)
巴は相手の動きを凝視する。
盛んに踏むステップの中で、打撃を出すタイミングを計っているのが、分かった。
相手との身長差を考えると、相手が一番出しやすい技は?どうすれば相手はその技を出す?
巴はそこまで考えると、わざとらしくないように、ガードを下げた。
「今っ!」
まさにその瞬間だった。
対戦相手は巴がガードを下げた瞬間に、堰を切ったように拳を放った。
面での一本を狙った上段の順突きだ。
身長差があれば、どうしても出したくなる突き。
だがそれは打ったのではない。打たせられたのだ。
(頭部を打って来るのなら、体を下げて、避ける。ならその態勢から、一番合理的に出せる技は?)
巴はパズルを解くように、自分と相手の肉体を動かしていた。
巴は合理的に考える。
安全なマージンを取って深く身を沈めて避ける。手が地面についた。そこから出せる技を出すだけだ。
巴の体が、浮いて、回った。
胴回し回転蹴り。
寅之助も、ガイも、審判さえも、言葉を失った。
その名の通り、体を一回転させて頭部を蹴る大技が、凛として美しく決まった。
「い、一本!」
一拍遅れて審判が旗を上げた。
巴は無表情のまま残心を残し、そこから礼をする。
「あ、あんな技を教えたんスか!?」
寅之助は驚嘆して、隣に立つガイに声をかけるが、ガイは首を何度も左右に振った。
何かを見たのだろうか?独学で練習を?あるいは──合理的な動きから、自ら編み出した?いずれにせよ、吃驚すべき才能であった。
「た、担架!」
巴の対戦相手は、完全に伸びていた。
日本拳法は本来3本試合を行い、2本先取で決着がつくルールである。
しかしカウンターで決まった大技が、防具の上からでも、完全に巴の対戦相手の意識を刈り取っていた。巴の二回戦進出が決まった。
「巴ぇー!カッコいいー!」
「お姉ちゃんすごーい!」
客席からアリシアと妹のケイが能天気な声を上げていた。
しかし巴はそれには答えず、黙って礼をした。
担架で運ばれる選手を見る目には、沈痛な重みが浮かんでいた。




