凛として咲く獣-12
ヒゲを蓄えた壮年の男性が、いらだった様子でマホガニーの机に座っていた。
こちらで指定した時間まであと4分。
今日の病院の宿直は可能な限り『関係者』でそろえた。
それだけでなく『アトロシタス』にも人を送ってもらった。
準備は万全だ。
別に殺すのは、私じゃないのだ。
「少し早いですが、始めましょうか」
突然、電子的に合成された音声が院長室に響いた。
驚いてヒゲの男が顔を上げると、奇妙な恰好の女がそこに立っていた。
黒いキャップにゴーグル。
口元をガスマスクのようなもので覆い、その顔はうかがい知れない。
背中に小さなリュックサックを背負い、そして全身に真っ黒な服を身に着けていた。
まるで空間に穴が開いたかのように見える、奇妙に光を吸収する黒い服だった。
「い、いつからそこに……」
「つい先ほどです。モゴ院長」
女は機械音声で答えた。
このキャップと服を塗装した、光を99%吸収する黒色塗料は、ごく普通にホームセンターで購入できるものであった。
しかし闇に紛れて移動するだけで、こうまで人に気づかれぬものかと、その女──武蔵野巴は驚嘆し、そして胸の奥で微かな快楽を自覚した。
「さて、さっそくですが黒手先生……でしたか?彼から資料はお受け取りになりましたか?」
巴はあくまで黒手とは無関係、犯罪者の一味に接触しただけと装った。
彼の裏切りはまだ、このモゴ院長らにはバレていないようだった。
「ふん!」
モゴ院長は鼻を鳴らし、デスクから資料を机の上に広げた。
そこにはこの病院が組織ぐるみで行っている医療費の水増し、そしてギャングのマネー・ロンダリングを請け負っている証拠が揃っていた。
「それで、何が狙いだ?」
「率直に申し上げましょう。今すぐ水増しを止め、そして被害者全員に金銭を返却しなさい。適切な医療費も含めて、ね」
モゴ院長は意外そうに口を少し開けた。
「……それだけかね?」
「もちろん、それが終われば警察に出頭なさい」
電子音の裏側からも、孕んだ怒気が伝わった。
しかしモゴ院長はそれがどこか滑稽に聞こえ、笑いだした。
「何かと思えば。ガービィ・シャスターにでもかぶれたヒーローのつもりかね?私に一切のメリットがないじゃないか、取引にならんよ」
「では、こういうのはいかがです?私が通報をすれば、貴方は逮捕され、間違いなく実刑でしょう。ですが貴方が自首をすれば?大幅な減刑はありうるでしょう。いや、組織犯罪も関わっている。司法取引を行えば起訴自体ない可能性さえある」
モゴ院長の反応は予想通りといわんばかりに、巴は朗々と答えた。
しかし、それでモゴ院長の態度は変わる様子はなかった。
「それが取引かね。なるほど、一応は成立するな。だが私にはもっと良い選択肢がある」
モゴ院長がそういうと、院長室隣の控室から3人の男が入ってきた。
一人は大柄で、上半身にタンクトップ1枚の男。もう一人は片腕が機械義手の男。そして最後の一人は、服の下に何かを吊り下げているようだった。
その粗野な風貌や、肉体が醸し出す雰囲気。
明らかに反社会的な団体に所属する人間だと一目で分かる。
巴は、自分の喉が渇くのを感じた。
「まさか呼び出したら、本当にやってくるとは思わなかったよ。君の素顔が楽しみだ。いや他の部分も楽しめそうだな」
モゴ院長は、巴のマスクとゴーグルに覆われた顔、最近になって大きく膨らみ始めた胸、そして下半身へと視線をやった。
巴はその不快な視線を、マスクの下で無表情のまま受け止めていた。
「おっと、お姉ちゃん。動くなよ、ケガさせたくないんだ。可愛がってやるから大人しくしな」
粗野な男の一人が、服の下のホルスターから取り出した銃を巴へと向けた。
映画やニュースでしか目にしたことのない道具が、自分へと向けられている。
あまりにも現実感がなく、それには恐怖感を覚えなかった。
しかしその銃から発せられる、焦点温度が数万度に達する光線が、巴をいとも簡単に絶命させうるのは、まぎれもない現実なのだ。
「モゴ院長」
部屋から出ようとするモゴ院長を、巴は呼び止めた。
男たちは、銃を向けたままその様子をニタニタと笑いながら見ていた。
何も出来ぬと高を括っているのだろう。
「貴方の犯罪はどれも許容しえぬものですが、その中でもどうしても許せない物があります」
「何かね?」
モゴは小馬鹿にした様子で問いかける。
電子音声は感情を感じさせぬ声色のまま、ガスマスク状のデバイスから発せられる。
「貴方、私が確認できた限りでは少なくとも一人、未成年の少年を第6ブロックの団体に売り渡していますね?おそらくは、そちらの方々が所属されている団体になりましょうが」
おかしいと思っていた。
寅之助が、いったいどのような伝手で『地下で試合』などするのだ?
