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凛として咲く獣-16

日常の空気ほど残酷なものはない。

どれほど嬉しい事があろうと、悲しい事があろうと、世界はそれを気にも留めない。

普段と同じルーティンを人に求める。

火を入れ、機械を動かし、そして会社や、学校へ行く事を。


「おはよう」


いつものように涼し気で、年頃の少女としては少し低い声。

武蔵野巴があいさつをしながら教室に入り、自分の席に座る。

そしてほんの小さく、息をつく。


「あんた、どしたの?」


後ろの席から、茶髪に脱色した少女が声をかけてきた。

めざといな、巴はそう思いながらも、とぼけたフリをする。


「何もないわ。どうして?」


「お肌が普段から5歳年上のお姉さまになってる」


ストレスからくる寝不足と、食生活の乱れ。さらには運動もする気になれず、肌のケアも怠っていた。

なるほど、肌への不調を促す要因がすべてそろっている。

このアリシアという友人は、もしかしたら自分などよりもはるかに賢いのではないかと、巴はたまに思う。


「……石川と、なんかあった?」


また、正解だ。

巴は誤魔化そうとするが、言葉が出てこない。

考えがまとまらない。

そしてそれが、そのまま言葉に出た。


「わ……分からない……」


本心であった。

寅之助が理解できない。

どれだけ考えても。






午前中の授業が終わった。

昼食の時間になり、巴はアリシアと机を向かい合わせると、弁当を囲んだ。

自分の弁当箱を見ると、少しだけ胸が痛む。

寅之助の作る弁当を食べなくなって、もう3か月になる。


「さーご飯ご飯。学校ってご飯食べに来てる所あるよね」


そういうと、アリシアは調理パンを口に運んだ。

両親がパン屋を営む彼女は、自宅の商品を昼食としていつも持ってきている。

パンの傍らにある小さなサラダも同様だ。

このサラダは、彼女の栄養が偏らぬようにとの願いから、両親が商品化したものであることを、まだ本人は知らない。


「そうね……」


どこか辛そうに、巴は弁当箱を開ける。


「……ま、石川と何があったか知らないけどさー、とっとと仲直りしなよ」


「別に、ケンカをしたわけではないのだけれど」


「ふーん。相変わらずあんたらの関係がわからんわ、私」


「そんなに変かしら?」


「あんたねー、石川が学校に来なくなるまで、週替わりでお互いの弁当を作るなんて、付き合い立てのバカップルがやる事でしょ。それもせいぜい3か月で挫折するヤツ。あんたらは1年以上続いてるのに付き合ってないんだもん」


茶髪の少女は調味パンを包装していた分解性ビニールを握りつぶすと、サラダにフォークを突き刺した。


「最初はさー、お互いに距離を詰めるのにビビってんのか、付き合ってるけどヘタクソな隠し方してるのかと思ったんだよね。でもあんたら話してるの見るとさ、『あ、こいつら本当に付き合ってないな』って分かるんだよね」


