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殿軍の血

 ソスヴァルド王が聖剣を抜く。

 刀身に冬の鈍い光が走り、エーテル回路の発光が刃先から柄まで走った。王は馬上から背後を振り返り、泥に伸びる長い行軍の列を一望した。


「全軍、戦闘態勢」


 声が列を貫いた。追いついてきたハルグリムに向かって、王は続けた。


「陣形を任せる」


「陛下。直接の前線参加は再考いただきたい。陛下の損耗リスクが高すぎる」


 王はハルグリムを見た。笑っていた。


「お前が後ろにいるんだ。何を心配する」


 ハルグリムは演算器に目を落とし、一度だけ目を閉じた。手綱を握る指が白くなるほど力を込め、しかし次の瞬間にはその力が抜けていた。この王は、自ら楔の先端に立つ気でいる。


「……了解しました。ただし前線滞在時間の上限を設けます。三十分で後退していただきたい」


「約束しよう」


 馬上で頷いた王の顔には、微かな笑みが混じっていた。すぐ後ろに立っていたブランドが、大剣を担ぎ直しながら王の馬の真横へ歩み寄った。


「破る前提の約束だな。……まあ、お前がそう行くなら、俺もやる」


 呆れたような声だったが、奥歯を噛む音が聞こえた。唇の端が持ち上がり、息が白く短く弾けた。


「なんだか懐かしいな、こういうのは」


「遅れるなよ、ブランド」


「誰にものを言ってる」


 二人の気負いのない会話が風に乗って後ろへ流れる。それを聞いた後方の列で、盾の取っ手を白くなるほど握り込んでいた若い歩兵の指から、わずかに無駄な力が抜けた。ブランドという男の納得はいつもこうだった。言葉の意味ではなく、声の温度で人を動かす。怖いものは怖いままでいい。だが、あの背中についていくなら戦える。


 丘陵の裾から見上げる位置に、黒い鎧の列が見えた。グランツの殿軍が、切り立つ尾根の上部に陣を敷いている。槍衾が雪の斜面に壁を作り、その後方に弩弓兵が散開していた。千の兵力が統制を保ったまま待ち構える防衛陣形だった。坂の上に陣取られているため、こちらは泥に足を取られながら斜面を登らなければならない。数でも地形でも不利だった。


 列が止まった。敵の千の黒い鎧を見上げる数百の表情は、雪の中で強張っていた。


 ソスヴァルド王が馬を回す。列の前を端から端まで、一度だけ歩かせた。歩かせながら、名前を呼んだ。


「トーマス」


 泥まみれの若い歩兵が、弾かれたように顔を上げた。


「ヨハン。エーリク」


 呼ばれた兵士たちが一人ずつ、凍りついた首を王に向けた。


 王は列の中央で馬を止めた。丘の上の黒い壁と、自分の兵士たちの顔を交互に見た。


「千いるな」


 王の声は静かだった。


「坂の上にいる。数も地形も、向こうが上だ」


 呼吸の音だけが列を満たした。


「だが連中は逃げてきた兵だ。仲間が霧に消えるのを見て、武器を捨てて背を向けて走った」


 王の碧眼が列を端から端まで見渡した。


「お前たちは走らなかった。靴底が裂けても、泥を踏み続けてここまで歩いてきた。誰に命令されたからでもない。お前たちが、自分の足で選んだんだ」


 聖剣の柄に手がかかった。


「私が背中を預けたいのは、千の敗兵ではない。ここにいるお前たちだ」


 名前を呼ばれた若い歩兵が、最初に拳を上げた。声にならない声が喉から漏れ、泥だらけの拳が空を掴んだ。隣が続いた。その隣が続いた。声ではなく、拳の波が列の端から端まで走った。


汝の名を記す者よノルデン・リブラ・エスターシュ


 王の聖句が冬の空気を割った。


 声帯の底から押し出された詠唱が聖剣のエーテル回路に共振し、刀身が蒼白い光刃を纏った。馬の腹を蹴り、泥を跳ね上げて斜面を駆け上がる。楔形陣の頂点に立つ王が、聖剣を振り下ろした。光が槍衾の正面を薙ぎ、鎧ごと弾き飛ばされたグランツ兵が斜面の雪を赤く染めて転がった。


 数十メートルの間隙が一太刀で生まれた。


 ブランドが吼えた。


「空いた! 突っ込め!」


 大剣を振り上げた茶髪の大男が、王の開けた間隙に真っ先に飛び込んだ。低い姿勢のまま斜面を駆け上がり、返す刃で左右に復帰しようとした敵兵を纏めて薙ぎ払う。間隙が広がる。楔の両翼を構成する聖騎士たちが雪崩れ込み、その後ろから歩兵が続いた。ブランドの背中を追って斜面を駆け上がる兵士たちの軍靴が、凍土を深く抉っていた。


 後方で、ハルグリムの演算器が忙しく光を刻んでいた。唇が数列を走らせ、凍えた指先が虚空を弾く。前線で血が噴くたびに数値が変わり、変わるたびに次の陣形が彼の手元で組み直されていく。剣の柄には雪が積もったまま、払われた形跡もなかった。


「右翼の弩弓隊が移動を始めた。エルヴィン、右側の盾列を二列前に。ディートリヒ、左翼の歩兵を崖沿いに迂回させろ。弩弓の射角から外す」


 ディートリヒが機動靴を灯した。泥を蹴り、靴底の光が聖騎士団の左翼をすり抜けていく。冷却の限界まであと何秒あるのか、彼女の懐中時計だけが知っていた。伝令を届け、踵を返し、崖沿いに離脱した地点で懐中時計を開き、靴底に手を当てて温度を確認する。


「冷却まで三十五秒」


 息を切らしながら、秒数だけは正確に読み上げた。冷却を待つ三十五秒の間、ディートリヒは短剣で戦った。機動靴の速度がなくても、足運びは崩れなかった。近づいてきた敵兵の槍を体捌きで逸らし、懐に入って鎖帷子の隙間に短刃を差し込んだ。冷却が完了した瞬間に靴を灯し、次の伝令地点へ走り出す。生存率を一秒ごとに運用し続ける、それがこの少女の戦い方だった。


 エルヴィンが盾を構え直した。エルヴィンの喉が震えた。吐息混じりの短い音が風に紛れた瞬間、盾列の歩兵が一斉に足を踏み直した。盾の底が凍土を叩く音だけが、百人分の返事として冬の空気を鳴らした。


 ルキウスが敵陣の右端に突入した。剣が一度振られた。弧は小さかった。鎧の継ぎ目を一筋だけ裂いて、返す動きで隣の兵士の槍を柄ごと叩き折っている。二歩目で胴を浅く引き、三歩目で背後に回った別の敵の腕を斬り落とした。白いサーコートの裾に血飛沫が散ったが、足の運びは変わらなかった。この男の剣は正統だった。型の美しさではなく、秩序そのものとしての正しさ。一太刀ごとに「聖騎士団とは何か」という意味が刻まれていくような、そういう剣だった。


 ナナハルトは泥の斜面を懸命に駆け上がった。革靴が雪と泥に滑り、何度も足を取られそうになる。機動靴を持つディートリヒのように斜面を飛ぶことはできない。重力と泥の抵抗を全身で受け止めながら、ただ己の脚力だけで這い上がる。

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