魔法と悪魔
会議室の暖炉に火が入っていた。
樫の薪が赤く崩れかけ、石壁にゆらゆらと橙色の影を投げている。練兵場の風が骨まで刺したのとは対照的に、この部屋は温かかった。窓硝子の内外の温度差で結露が生じ、窓枠の下端を水滴が一列に伝い落ちている。
長机の上に地図が広げられていた。王都ノルデンシュテルンを起点に、北の山脈まで延びる行軍路が赤い線で引かれている。中継地には印が振られ、兵站の集積点と行軍日数がハルグリムの几帳面な筆跡で書き添えられていた。春の雪解けと共に出発する調査団の計画図だった。
ナナハルトには分かっていた。赤い線の北端が指し示す場所には、雪と岩しかない。正規ゲートは王都の傍にある。この地図は、自分がついた嘘の産物だった。
ソスヴァルド王が上座の椅子に着いていた。金の髪が暖炉の光を受けて鈍く輝き、右手に持った杯の縁に唇を当てている。左手は肘掛けの上に開かれていた。力の抜けた手の甲に、暖炉の赤い光が這っている。
ハルグリムはソスヴァルドの左に立っていた。右手に薄い冊子を持ち、演算器は消灯している。この場に計算の余地はなかった。すべての数字は既に揃っている、という手つきだった。ディートリヒが壁際に控え、新しい帳面のページを開いていた。
暖炉を挟んだ向かい側に、椅子が二脚。
片方にヘイルルーンが座っていた。暗い蜂蜜色の髪を首の後ろで一つに纏め、深緑のローブの袖口に両手を引き込んでいる。指先だけが覗いていた。爪の隙間に染料の跡が残っている。今朝まで薬草の調合をしていた手だった。
もう片方にルキウスがいた。両手を膝の上で組み、背筋は一直線だった。長い指が組まれた手の内側で微かに動いている。
ナナハルトは末席に座っていた。ソスヴァルド王が「エーテル技術に精通した者として」との理由で同席を命じた。椅子の座面が堅く、坐骨に石の冷たさが食い込んでいた。
「さて」
ソスヴァルド王が杯を机に置いた。金属の底が石の表面を打つ短い音が、暖炉の爆ぜを一瞬だけ止めた。
「冬の間の議論を総括する。春に調査団を送る前に、この場で認識を揃えておく」
王の碧眼がハルグリムに向いた。
「まず、検査の成果から」
ハルグリムが冊子を開いた。ページの角が几帳面に折り返され、索引のように整理されている。
「冬季の適性検査の最終結果を報告します。兵士三十二名中、適合二名。マティス歩兵、ならびに第五分隊のヴェルナー。続く城下の住民検査では、六名の適合が確認されました。成人の女性が三名、十五歳以下の少年少女が三名。リーゼル・アスターを含みます」
名前が読み上げられた瞬間、ナナハルトの指先が椅子の座面の縁に食い込んだ。妹の名前が、適合者の通し番号として帳面に記載されている。ハルグリムの声には揺らぎがなかった。この男にとって人間の名前は、回路図の端子番号と同じ精度で処理される記号だった。
「計八名。出現率はおよそ六パーセント。試算の範囲内です」
ハルグリムが冊子のページをめくった。指先に目を落としたまま、声だけが淀みなく続いた。
「兵士の適合者には、軍事用の聖遺物を割り当てます。盾、剣、偵察用の灯具。前線での即戦力化が目的です。一方、市民の適合者には生活用の聖遺物を扱わせることを提案します」
「生活用とは」
ソスヴァルド王の碧眼が細くなった。
「暖房、照明、調理器具。エーテルを熱や光に変換する民生品です。この冬、備蓄の四割を失った王都にとって、燃料を使わない暖房と照明の確保は死活問題であることは先日の報告の通りです。適合者を起動資格者として訓練し、生活基盤に聖遺物を組み込めば、次の冬は凍死者を出さずに済みます」
凍死者を出さずに済む。その言葉がソスヴァルド王の碧眼の奥で静かに光った。この王の耳に、あの響きは民を守る技術の約束として届いているのだろう。ハルグリムの目は真っ直ぐだった。目尻に力みがなく、唇の端も歪んでいない。疑いを持つ人間の顔ではなかった。灯火の一つ一つが、地下のどこから汲み上げられているかを、この部屋の誰も知らない。
ナナハルトの胸元で、鴉のブローチが服の下に微かな温度を保っていた。今朝のクイルからの定時通信の余熱だった。回復しつつある、と。あの少女が都市の底で独りきりで回し続けているシステムから、暖房器具が一つ灯るたびに、命が薄く削り取られていく。
王の碧眼がヘイルルーンとルキウスを等しく捉えた。
「ここからが本題だ。あの光は、何だ」
前置きのない問いだった。杯を置いてから三呼吸と経っていない。