おそらくはこのモゴという男に、巧妙にコントロールされ、売り払われたのだ。
「未成年を金品と引き換えに団体へと紹介した時点で、人身売買が成立します。量刑は跳ね上がりますよ。」
巴は、モゴ院長に送られたファイルで見てしまった。
寅之助が戦う映像を。
血だらけだった。
刀と戦わされていた。
あんなのは普通じゃない。
「ああ、心配しなくていい。君には別の使い道がありそうだ。あの……石川寅之助だったかな?彼とはまた別の仕事がある」
モゴも、男たちも笑った。
巴は、グローブを付けた拳を固く握りしめそうになった。
だが彼女はそれを、ぐっとこらえる。
「ところでお話は変わりますが、本当に私が無策で此処へ来たと思いますか?今の話をするだけなら、電話でもメッセージ・アプリでも何でもいい。わざわざ貴方に会いに来る理由など何一つない」
「うん?」
初めてモゴ院長は怪訝な顔をした。
男も銃を構えなおす。
そして巴は、今度こそグローブを固く握りしめた。グローブ内部に仕込まれたスイッチが入る。
病院の電力室に待機していた黒手医師に、巴からの連絡が届いた。
「来た。さて、医師としてはあまり病院の電力を落とすなどやりたくはないが……」
そういうと電力レバーをOFFに落とした。
「あっ」
機械義手のギャングが間抜けな声を上げた。
部屋の照明が、落ちた。
「しまった!」
「このアマ!」
モゴ院長が叫び、ギャングは銃を乱射する。
しかし放たれた光線は空を切り、院長室の壁に穴をあけた。
「バカ者!やめろ!ここには一般の入院患者もいるんだぞ!」
「バカ者だぁ?テメーから先にブチ殺してやってもいいんだぜ院長先生よぉ!」
銃を持った男が逆上する。
しかし声はすれども、お互いの位置が分からない。
煌々とした照明は一瞬にして闇へと転じ、男たちの視界を完全に奪っていた。
そんな混沌の中、秩序だって動く影が一つ。
ARゴーグルの赤外線モードが、巴にだけ闇の中の光を見せていた。
「私がここに来た理由は二つ、そのうちの一つが、これ!」
凛とした叫び声が響いた。
モゴ院長のすぐ近くだ。
「へぶぅ!?」
モゴ院長は鼻への激痛と、血の味を感じた。
そして耳に鳴り響くキンとした音。
巴の拳が、彼の鼻へと叩きつけられていた。
「貴方を殴ってやりたかった!!」
内部に砂鉄を仕込んだグローブは、格闘技の素人である巴にさえ、十分な打撃力を与えた。
そして格闘技の素人ではあっても、彼女の腕力は決して小さくはなかった。
「貴方のモラルの無い細胞の一つ一つに、彼が、被害者たちが受けた痛みを教えてあげる!」
寅之助と、その祖父。
その二人だけではない。
院長の被害者たちを調べる中で、巴が感じた痛み。
水増しされた医療費が並ぶ。
この数字の羅列の向こうには、間違いなく人間がいる。
その人々の痛みが、なぜこの男には分からない!?
黒手医師でさえそうだ。彼のような善良な人間をなぜ自分勝手に利用できる?
