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規格化の看破

 剣戟の残響が消え、怒号と悲鳴が途切れると、みぞれ混じりの冷たい雨音と、負傷兵の呻きと、生き残った者たちの荒い呼吸だけが残った。みぞれが降り続いている。王を先頭にした白銀の突貫が抉り取った尾根の斜面には黒い鎧が折り重なり、踏み荒らされた地面は雪ではなく重く冷たい泥の海と化していた。死体の残す熱で泥がぬかるみ、鉄錆と腐敗が混じった匂いが低く立ち込めている。遠くの林の向こうで、逃げ延びたグランツ兵の足音がまだ聞こえていたが、追う者はもういなかった。


 ナナハルトは盾を降ろし、泥の上に座り込んだ。鉄の味がまだ口の中に残っている。唾を吐くと赤かった。自分の血か、泥と一緒に口に入った他人の飛沫か、判別がつかなかった。みぞれが頬を打つたびに、その冷たさだけが自分がまだ生きている証拠のように感じられた。


 周囲で声が上がり始めていた。生き残った兵士たちが武器を降ろし、膝をつき、あるいは仲間の名前を呼んでいた。一塊の鋭い刃となって王と共に敵陣を引き裂いた聖騎士たちのサーコートは、もはや純白ではなかった。泥と血飛沫が染みつき、行軍前の美しい虚飾は戦場の現実に塗り潰されている。


 アデルベルトが隣に来た。盾の紋章に入った新しい亀裂を親指でなぞり、唇を引き結んでいる。汗がみぞれに冷やされて額に白い筋を作っていたが、手は震えていなかった。泥が絡みついた髪からみぞれが滴り、サーコートの左肩は敵兵の斧を受けた痕で裂けていたが、その下の鎖帷子に血は滲んでいない。斧の軌道を完全に読み、刃が鎖帷子に届く前に力を殺していた腕の角度が、そのまま残っていた。


「……生きてるか」


 素っ気ない声だった。返事を待たずに水袋を投げてきた。ナナハルトは口を濯ぎ、鉄の味を吐き出した。泥に混じった赤い水が、みぞれに叩かれて薄まっていく。


「ありがとう、アデル」


「盾の使い方は酷かったな。あれでは二日もたない」


「……分かってる」


「ああ」


 アデルベルトはそれ以上は言わず、剣の血糊を泥混じりの雪で拭い始めた。刃を一度引き、裏返し、もう一度引く。手首の角度が一切ブレない。戦闘の最中も、こうして血を拭うときも、この男の手の動きは変わらなかった。ナナハルトは自分の手を見た。泥と血がこびりつき、指の震えがまだ止まっていなかった。膝は崩さず、背中はナナハルトの斜め後ろに置いたままだった。弦のない盾の、弱い側を塞ぐ位置。戦闘中と同じだった。


 靴音が近づいてきた。


 馬の蹄ではなく、やわらかい革底の足音。泥を踏む一定のリズムが戦場を横切ってきた。みぞれの音の中でも聞き分けられるほど、その足音だけが規則正しかった。


 肩にみぞれの粒が数片載ったハルグリムが立っていた。右手の演算器がまだ微かに灯り、その光が戦場の残骸を流し見る横顔を下から照らしている。後方から馬を降り、戦場の中を歩いてきたらしい。長靴の膝下までが泥で汚れていたが、それ以外はほとんど乱れがなかった。この男は楔の先端には立たない。後方で数字を弾き、破綻しない解を設計し続ける。それが参謀の戦い方だった。だからこそ、戦場の泥と血の匂いの中にあっても、この男の足音だけが乾いた事務室のように規則正しい。


 ハルグリムの視線がナナハルトの手元に落ちた。泥の上に降ろした盾を見ている。血と泥に塗れた盾型変奏器(ヴィェラン・シールド)を、演算器の灯りが冷たく照らした。


「少し、見せてもらってもいいかな」


 穏やかな声だった。ナナハルトは盾の柄を握り直してから、差し出した。指が強張っていた。泥と冷気で関節が固まっている。それだけではなかった。この男に盾を渡すことへの、本能的な警戒が指先を重くしていた。


