凍土の行軍
王都を発って数日、雪の粒が変わっていた。
南に下るにつれて空気は水気を含み始め、ナナハルトの肩の純白のサーコートに落ちた結晶は触れた途端に崩れ、冷たい水滴に変わって消えた。北の山脈では粉雪が乾いた鋭さで頬を打ったものだが、ここでは降るものすべてが重く湿り、地面に落ちた白は数百の軍靴の轍にすぐ呑まれていった。
街道は泥の川になっていた。先行する馬蹄が凍土の表層を砕き、続く歩兵が同じ轍を踏むたびに地面はさらに掘り下がり、足首まで沈む箇所が列の前方に断続的に現れている。泥に靴を取られた若い一般兵が息を詰め、後ろが詰まり、列が蛇行する。小隊長の叱声が飛び、歪んだ列が押し戻される。その波は先頭から最後尾まで幾度となく繰り返されていた。
弦を失った盾型変奏器の重みが、背負い紐ごとナナハルトの肩に食い込んでいた。
その盾はすでに、盾型変奏器とは呼べなかった。四本の弦と張力機構を取り除いた分、数値の上では軽くなっているはずだった。だが実際に背負って歩くと、その印象は逆だった。弦の振動が生んでいた軽やかなエーテルの循環が消え、共鳴胴はただの機能を持たない空洞に成り果てている。かつて弓が走っていた溝は、ただの傷痕として金属の表面に残るのみ。聖遺物ならではの冷たい幾何学模様と、淀みきったエーテルの残滓だけが、どんよりと背中に圧しかかっていた。
足元の支給された革靴は、とうに泥水が染み込んでいる。凍えた泥を踏み、雪を踏み、轍に足を滑らせるたびに、冷気が足先から脛を這い上がってきた。
視線を上げると、視界の中心に異常な白があった。
泥まみれの一般兵の列を左右に割るように、軍の中核に一つの密集陣形が構築されていた。新設された聖騎士団によるソスヴァルド王を中心とした『王の盾』の陣形だった。
王は自ら下馬し、泥を蹴って歩を進めている。鈍い冬の曇天が列を灰色に塗り潰す中で、兵士たちの眼だけが、白い陣形の中心にある金の色を追い続けていた。歩兵と苦楽を共にする王の姿は、士気を掲げる旗のようなものだった。
その旗を囲むように、ブランド、アデルベルト、エルヴィンたち歴戦の兵が、一寸の狂いもない歩幅で追随していた。誰もが純白のサーコートを纏っている。泥跳ねを防ぐことは不可能だが、彼らだけは一切の疲労を表に出さず、歩兵の泥臭い行軍とは完全に切り離された『作られた英雄』としての威厳を保ち続けていた。
その整然とした白の中で、ブランドの体格だけが異質だった。大剣を担ぎ直す拍子に泥が跳ね、隣を歩く若い聖騎士の肩に散った。口調は荒い。だがその荒さの中に、歩兵たちが足を揃えたくなるような、説明しがたい吸引する力がある。
エルヴィンは密集陣形の外縁、一般兵との境界線にいた。サーコートの肩に雪が積もり、払いもせずに列の最も危険な位置を押さえている。脱落しかけた兵士の腕を無言で掴んで列に戻し、それ以上の言葉は使わない。老兵の目は前方ではなく、常に左右の林の縁を睨んでいた。何十年もの戦場が叩き込んだ勘が、この男の足を止めない代わりに、首だけを絶えず左右に振らせていた。
ルキウスは密集陣形の前方、王の斜め後ろにいた。サーコートの裾が泥を引いているが、足を運ぶ拍子だけがほかの誰とも違っていた。一定の歩幅、一定のリズム。寒さも泥も踏み直しの揺れも、足の運びには何の影響も及ぼしていない。唇が微かに動いていた。声はナナハルトの耳には届かなかったが、あの男が黙っている時は、頭の中で次の意味を編んでいる時だった。聖騎士団という看板に、どんな物語を乗せるか。この行軍の苦痛を、どんな正統性で包むか。