最初に口を開いたのはヘイルルーンだった。
「技術です」
淀みがない低い声が会議室に響いた。
「この冬の間に、ハルグリム殿が証明なさったことがあります。あの力を司る回路を解析し、人の手で再設計し、再び機能させることに成功した。さらに先ほどの報告の通り、適性さえあれば兵士であれ市民であれ、何の訓練もなく聖遺物を起動させることができる。再現が可能であるならば、それは神の恩寵ではない」
ヘイルルーンはそこで視線をルキウスに移した。
「人の理の内にある力です。名をつけるならば――『魔法』。教義の定める奇跡とは、完全に異なるものとして扱うのが妥当かと」
暖炉の薪が小さく崩れ、火の粉が一つ舞い上がって消えた。ルキウスは動いていなかった。ヘイルルーンの声が消えた後も組んだ手を解かず、暖炉の炎を見つめ続けている。沈黙が引き伸ばされ、ディートリヒのペンが紙の上で止まった。
「……覚えている」
ルキウスの声が低く落ちた。説教壇から広間に向けて発する声ではなかった。石壁の告解室で神に向かって囁くような響きだった。
「教会広場で空が裂けた日のことを。光の管が一本、また一本と、天に向かって伸びていくのを見上げた。鐘楼の鐘が触れてもいないのに鳴った。ステンドグラスが内側から燃えるように光った」
ルキウスの組んだ手の力が入り、爪の下が白くなっていた。
「あれは美しかった」
誰も口を挟まなかった。ソスヴァルド王の杯が机の上で微かに揺れたのは、暖炉の空気のせいだったのかもしれない。
「あの光を、神の降臨であると信じたかった」
ルキウスが暖炉から視線を外し、正面を向いた。ソスヴァルド王の碧眼と目が合った。
「先日、聖教皇庁へ報告書を送りました。正式な教義審査の回答が、昨日届いています」
声から私的な温度が抜け落ちた。替わりに組織の言葉が、訓練された声帯を通った。
「あの光を発した存在は、人の身体を模してはいるが、教義第七章第十二節に記された異獣の特徴を有する。角を持ち、人ならざる力を行使する存在。聖教皇庁はこれを『神の奇跡』として認定しない」
暖炉の火が一瞬だけ揺れた。窓枠を伝っていた結露の一滴が、溝の端から石畳に落ちた。
「奇跡として認定されない以上、あの力そのものは教会の管轄外に置かれます。ヘイルルーン殿の提唱する『魔法』という枠組みで世俗に委ねることについて、教皇庁としては異見を差し挟みません」
ヘイルルーンの唇が一瞬だけ動いた。噛むような動きだった。次の言葉を待っている目をしていた。
「ただし、技術が世俗に委ねられるとしても、それを行使した存在については、教義上の判断が必要です」
ルキウスはナナハルトを見なかった。机の上の地図を見ていた。赤い線が延びる北の山脈。
「人の形をして、角を持ち、人ならざる力を揮う存在。教義上、これを形容する言葉は一つしかない」
ナナハルトの指先が椅子の座面の縁を掴んでいた。掴んでいることに気づいたのは、爪の先が木に食い込んで痛みが走った時だった。胸元のブローチが、服越しに温かい。今朝届いたばかりの、回復を告げる通信の余熱だった。
「私としては、非常に残念ですが」
ルキウスの声に、ため息の成分が一滴だけ混じった。声帯の制御を一瞬手放した音だった。
「教義上――あの存在は、悪魔です」
薪が崩れた。大きく崩れ、暖炉の縁を越えて火の粉が石畳に散った。ディートリヒが足元に落ちた火の粉を靴底で踏み消した音だけが、沈黙の中に残った。
ソスヴァルド王は表情を動かさなかった。杯を取り上げ、一口含み、机に戻した。金属の底が地図の端に触れた。
「整理しよう。力は『魔法』として我々の管理下に置く。力を持つ存在は教義上『悪魔』とする。ただし浄化は行わず、世俗の裁量で管理する。教皇庁と王国、双方の利害は一致する」
実務的な声だった。「悪魔」という言葉の余韻が消え切る前に、もう次の文を組み立てている。ルキウスが静かに顎を引いた。肯定とも受容ともつかない、ただ事実を呑み込んだ動きだった。
ヘイルルーンの視線が一瞬だけナナハルトの方に触れた。何の感情も読み取れない目だった。自分が仕掛けた「魔法」の定義は成立した。教皇庁の不干渉も取り付けた。その代わりに、角のある少女の額に悪魔という烙印が押された。取引には対価が要る。ヘイルルーンはそれを知っている顔をしていた。
ナナハルトの椅子の脚が、石畳の上で鳴った。身体が動いたのだ。口が開きかけていた。
胸元のブローチに手が触れた。血の滲んだ自分の手を見て、不器用な後悔を口にしていた彼女を思い出した。