 ハルグリムは盾を両手で受け取り、裏返した。演算器の青白い光が盾の内側を這った。弦の跡。弓の溝。共鳴胴の空洞。エーテル循環路の配管。指先が回路の配置を辿っている。弦が通っていた溝をなぞり、回路板の焼け跡に触れ、配管の断面を確認し、エーテルの循環経路の残骸を丁寧に辿った。その指の動きには、戦場の泥も血の匂いも、一切の感情も関与していなかった。ただ構造を読んでいる。設計図を頭の中で再構築している。


「ああ、弦の回路は完全に死んでいるね。共鳴胴の機能もほぼ失われている」


 指先が溝の底に残った金属の切断面を押さえた。押さえたまま、演算器をもう一方の手で操作している。数列が光の中を走った。みぞれが演算器の表面を叩き、光が揺れた。


「だが基幹のエーテル循環路はまだ生きている。当然だね。弦は音響インターフェースに過ぎない。回路の骨格そのものは、最初から弦とは別系統だ」


 ハルグリムはナナハルトを見た。演算器の青白い光が頬の稜線に影を置いている。みぞれが頬を伝っているが、拭おうとしない。数字を読む目は、先ほどの戦闘中と何一つ変わっていなかった。


「さっきの戦闘を、後ろで見ていたよ」


 ナナハルトの喉が詰まった。背中のアデルベルトの気配が、わずかに硬くなったのが分かった。


「君は口笛を使っていたね。あのとき盾が展開した障壁は、以前の弦で弾いていた和音障壁と何が違った?」


「……何も」


 ナナハルトは正直に答えた。嘘を吐く余裕がなかった。みぞれに打たれた唇が痺れ、声が掠れている。


「周波数は同じです。弦の代わりに声で回路に波長を通しただけで、仕組みは変わらない」


「そうだろうね」


 ハルグリムの指先が演算器の上を走った。数列の流れが一段速くなった。演算器の光が、みぞれの中で脈打つように明滅する。この男の頭の中で、何かが組み上がっている。バラバラだった数値が一つの構造に収束していく音が、聞こえるような気がした。


「機動靴の調整のとき、私はこう考えていた。あの少女がいなければこの技術は動かない、と。だがそれは間違いだった」


 ハルグリムの声が、みぞれの冷たさとは別の種類の冷気を帯びた。


「今日、君はあの少女がいない状態で、弦すら持たずに、口笛の一音だけで完全にこの盾を制御した」


 ナナハルトの指が泥の中で動いた。何かを掴もうとして、何も掴めなかった。


ハルグリムが盾をナナハルトに返した。泥と血にまみれた金属が腕にのしかかり、弦を失った空洞がみぞれの冷気を溜め込んでいた。ハルグリムの唇が次の言葉を形作るまでの数秒間、みぞれだけが二人の間に落ち続けた。


「我々がこれまで聖剣を動かすのに使ってきた『聖句』と、本質的に同じ原理だ」


 みぞれが頬を打った。冷たかった。だがハルグリムの言葉の方が、はるかに冷たかった。


 演算器の光がハルグリムの目を照らしていた。その目は盾を見ていなかった。もっと遠くの何かを見ていた。倉庫に眠る、使い道のなかった聖遺物の破片の山を。機動靴の調整以来、ナナハルトの同調がなければ動かせないと思われていた数十点の遺物の欠片を。


「ナナハルト。君は、弦を切ったね」


 声が静かだった。演算器を弾くときと同じ抑揚で、同じ速度で、言葉を並べていた。


「それは楽器としてこの盾を殺すためだったのだろう。誰にも兵器として使わせないために」


 ナナハルトの呼吸が止まった。知っている。この男は、すべてを見抜いている。


「だが結果は逆だった」


 ハルグリムの唇が微かに動き、瞳孔がわずかに開いた。演算器の数列が一つの解に収束したときと同じ顔だった。


「君は楽器を殺すことで、この盾を兵器として洗練させてしまった。音楽という属人性の排除。弦というブラックボックスの除去。残ったのは、適性さえあれば聖句一つで起動できる、極めてシンプルな回路構造だ」


 泥の中で、ナナハルトの指が白くなるほど盾の柄を握り込んだ。


「王都の倉庫には、探索者たちが山脈で拾い集めてきた部品の山が眠っている。回路の断片、接続器、配管の切れ端。私の手にも余り、使い道が見つからないまま埃を被っていたガラクタだ」