アデルベルトの赤い髪が、白い陣形の中で一際目立っていた。剣と盾だけの少年騎士が、王と同じ歩幅で泥を蹴っている。サーコートの裾が重く泥を跳ね、額に張り付いた髪から汗が顎に伝っていたが、足が止まったのを見たことがなかった。一度だけ、赤い髪の頭が振り返った。ナナハルトの背中の盾を一瞥し、すぐに前を向き直った。何が変わっているかを知っている者の視線だった。弦がないことを。あの朝、毛布をかけて隠したものが、今は背中に剥き出しになっていることを。
列のどこにも、あの軽口は聞こえなかった。
ロルフは王都に残されていた。背中の矢傷はヘイルルーンの手当で峠を越えたが、行軍に堪えうる状態ではないと軍医に止められている。弓使いがいた場所には、代わりの兵士が入っている。名前は知らなかった。列の空気が違った。笑い声がなかった。
胸元の鴉のブローチは冷え切っていた。あの朝、クイルが修復してくれた双方向通信は生きているはずだった。だが王都を発ってから、エリュシオンの気配は一度も通信に乗ってこない。金属の表面に指先が触れると、結露の冷たさだけが返ってきた。地下の少女の声は、凍土の下に沈んだままだった。
重苦しい泥の音を裂いて、列の左側を小柄な影が駆け抜ける。
ディートリヒだった。機動靴の靴底から青白いエーテルの光が尾を引き、泥を一切踏み込むことなく凍土の表面を滑り抜けていく。泥にまみれた歩兵たちの頭上を掠めるように走り抜ける小柄な影は、この軍で唯一、地面に触れずに移動できる存在だ。
急停止した足元から、排熱の白い蒸気が激しく吹き上がった。片手に帳面、片手に懐中時計。機動靴の排熱限界を秒単位で管理しながら、列の前方と後方を往復して伝令を運んでいた。冷却のために停止したディートリヒの靴底から白い蒸気が上がる。そのまま立ち止まったまま周囲を一瞥し、帳面に何かを書き込んだ。凍傷で指先が紫になった一般兵の数を数えているのか、次の停止点までの泥の深さを記録しているのか。いずれにせよ、書く手は止まらず、冷却が完了する頃には帳面のページが一枚埋まっていた。数えて、運用して、生存率に変換する。それが彼女の戦い方だった。
ディートリヒが冷却を終え、再び機動靴を灯して後方へ走った。後方の馬上にあるハルグリムの横で減速し、蒸気越しに帳面を差し出す。
「一般兵の脱落率が上昇傾向にあります。凍傷四名、脱水七名、靴底の破損による歩行困難が三名。このままだと、敵の殿と接触する頃には前線に投入できる兵力が二割減です」
ハルグリムは手綱を握ったまま、右手の演算器を弾き続けていた。青白い光が頬の起伏に不安定な影を落とす。帳面に目もくれず、言った。
「把握しているよ。至急、陛下へ進言をお願いします」
「私は構いませんが、王は聞き入れないでしょう」
ハルグリムの静かな返答に、ディートリヒは一瞬だけ唇を引き結び、それから頷いてふたたび前方に走り出した。靴底の蒸気が泥を叩いて白く跳ねた。
その時、前方から馬蹄の音が急になった。
伝令の騎兵が列を駆け上がってくる。徒歩で進んでいたソスヴァルド王の前で馬を止め、泥を跳ねて叫んだ。
「殿軍、推定千! 南東の尾根に布陣。退却の意思なし、迎撃態勢です!」
吐息の白さが、列の端から端まで止まった。
ハルグリムの演算器が一段明るく光った。参謀は馬上で手綱を引き、数値を読む目の色は変わらないまま呟いた。
「千か。こちらの投入可能兵力はおよそ六百。聖騎士団三十二名を入れても、数では劣勢だね」
だが、破綻しない解を設計するのがこの男の仕事だった。演算器を弾く指がピタリと止まり、冷たい号令が冬の空気を裂いた。
「横隊を解け。聖騎士団を頂点とした楔形を組む。敵の左翼、尾根の最もなだらかな一点のみを穿つ」
参謀の号令が列を貫いた。泥にまみれた一般兵たちが左右へ割れ、軍の中核から純白の一団が最前線へと押し出されていく。数の不利と地形の不利を覆すための唯一の戦理。最も厚い装甲と高い士気を持つ精鋭を一点に集中させ、敵陣を内側から食い破る。
ハルグリムは手綱を引き、王のいる先頭へと馬を進めた。