武蔵野巴は思う。今この場において、必ずしも寅之助は重要ではない。それと無関係に、私はこの男が許せない。
(病院の非常電源が起動するまであと5秒……!)
闇の中で、人が人を殴打する音が響いた。
だがその怒りの響きの中でも、巴の知性は、冷静に状況を見据えていた。
電力が復旧する前に、モゴ院長から離れ、物陰に隠れる。
そしてその数秒後に、非常灯が部屋に灯った。
「うわっちゃあ……」
光が戻った時、銃を持ったギャングは、先ほどの激情が完全に引っ込んでいた。
なぜならば、彼が先ほど撃ち殺してやると叫んだ相手は、見るも無残な顔になり、ピクピクと痙攣していたからだ。
「痛った……パンチって、殴った方もこんなに痛いんだ……」
一方で機材の影に隠れた巴は、小さな声で独り言ちた。
グローブを着用しての殴打でさえ、自らの骨に響くような衝撃が走る。
ボクサーは自らのパンチ力が強すぎて、自分の骨が手から突き出す事故が珍しくない。
「さて、運動不足の医者は仕留めたけれど、問題は残りの三人か……」
本来ならば、この闇に乗じて院長ではなくあの三人を仕留めるべきだった。
巴が改造したスタン警棒の威力ならば、それも非現実的ではない。
だがそれが分かっていても、巴はモゴ院長を仕留める事を優先したかった。
巴の知性ではない、感情がそうすべきと叫んでいたからだ。
「ま、最初からこのつもりで計画してきたもの。計画通りやりましょう。敵の数が三人は想定内」
背中に背負っていた小さなリュックサックから、今度は小さな空き缶のようなものを二つと、食塩水の入ったペットボトルを取り出した。
ペットボトルはすぐに使えるよう腰にマウントし、空き缶の一つを機材の裏に置き、そしてもう一つをギャングたちの足元へと転がした。
「ん……?そこか!」
銃を持った男が、空き缶が転がってきた方向へと乱射する。
巴は機材に隠れながら移動し、それを避ける。
放たれた光線はウォーターサーバーに命中し、内部の電子回路が燃焼したのか、モクモクと煙を上げた。
「おいバカ!その缶にも気をつけろ!」
もう一人の、機械義手のギャングが叫んだ。
だが一瞬遅かった。
空き缶が破裂し、強烈な閃光が放たれる。
マグネシウムとアンモニアを混合させることで強力な閃光が発生する。どちらも中学生でも簡単に手に入る物質だ。
「くそっ、また目が!」
闇の次は、光が男たちの視界を奪った。
そして閃光と同時に、巴は影から飛び出した。
「ああああああああっ!」
雄たけびを上げ、スタン警棒を大上段に掲げ、拳銃を持った男の腕に全力で振り下ろす。
「ぎゃいっ!?」
男は激痛と引き換えに、拳銃を手放した。
そして落下した拳銃を巴は遠くへと蹴り飛ばす。
離れた拳銃はARゴーグルに『危険』とマーキング表示されるが、巴はそれを無視し、スタン警棒を男の顔面へと突き立てる。
「うごごごごごご!」
「悪いわね、こちらも余裕はないの」
スタン警棒を離すと、男は痙攣し、そしてピクリとも動かなくなった。
「よし……」
一人、倒した。
その安堵が、巴の動きを一瞬止めてしまった。
残りの二人のギャングへの注意が、完全に切れた。
「調子のってんじゃねぇぞテメェ!」
鋼鉄の義手が、巴の腹部を殴打した。
吐しゃ物がこみ上げる感覚と、強制的に呼吸を止められる感覚。
そして言い表しようのない激痛と恐怖。
どれも今までの巴の人生になかったものだ。
「うげえ……」
腹部を押さえて崩れ落ちた巴は、つぶれたカエルのような声を上げた。
これもまた、人生で初めて上げる声だった。
機械仕掛けの義手を振りかざし、そのギャングは叫ぶ。
「ゴミみてぇなオモチャはこれで品切れか、えぇ!?」
怖い。恐い。強い。
目の前の義手の男が、怖い。
普段ならば、くだらないと一笑に付す安い恫喝に、身が縮む。
だが感情とは無関係に、巴の理性の部分は働いていた。