 ナナハルトの指が止まった。みぞれが首筋を伝い、背骨に沿って落ちていく冷たさが、足元の泥の痺れと繋がった。


「あれらの部品に、適性を持つ者が聖句で力を通せば――つまり、この盾で君がやったのと同じことを他の素材でもやれば――我々はあのガラクタを、この国を守る新しい道具として蘇らせることができるのではないか」


 ハルグリムの声は穏やかで冷静だった。盾の共鳴胴の空洞に、みぞれが一粒落ちて跳ねる。乾いた音が、空っぽの内側を長く響かせた。


 みぞれが降っていた。ハルグリムの肩に冷たい粒が落ち、溶けて泥水に変わった。


「ナナハルト」


 ハルグリムは演算器を閉じた。初めて、計算を止めてナナハルトの目を見た。


「君の才能の本質は、戦場で泥に塗れて剣を振ることじゃない。君は、ものを作れる。ただの部品を、人の命を守る道具に変えられる。それは陛下の聖剣よりもずっと価値がある力だ」


 ハルグリムの声は揺れなかった。みぞれに濡れた手が、一瞬だけナナハルトの肩に向かって伸びかけ、戻った。民を凍えさせず、兵を無駄に死なせないための最も合理的な解を、この男は一片の曇りもない目で語っている。その目の澄み方が、ナナハルトの喉を塞いでいた。


「王都に戻ったら、冬の座学を拡充したい。エーテルの適性を持つ者を城下から集めて、君に見てもらいたいんだ。適性の高い者には、あのガラクタの仕組みを学ばせたい」


「……管理者との同期がなければ、新しい回路を一から組み上げるのは暴走のリスクがあります」


 ナナハルトの声が掠れた。本当はエリの観測なしにナナハルトが調律出来ることを、ハルグリムは看破しているのではないか。背筋が寒くなってくる。まだこの言い訳にすがりたい。少しでもエーテルの消費をとどめなければ、その分、地下都市が、エリが削れていってしまうのだから。


「もちろんだ。最初から無理はさせない。冬の間は基礎だけでいい。この部品がどういう構造で、どこに力を流して、何に気をつけるべきか。君にしか教えられないことだ」


 ハルグリムは微笑んだ。目尻の皺が深くなり、演算器を握る指が一瞬だけ緩んだ。


「春になれば、あの山脈の向こうにいる管理者との接点も作れるだろう。そのときに精密な作業に移ればいい。焦る必要はないよ」


 春になれば雪が溶け、山脈への道が開く。ナナハルトの指が、無意識に胸元のブローチを押さえた。みぞれの水滴を弾いた金属が鈍く光り、応えない冷たさが身体に染みて心臓に届いた。


 ナナハルトは唇を噛んだ。春までの猶予。冬の間は基礎だけ。それなら、まだ。


「……分かりました」


 泥の中に呑まれるような声だった。ハルグリムは頷き、演算器を再び開いて馬のほうへ歩き出した。足音が泥を踏む一定のリズムは、来た時と全く同じだった。戦場の泥と血の匂いの中を、事務室から出るように歩いていく。破綻しない解を携えて。


 アデルベルトが隣に立っていた。ハルグリムの背中がみぞれの中に遠ざかっていくのを、目を細めたまま見ていた。口が一文字に引かれている。拳の中で指の関節が白くなっているのが見えた。剣を拭う手は止まっていた。


「顔色が悪いな。何を引き受けたんだ」


 ナナハルトは答えなかった。喉が動いたが、声にはならなかった。みぞれが顎から落ちて、泥に消えた。


 遠くで、ソスヴァルド王が兵士たちに声をかけているのが聞こえた。勝利を称える声だった。名前を呼び、肩を叩き、一人一人の目を見て語りかけている。兵士たちの背が伸びていく。先ほど泥の中で人を殺した手が、拳を掲げている。自ら最前線に立ち、泥にまみれて道を切り拓いた王の声は、みぞれの中でも遠くまで届いていた。


 膝の上の盾が冷えていた。泥と血が表面で凍り始めている。共鳴音の最後の残響がとうに消え、ただの重い金属板に戻った盾の表面に、みぞれの粒が一つ落ちて、溶けずに残った。

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