皆が「悪魔」と呼んで切り捨てたその力は、他でもない彼ら自身を護るために使われたものじゃないか。自分たちのために力を使い果たし、ボロボロになって倒れていた少女が、悪魔であるはずがなかった。
だがソスヴァルド王の視線が、末席のナナハルトを一瞥した。穏やかだった。穏やかで、何も問うていなかった。エーテル技術の顧問として呼ばれた少年騎士に、今この場で求められているのは知見であって異議ではなかった。
口を閉じた。
「では」
ハルグリムが冊子のページを繰り、新たな紙面を開いた。同じ几帳面な筆跡で、今度は組織の編成図のような線が引かれている。
「法的な障害が消えたところで、実務に移ります」
奇跡が魔法になり、少女が悪魔になった直後だった。この男の声は、午前の書類整理と何一つ変わらない平坦さで続いていた。
「八名の適合者を組織的に訓練し、魔法の起動と聖遺物の運用を体系化する専門機関の設立を提案します。合わせて」
ハルグリムの視線がヘイルルーンに移った。一瞬の呼吸で、次の言葉を譲った。
「呼称の整理を」
ヘイルルーンが引き取った。声に力みはなかったが、袖口から出た指先が机の縁を強く掴んでいた。
「今後、解析・実用化された聖遺物は『魔導具』と呼称します。権威の象徴として王が保持する一級品のみを従来通り『聖物』とし、未解析の出土品は単に『遺物』と区分する。民衆には聖物を通じて奇跡を見せ、兵と技師には魔導具を通じて魔法を使わせる。信仰と実利を、呼称の使い分けで両立させます」
ソスヴァルド王が頷いた。一度だけ、深く。ルキウスの背筋は微動もしなかったが、組んだ手の指先が法衣の皺を深く押し込んでいた。教義の外にある力が「魔導具」という世俗の名を冠し、自分たちの管轄から永久に離れていく瞬間を、この男は背筋を一直線に保ったまま呑み込んでいた。
「機関の主任には」
ハルグリムの視線が末席に向いた。穏やかだった。
「ナナハルト卿を推挙します。エーテル技術の理解と聖遺物の調整能力において、現時点で彼に並ぶ者は王国にいません」
ナナハルトの背中に、冷たい汗が一筋、背骨を伝って落ちた。主任。先生。適合者たちに聖遺物の起動を教え、調整を施し、魔導具の量産を加速させる。妹のリーゼルを含む市民の掌に灯火器を握らせ、一人一人の声帯に「星よ、光を」と唱えさせる。その灯が一つ灯るたびに、地下の少女の身体からエーテルが引き出される。それが、この男の言う「主任」の中身だった。
ソスヴァルド王の碧眼がナナハルトを見た。
「ナナハルト。お前にしか出来ない仕事だ。民が次の冬を越えるために、お前の力を貸してくれ」
王の声に、嘘がなかった。民を凍えさせたくないという願いに、偽りの成分は一滴も混じっていなかった。ナナハルトの喉の奥が、じわりと塞がった。
唇が動いた。
「……はい」
喉の乾きが声を掠れさせた。ソスヴァルド王が頷き、ハルグリムが帳面に了承の一筆を書き留めた。ペン先がインクに沈んでから紙に戻る音が、暖炉の爆ぜの合間に静かに落ちた。
「それと」
ソスヴァルド王が地図の上に手を置いた。赤い線の起点、王都の位置に指が落ちた。
「春の雪解けと共に、調査団を北に送る。ナナハルト卿が示した経路に従い、山脈の入り口を特定する。編成はハルグリム、任せる」
「準備は冬の間に済んでいます」
ハルグリムが手元の冊子を閉じ、懐から別の薄い冊子を取り出して机の上に滑らせた。調査団の編成表だった。人数、装備、食糧、行軍日程。冬の間にすべてが組み上がっていた。
ナナハルトは地図の赤い線を見続けていた。自分がついた嘘が赤い血管のように紙の上を這い、何もない山脈の懐へ消えている。その嘘の上に、研究機関の編成図が重なり、八人の適合者の名前が並び、妹の笑顔が貼りつけられていく。すべてが整然と、穏やかに、誰一人として悪意を持たないまま、地下の少女の命を消費する回路が完成しようとしていた。
会議が終わると、椅子が引かれる音と共にソスヴァルド王が立ち上がった。ハルグリムと短い言葉を交わしながら部屋を出ていき、ヘイルルーンが続いた。ルキウスが最後に立った。白い法衣の裾が石畳を掃いて、扉の向こうに消えた。
ディートリヒが帳面を閉じ、インク壺の蓋を締めた。ナナハルトの横を通り過ぎる時、何も言わなかった。帳面を抱えた銀髪の背中が、廊下に消えた。
会議室にナナハルトだけが残った。暖炉が燃え続けている。結露を帯びた窓硝子の向こうで、冬の灰色の空が広がっていた。