男の義手は軍用ではなく、違法改造した医療用を飾り立てただけのものだ。
そして腹部に仕込んだプロテクターは十分に機能した。
だからまだ、自分は動ける。
もう一人の大柄の男は、まだ閃光弾のダメージから回復していない。
義手の男はおそらく、閃光が陰に隠れる場所にいたのだろう。
動くのは今しかない。
痛みと恐怖は忘れろ。
動け、武蔵野巴。
「おるるるらぁ!」
アクチュエーターの甲高い音が鳴り響き、巴の頭上から拳が振り下ろされた。
痛みに歯を食いしばり、巴は飛び跳ねる。
その一瞬の後に、ハンマーのような義手が床へと叩きつけられた。
「ハァ……ハァ……ハァ……んっ……はぁっ……」
寅之助ほどではないにせよ、高い身体能力が彼女自身の命を救う。
激痛をこらえながら、巴は動く。
「おほぉ。喘ぎ声も色っぽいねぇ姉ちゃん。もっと別のオモチャで遊ばねぇかい」
「いいえ、準備してきたオモチャはまだまだあるの。付き合って頂戴」
巴はマスクの下で、不敵に笑って見せた。
そしてその言葉に呼応したかのように、周囲に煙が立ち込め始めた。
「ん!?」
機械義手の男は、先ほどの撃たれた機材が発火したのかと思ったが、そうではなかった。
巴が隠れていた機材の裏から、不自然な量の白い煙が充満していた。
「へ、何かと思えばまた目くらましか。しかもバカの一つ覚えにしたって、芸が無い上に質も悪い。お前の姿は見え見えじゃねぇか」
「そうね、確かにこれは少し失敗したの。でも別の使い道もある」
巴は、様々な状況を想定し、複数の目くらましを用意していた。
そのうち、この煙幕として用意したものは、確かに失敗作だった。
勢いのある発煙筒程度にしかならず、しかもこの煙は空気よりも重い。
足元に沈下してしまい、視線を隠す事も出来ない。スプリンクラーを起動させる性能さえなかったのだ。
だが巴は、これを別の策として使用する事を思いついていた。
(今、しゃがんでいるのは運が良かった……)
しゃがんでいる巴の姿は、胸から下は煙に覆われほとんど見えなかった。
そのために不自然に思われる事なく、次の作戦を実行できる。
腰に下げた食塩水入りのペットボトルをあけ、音をたてぬよう静かに床に流す。
そして、じっと待つ。
「へっ、何かんがえてやがる?」
義手の男はその様子を警戒し、近づこうとはしなかった。
そうしているうちに大柄な男は目をこすりながら顔を上げ、巴へと向き直った。閃光弾のダメージから回復したようだった。
義手の男はそれを見て、笑みを浮かべる。
「……どうしたの、来ないのかしら?」
「それってよぉ、ハッタリだろ?まだ何かオモチャがあるんだったら、あいつが回復する前に使うはずだよなぁ」
よし。巴は内心でほくそ笑む。
義手の男は無警戒で巴へと近づき、そしてピシャリと水を踏む音を立てた。
「濡れてる?」
義手の男は一言そういうと、白目をむいて倒れた。
先ほどの拳銃の男と同じように痙攣すると、やはり動きを止める。
肉と機械が焦げる臭いが香った。
「な!?おい、なんだ!?」
大柄の男はそれを見て足を止める。
この煙の下に、何らかのトラップが仕掛けられている事は明白だ。
「最後は貴方一人ね」
そういって立ち上がった巴の手には、スタン警棒が起動状態で握られていた。
その先端は僅かに水で濡れている。
ごくごく単純なトラップであった。
煙で隠した食塩水の水たまりに電流を流し、待つ。
ただそれだけのトラップが、この状況で最大の効果を発揮した。
楽しい。
男が倒れた時、巴は素直にそう思った。
ここには歪んだ快楽がある。
煙は引かない。
そのために、どこに水たまりがあるのか分からず、大柄の男は一歩も動く事が出来なかった。
勝負あった。双方がそう思ったその時であった。
ぷしゅん。
「!?」
スタン警棒の青白いアーク放電の光が、消えた。
バッテリーが、切れた。
