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重い盾と口笛

 坂を登りきった瞬間に、黒い鎧のグランツ兵が斧を振りかぶっていた。


 ナナハルトは盾を反射的に前へ突き出した。かつてなら弦を弾き、光の障壁を展開した場面だった。しかし今、盾はただの分厚い金属板でしかない。斧の刃が表面を叩き、乾いた金属音と共に衝撃が腕から肩を突き抜け、足元が滑って半歩下がった。


 右手で腰の剣を抜いた。柄を握る手が震えていたが、刃は鞘から抜けた。斧を振り切って体勢の崩れた敵兵の鎧の脇に、剣の切っ先を差し込んだ。革と鉄環を裂き、その先にある柔らかいものに届いた。棒で粘土を突いたような鈍い抵抗が掌に伝わり、それが消えて、刃が奥へ沈んだ。


 敵兵の口から溢れた血がナナハルトの頬に散り、冬の空気の中でなおも温かさを保ったまま顎を伝った。凍えた皮膚に灼きつくような数秒間の熱。剣を引き抜く手が、次の動作に移るより先に震えた。


 足元で鎧が地面を打ち、呻きと混じって途切れる音が泥の中に沈んでいった。見なかった。だが音は耳に残った。


 次は槍だった。穂先を盾で逸らし、柄をくぐって間合いに入り、手首を打った。骨に当たり、刃が滑って肉を裂く感触が柄を握る掌から手首へ突き抜けた。槍が泥に落ちる音を聞く前に、留めを刺していた。


 盾の縁で顎を打ち、のけぞった鎧の隙間に剣を突き込んだ。勢い余って相手の身体ごと泥に転がり、泥水が口に入った。鉄錆と土と、もう一つ何かの味がした。腕の筋肉が限界を訴え始めていた。


 立ち上がった時、視界の端で閃光が見えた。ソスヴァルド王の聖剣が敵の密集を二度目の光刃で薙いでいた。王の周囲だけ、戦場の密度が違う。圧倒的なエーテル出力が人間の物量を粉砕している。


 だがナナハルトの手元には、そんな力は残っていなかった。


 四人目が来た。体格の大きい兵士が両手で大剣を振り下ろしてきた。ただの重い金属板のままでは、受けきっても腕の骨が砕ける。とっさにナナハルトは、冷たい空気を肺の奥まで吸い込んだ。

 王の『聖句』のような強力な詠唱の知識はない。弦というインターフェースもない。だが、彼は「どの波長を通せば回路が正しく展開するか」を完璧に記憶していた。


 ナナハルトの唇から、高く澄んだ口笛の旋律が戦場の空気を切り裂いた。


 かつてエリと合わせたあの曲の一節。完璧な周波数が盾の回路に届いた瞬間、重い金属の塊からふわりと物理的な重量が消え去り、極めて澄んだ共鳴音と共に青白いエーテルの障壁が展開した。

 大剣が光の盾に叩きつけられ、澄んだ和音が反発力となって敵兵の巨体を弾き飛ばした。周囲の敵兵が半歩退き、槍を構える腕が強張った。その一瞬に踏み込んだ。剣を振り、頬に返り血が走った。


 紋章の入った盾が視界の左端を横切った。ナナハルトの左側面、弦のない盾を構えた腕の外側にアデルベルトが入り込み、張り付くように足を揃えた。ナナハルトの右側面に入り込んできた敵兵の斧を、アデルベルトの盾が弾いた。火花が散った。踏み込みが敵を押し返し、続く一太刀で脇腹を切り裂いた。聖遺物に頼らない、剣と盾だけの正統な騎士の剣だった。斬撃の弧は一定で、返す刃に無駄がなく、ナナハルトの左側面を塞ぐ位置から足が一歩も動いていなかった。


「遅い」


 アデルベルトの声は息を切らしていなかった。血飛沫を浴びた顔が、ナナハルトをちらりと見た。


「盾で殴るなら、もっと腰を入れろ。腕だけで振ってる」


 素っ気なかったが、足はナナハルトの左側から動かなかった。弦を失った盾が弱い右側面を晒す、その外側を塞ぐ位置に立ち続けている。二人で背中合わせの形になった。


 ナナハルトには分かっていた。アデルベルトが左側に入ったのは偶然ではない。あの朝、部屋で弦のない盾を見た赤毛の騎士は、この盾がもう音の障壁を出せないことを知っている。知った上で、盾の弱い側に自分の身体を置いている。口では「遅い」と叱りながら、足では守っている。昨日の夜明け前に「黙って見ている」と言った男の、言葉の通りの振る舞いだった。


 アデルベルトの剣は綺麗だった。斬撃の弧が一定で、足の運びに迷いがなく、力の入れ方と抜き方が噛み合っている。エルヴィンに叩き込まれた型が、泥と血の中でそのまま再現されていた。


 ナナハルトの剣は汚かった。振りは不揃いで、足元は泥に滑り、盾を支える左腕の筋肉がとうに限界を超えていた。それでも足は止まらなかった。止まれば的になる。エルヴィンに教わったのはその一点だけだ。泥を踏み、盾で殴り、剣を突き、泥にまみれた手で柄を握り直してまた振った。


 呼吸が乱れるたびに口笛の音程が揺れ、光の壁が明滅した。剣を振るたびに泥が口に入った。


 ソスヴァルド王の聖剣が三度目の光刃を放った。楔の先端から放たれた閃光が殿軍の中央を縦に裂き、指揮系統を断った。陣形が崩壊した。ハルグリムの演算が導いた角度で、エルヴィンの盾列が崩壊部に楔を打ち込み、ブランドの突撃がそれを広げた。


 殿軍は総崩れになった。武器を捨てて走る背中もあれば、膝から泥に崩れ落ちる鎧もあった。雪と泥が赤黒い色に変わり、金属と呻きの音がゆっくりと遠ざかっていった。


 ナナハルトは泥の中に立っていた。右手の剣が血で滑る。左腕の盾は、完璧な共鳴音の残響をまだ微かに響かせていた。美しいその音が、己が背負った血の重さを一層際立たせ、冷たさに歯の根が合わない。手を見た。泥と血が混じって、どこまでが自分の手でどこからが泥なのか分からなくなっていた。


 足元に、自分が倒した人間が横たわっていた。視線を上げた。白い息だけが、自分がまだ立っていることを教えていた。


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