誰も彼もが寅之助と巴を男女の仲と疑う仲、やはりこの茶髪の少女はよく見ている。

本人はその特異さに、全く気付いていないのだが。


「距離がさ、カレシじゃなくてなんていうか、戦友?そんな感じがする」


飛び出してきた意外な言葉に、巴は小さく笑った。

でもどこか、確かにしっくりくるところがある。

他のどの関係とも形容できない二人。

だからこそ、相手を理解したい。強くそう思えた。


「アリシア」


「何よ改まって」


茶髪の少女は、改めて巴に名を呼ばれ、パンを口にしながら視線だけを巴に向ける。


「これはその……貴方を大切な友人だと思って話すのだけれど、友人の気持ちが分からなくなった時は、どうしている?」


アリシアと呼ばれた茶髪の少女は、視線を上に向けて軽く考える。


「わかんない。てか、友達の気持ち分かんないとか言われたら、私だっていっつも分かんないよ」


「そうなの?」


「まず目の前の黒髪ロング眼鏡の気持ちなんかわかった試しがないし。あんたが突然アタマを坊主にして半分だけ白く染めてきた時は、考えるのやめたからねアタシ」


「あれはその……本当に色の違いで感じる温度は変わってくるのか、確かめてみたくって……」


「うん、分からん」


「……」


「そもそもさぁ、他人の気持ちがわかるなんて幻想だって。わかるって思い込んでるだけだよ」


「そうかしら」


そんなことはない、と巴は心の中で反論した。

巴はあまり感情を表へと出さないが、それでも家族と寅之助だけは、それを鋭敏に察してくれる。

そしてもちろん、寅之助の感情も、巴にはよく理解できた。

だからこそ、寅之助が理解できない状況が不安で仕方なかった。


「ジェダイでもないんだからさー、私らに分かるはずないって」


「うーん……」


会話しながら、巴は弁当のミートボールを口に運んだ。

そして寅之助の作る弁当を思い出す。


彼の作る弁当は、不味かった。


これは寅之助の調理が悪いと言う事ではない。材料が悪すぎるのだ。

戦時中の配給品として作られた、廃棄プラスチックや使用済み燃料を原料に生産された模造食糧。

時間も物資もない中で、最低限の栄養と、なんとか風味をつけようとした苦心の跡が伺えるもの。

大量生産され、余ったものが戦後に市場に流れ込み、現在でも最安値の商品として流通していた。


「つーかさ、わかる事じゃなくて、わかろうとする努力が大事なんだよ」


咀嚼しながら、ハっとなる。

そうだ。

合成タラの味なんて、寅之助と関わらなければ一生味わう事などなかったはずだ。

そして不味いタラの味が分かるから、寅之助の気持ちが分かる。

小さな積み重ねが、彼の立場に立つ事が、巴の中に、寅之助の視点を作る。

そんな当たり前の事を忘れていた。


「アリシア、さすがね」


「……うん?うん、なんで褒められたかさっぱりわかんないや」


この茶髪の友人は、なかなかに本質を突いてくる。

本人はそれに気づかぬようだが。







寅之助は、ガイの道場を出た。

心地の良い風が胸の中で吹いている。


もう俺に後悔はない。

わずか13歳でこう言える俺は、きっと幸福なのだ。例え明日か明後日、本当にその命を落とすとしても。

ただ一つ、それでも泣き言を一言だけ言うのなら、やはり会いたい人がいる。


だが、それは良い。

彼女に合わないからこその、今の気持ちなのだ。

剃り込みを入れた坊主頭、この膨らませた肉体、傷だらけの肌、そして柔道をやってきた自分。すべてが好きだ。

やっと今、そう言える。

そして決着をつけるために第6ブロックへと戻る。そのために三次元モノレールの駅に入った、その時であった。


「えっ……?」


寅之助は目を丸くした。

そこに巴が、立っていた。


「第5ブロックとは、意外な場所にいるわね」


巴は制服のままだった。

学校が終わり、そのまま一直線にここに来たのであろう。


「なんでお前がいるんだ」


『こんなロクでもない場所に、一人で制服のまま来るんじゃない。ここはお前が来るべき場所じゃない』そう叫びたいのを押し殺し、代わりに努めて無感情に、無表情に寅之助はそういった。