巴は焦り、大柄の男は笑った。
「ちょっ……」
「どうやら、形勢逆転みたいだな」
大柄の男が、構えた。
巴には、それがボクシングのオーソドックス・スタイルだという事までは分からなかったが、何らかの格闘技だと言う事は分かった。
慌ててバックステップで距離を取ろうとする。
そしてそれが、彼女の命を救った。
「あうっ!?」
激痛。
目の前で火花が散った。
そして巴のガスマスクが割れ、崩れ落ちた。
「運がいいな、カス当たりだ」
巴には、何が起きたか分からなかった。
男は一歩も動いていないように見える。
距離は2メートル以上、離れていたはずだ。
ただ、痛みだけがあった。
「ひ……!」
思わず口の端から、巴の悲鳴が漏れた。
情けない、そう自省するだけの余裕はかろうじてあった。
しかしとにかく今は男から離れなければと考え、全力で離れた。
そして今度は、見えた。
「しっ!」
左前に構えた男の、右足が大地を蹴る。
脱力し、軽く開いて構えていた左手が、消える。
巴は本能的に両腕で顔を庇う。
そして衝撃が走った。
「ぎゃううっ!」
巴は知らなかった。
ボクサーの左ジャブがあれほど早く、強く、遠くから放てる事を。
「痛い……痛い……」
鼻血を出しながら、うわごとのように繰り返した。
レガースをつけた両腕で顔を庇っても、衝撃が貫通するほどの威力。
それでも彼女は歯を食いしばる。
きっと寅之助ならば、この状況でだって諦めない。そう思えば勇気が湧き、頭が冴えた。
「このっ!」
発声と共に、電池の切れたスタン警棒を横凪に、片腕で振った。
しかし大柄な男は、いとも簡単に警棒を叩き落とす。
乾いた音を立てて警棒が床へと落ち、そして煙に隠れて姿を消した。
「電気が切れてりゃ効かねーよ」
「でしょうね!」
しかし、そうなるのは巴にとっても想定内だった。
スタン警棒を持っていた手とは、逆の手をポケットに突っ込み、中のものを大柄の男へと投げた。
「!……うわっ!?」
巴の投げた爆竹は、大柄な男の眼前で爆ぜた。
その一瞬の隙に、院長の机の上にあった彫像を照明のスイッチへと投げる。
スイッチが押され、明かりが消えた。
「また目くらましか。小細工ばっかりだな、嬢ちゃん。」
大柄の男は吐き捨てるように言った。
最初の照明が落ちた時と違い、電源そのものが落ちたわけではない。
そのために、ドアのすぐそばにある非常灯は点灯したままであった。
それでも巴の迷彩は機能していたが、流石に光っている非常灯まで近づけばその姿はバレてしまうだろう。
つまりドアから逃げるのは無理だ。そしてこの部屋から出られるのはそのドアだけ。
「考えなさい、考えなさい、考えなさい……」
三度呟き、自分自身に命令する。
この暗さなら、うまく近づけば大柄の男へと一撃くらいは加える事が出来るだろう。
だがスタン警棒もなく、手ごろな鈍器も見当たらない。
一撃で男を倒せるような武器は、ない。
たった一つを除いて。
男は焦る様子もなく、悠々と照明のスイッチへと歩み寄った。
この状況、誰が見てもあの女はおしまいだ。
武器と作戦の劣化が、女の手持ち武器が尽きた事を物語る。
あのガスマスクが割れて見えた口元は、中々にイイ女だった。
可哀そうにな、そんな僅かな同情を覚えながら、大柄の男は照明のスイッチを入れた。
「動かないで」
明かりが再度、灯った。
同時に背後からの女の声。電子音声ではない、肉声。
苦笑しながら大柄の男が振り返ると、その表情は驚嘆に変わった。
巴が、銃を構えていた。
ギャングの一人が使っていた銃であった。
巴は抜け目なく、ARゴーグルに銃の落下位置をマーキングさせ続けていたのだ。煙に紛れた中でも、探し出すのは簡単だった。
大柄の男はしかし、すぐさま落ち着きを取り戻す。
「やめとけよ。あんたにそれを引く度胸があるようには見えないね。スタンガンに閃光弾にスモーク、それに爆竹。どれも相手を殺さないようにする武器だ」
大柄の男は自信があった。
しかしゴーグルをつけた女の口角が、吊り上がった。
引き金が、引かれた。
「う、撃ちやがった!このアマ、撃ちやがった!畜生、ふざけんな!!てめぇぶっ殺してやる!!」
大柄の男の、足が撃ち抜かれていた。
かつての鉛の弾頭を射出する時代の銃と違い、熱線を照射する、現代の光線銃は、撃たれた傷が高温で焼かれすぐさま固着する事で、失血死というものを起こさない。
致命的な臓器さえ避ければ、殺さずに行動不能にすることは難しくなかった。
「殺す気なんてないわ。でも止める気はある。くだらないマッチョイズムに囚われているから、この程度の発想もないのかしら」
無表情のまま、倒れて喚き散らす男へと淡々と告げた。
そしてスタン警棒を拾いなおし、男の顎を殴りつけ気絶させた。
「……疲れた」
巴は大きなため息をついた。
びちゃり。びちゃり。びちゃり。
顔に注がれる塩辛い冷水で、モゴ院長は目を覚ました。
「はっ!?」
「おはよう」
モゴ院長はつぶれた目で、自分に水をかけた女の顔を見た。
あのゴーグルとガスマスクの女であった。
電子音声は切れており、ガスマスクはテープで補修されている。
「ひいいいっ」
院長は反射的に悲鳴を上げていた。
その甲高い悲鳴が、巴の癇に障った。
この戦いで感じた恐怖。
何度も悲鳴を上げたくなった事を、彼女はまだ鮮明に覚えている。
それを必死に抑え込みながら戦ったのだ。彼女の恐怖に起因する怒りを煽るのに十分だった。
「もう一回、行きますか」
巴が軽く拳を振り上げると、院長は必死に顔を左右に振った。
闇の中で、一方的に殴られた恐怖がよみがえる。
助けを求めて周囲を見渡すと、『アトロシタス』から送られてきた三人のギャングが、全員プラスチックバンドのようなもので、縛られて倒れているのが見えた。
おなじみの携帯手錠だ。
「それでは先ほどのお話を、もう一度しましょうか。ねぇ院長」
顎を掴まれ、院長は強制的に巴へと顔を向けさせられた。
院長の震えが、掴んだ手から彼女へと伝わってくる。
「水増しの被害者全員への金銭の返却と賠償。それから警察への出頭。もちろんしていただけますね?」
「そ、そんな事をしたらギャングに殺される……ましてや今は『アトロシタス』は内部抗争中なんだ。どんな失点でも、敵対する派閥に理由をつけられて殺されかねない!」
「なら警察に守ってもらいなさい」
「ダメだ!警察にも『アトロシタス』の内通者がいるかもしれないんだ!死にたくない!」
巴は無表情のまま、待ち望んでいた回答が来たのを、内心で喜ぶ。
「……確かに、それは少しだけ可哀そうですね。では、こうしましょう。私の目的は医療費水増し被害者の救済です。全員に、今まで請求した全額を返却していただければ、黙っておいてあげます」
「わ、分かった。それくらいなら何とかする……」
「一週間以内に、全員を」
「……!あ、ああ。了解した」
巴がわざわざここへ来た二つの理由のうち、もう一つがこれだ。
『ドア・イン・ザ・フェイス』はご存じの方も多いだろう。過大な請求をした後で、あえて譲歩することで相手の同意を引き出す有名なテクニック。
そして『ミルグラム効果』は我々が日々実感しているものだ。権威付けされた相手からの要求は、同意を得やすいというシンプルな物。
巴は、院長がおびえるほどに屈服させることで、この男にとっての『権威』となったのだ。
「それでは交渉成立です。もちろん果たされなければ、私が証拠をそろえて通報いたしますのでご注意ください」
そういうと、巴は闇の中へと消えて行った。
モゴ院長は大きな安堵のため息をついた。
「あ、言い忘れましたが」
再び闇の中から巴が顔を出した。
モゴ院長は心臓が止まりそうになる。