まるで目の前の女のようだな、と心の中で笑った。


「色々考えてみたの。なぜ貴方があんな事を言ったのか、私にどこか間違いがあったのか。結局、分からなかったわ」


寅之助はもし神に会ったのなら、腕ひしぎ十字固めをかけてやろうと思っていた。俺のどこがそんなに嫌いだったのか問い詰めてやろうと思った。

しかしどうやら、手加減してやる必要があるようだ。

この物言いは、外ならぬ武蔵野巴、その人だ。最後の願いが、叶った。


「あ、そ。まぁ俺とお前はもう他人だ。お前が何をしようが知ったこっちゃねぇよ」


嬉しくて笑いたくなるのを押し殺し、獣は努めて冷酷に聞こえるよう、言い放った。

だが目の前の凛とした少女は、少しもひるまない。


「貴方が何を思ってそんなにイラついているのかは分からなくても、貴方の怒りや言動に、理不尽なものはない。それだけは、分かる」


「過大評価だ」


「どうせ第6ブロックに戻るつもりでしょう」


図星だった。

面白くはなかった。

巴はゆっくりとした足取りで寅之助に近づいた。


「貴方が、何に怒っているのか、私には分かってあげられない。理由が分からないから、すごく心配だった」


嗚呼、糞。


「でもお願いだから、もうあんな所に行くのはやめて。今日は大丈夫かもしれない。でも、いつか取り返しがつかなくなる」


嗚呼、糞。


「貴方を理解したい。だから、もしよければ私に話して欲しい。力になると約束する」


嗚呼、糞。


それが理由だよ、武蔵野巴。

危険な場所だと分かっていても、なぜ怒っているか分かっていなくても、他人のために動ける女。

そんなお前に、俺のようなクズは近くにいちゃいけない。

俺がお前を、多分不幸にしてしまう。

俺がお前に、できる唯一の恩返しを、これからするよ。


「……お前には関係ねぇだろ。ケンカがしてぇからヤリに行くだけだ」


「寅之助!」


「お前、何か勘違いしてねーか?俺はお前の言う事を聞く理由がねぇ。俺はお前の犬でもなんでもねぇんだよ」


「だったら何?どうあっても貴方を止める」


嗚呼、糞。


綺麗な目だ。

綺麗な声だ。

綺麗な心だ。


俺が、絶対に汚しちゃいけないものだ。

俺はお前から嫌われなきゃいけない。


「じゃあヤラせてくれよ。だったら行かないでやる。前から思ってたんだよ、その綺麗な顔を殴りながらイケたら最高に気持ちいいだろうなって。妹と母親も呼べよ、4人でヤろうぜ」


終わった。


しかし、これで良い。

巴が、寅之助という人間を見限るのに十分なセリフだ。


分かっただろう、巴。

例え演技だとしても、俺はこんな事を言えるんだよ。

これだけでも、お前の近くにいるべきじゃない。


だが巴の表情は変わらなかった。

なんの感情も伺えぬ無表情のまま、凛として立ち続けていた。


「なら、私もしたいようにするわ」


しゅるり。


制服のスカーフが、落ちた。


「な、お前……」


「勘違いしないで。セックスさせてあげる気なんてない」


無表情のまま、声のトーンも変わらない。

怒っている節も、悲しんでいる節も見て取れない。

ただただ、そこには無感情があった。


制服を脱ぎ、シャツを脱ぎ、そして下着一枚になろうとしたその時だった。


巨岩が動いた。

その美しい白い肌は、外気に触れる前に、男の汗が染みついた外套が覆った。

そして、凛とした肩を、震える獣の腕が覆っていた。


「……なぜ止めるの。私は脱ぎたくなったから脱いでいるだけ。貴方には止める理由がない」


「うるせぇ!……大事な相手が、心配で悪いかよ!大事な相手に、傷ついて欲しくなくて悪いかよ!」


寅之助が、ここまで余裕のない表情をあらわにしたのは、幼少の時以来であった。

全身を怒張させて、それでいて決して巴を傷つけぬよう、優しく抱いていた。


「嗚呼、糞……!また、俺の負けかよ」


「貴方、悪人のフリがヘタね。普段のままの方が怖いわよ」


寅之助は泣いていた。

そして巴は、満足そうに口角を上げていた。

震える男の体温を感じ、それを堪能していた。


「……お願い、そろそろ離れてくれる?服を、着たいから」


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