「あの3人組を私が倒して拘束している間に、モゴ院長が目を覚まして私を撃退したという事にしておいてください。それでは」
そういって今度は完全に姿を消した。
ただ一人残されたモゴ院長は、独り言ちる。
「……もう本当に足を洗おう」
夜の公園で、私服に着替えた巴は顔を洗っていた。
「酷い顔……」
街灯の下で、手鏡を見る。
青あざに、切れた唇。巴の端正な顔がはれ上がっていた。
街灯の生物発光による優しい光が、巴の顔を照らす。
「でも、貴方はこんな事をずっと繰り返しているのよね……」
寅之助を思う。
彼の痛みをこれで少しは理解できただろうか。
そして同時に、ケンカが好きな理由も──。
武器を準備していた時、楽しいという気持ちが無かっただろうか。
武器が出来上がった時、使ってみたいという気持ちが無かっただろうか。
この危険な快楽に、人を強烈に魅了する何かがあることは確かだった。
巴はこの感覚を肯定する気は一生ない。
しかしそれは、寅之助を理解してあげたいという気持ちと矛盾はしない。
「しかしこの顔、家族にどう説明しよう……」
「お疲れ様」
突然背後から声が響いた。声の主は、黒手医師だった。
二人はベンチに向き合って座り、簡単なケガの処置を行っていた。
血を抜き、傷を縫い合わせ、軟膏を塗る。
「これでよし。今の湿布や傷薬は凄いぞ。磁壊獣戦争の頃の技術がようやく民間にも降りてきてね、傷が残る事はまずないはずだ。抜糸も必要ない。明日には腫れも引くだろう」
「ありがとうございます……つっ」
喋るだけで、唇が引きつり、痛みが走った。
それを見て、黒手医師は喋るのを手で制した。
「さて、私もこれで終わりだな。だが、不思議と晴れやかな気持ちだよ。最後に医者としてマトモな事が出来て良かった」
黒手医師は遠い目で笑った。
それを見た巴は慌てて自分のカバンの中を探し、そして一つの記憶デバイスを差し出した。
「これは……?」
「……いたた、少し喋らせてください。これは私と貴方で集めるだけ集めた、あの病院の不正のすべてです。貴方がこれを警察に告発してください」
「うん……?院長への脅しと取引に、司法取引は使う予定じゃなかったのかな?」
デバイスを受け取りながらも、黒手医師は怪訝な顔を作る。
巴は痛みに顔を引きつらせながら言葉をつづけた。
「いえ、院長へは『通報はしない』と含めてあります。ですから患者たちへの返金が確認できたなら、貴方が警察へ。貴方の動機は酌量の余地がありますし、自首をすれば大幅な減刑が見込めます。貴方はマネー・ロンダリングや人身売買にも関わっていませんから、実刑がつかない可能性は高い。今はこんな時代ですから、前科があろうと医者が職に困るという事はないはずです。患者たちへの返金もなされれば、貴方への民事追及も小さいでしょう」
黒手医師は一瞬ポカンとなり、そして感情が追い付いたかのように、目に涙を溜めた。
「あなたは救われるべき人です。だから、正しい場所に戻ってください。」
「……ありがとう」
黒手の感謝に、巴は目をそらした。
「いえ、私にはこんな事しか……。息子さんのご病気には、なんといったら良いか……」
「気にしなくていい。言ったかもしれないが、息子はもう、回復に向かっているんだ。このまま標準医療に切り替えても十分に見込みはある」
目に涙を溜めたまま、黒手医師は巴の肩へと手を置いた。
その手は熱くなっていた。
「それにね、私は今回の件で思い知ったよ。もしこの世が椅子取りゲームで、一つの椅子をめぐって争うとしたら……その椅子に座るのは強いものではなく、正しいものであるべきだと。そうでなくては、椅子の数は永遠に増えない」
巴は無言で頷いた。
それを見た黒手医師は、満足そうに微笑んだ。
「もうこれで会う事もないだろう。最後に、一つだけ教えてくれないか。君の名前は?」
その時、少女の無表情が、穏やかな笑顔に変わった。
「私は巴。武蔵野 巴」




