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友情の追求

 部屋は暗かった。窓から差し込む夜明け前の灰色の光と、廊下の奥から漏れる油灯の橙色だけが、狭い空間を薄く照らしていた。


 アデルベルトが扉を閉めた。コートを椅子の背に掛け、盾を壁際の床に立てかけた。


 ナナハルトは寝台の縁に腰を落とした。座ったというより、膝が折れてそこに収まっただけだった。腫れた両手を膝の上に投げ出すと、指の関節が膨れ上がっているのが自分でも分かった。皮膚の表面が内側から炙られたような赤黒い色をしている。


 アデルベルトは壁際の盾を見ていた。弦がなかった。四本の弦があった場所に、切断された金属の残端だけが残っている。共鳴胴は空洞を晒し、弓の溝はただの傷跡になっていた。


 視線が盾の弦の断面からナナハルトの手に戻ってきたのが分かった。切断された金属と、同じ形に腫れた指。その二つを結びつけるのに、長くはかからなかっただろう。


「……ナナハルト」


 名前を呼ぶ声は、張り詰めていた。


「その手はどうした」


 ナナハルトは答えなかった。壁にもたれたまま、アデルベルトの襟元のあたりを見ていた。


「この盾の弦を、お前が切ったのか」


 沈黙。チクタクチクタクと、壁越しに作業場の時計が鳴り続けている。


 アデルベルトが壁際に立てかけた盾のほうへ歩いた。弦の切断面に指を触れている。ペンチの圧で潰れた金属の端を確認するように、指先がゆっくりと溝をなぞった。


「ハルグリムがこの盾を起動しようとして失敗した話は聞いた。弦の調律がなければ動かない、と。それをお前自身が壊した。王国の聖遺物を。お前の手で」


 ナナハルトの喉が動いた。嚥下する音が静かな部屋に落ちた。


「……あれは」


 声が出た。掠れていた。三日間ほとんど眠っていない人間の、乾ききった声だった。


「あれは兵器なんかじゃない」


 アデルベルトの目がナナハルトを見据えた。


「……ただの、楽器だったんだ」


 声が震えていた。膝の上の手が、握ろうとして握れずに開いたままになっている。腫れた指が曲がらなかった。


「僕が設計して、地下の……工房で部品を集めて、弦楽器の構造を盾の中に組み込んだ。楽器なんだ、あれは。音楽を奏でるために作った。護るために弾いた。王様からもらった聖遺物と組み合わせたら、強い盾になった。それだけだったんだ」


 アデルベルトは黙っていた。寝台の脇に膝をつき、ナナハルトの横顔を見ていた。


「あの日、あの弦が鳴った時……敵が、紅い霧になった。何百人も。僕の指が弾いた音で。弦を一本弾いただけで、人間が霧になって消えていった」


 声の震えが止まらなかった。


「あの力は……地下の、彼女が無理をして引き出してくれたものだ。本来は禁止されている過負荷を、僕たちを護るために。その代わりに彼女の身体が壊れた。角が欠けて、回路に傷が走って……それでも彼女は、合理的な判断だったって。僕を責めなかった」


 膝の上で拳を握ろうとした指が、途中で止まって震えた。


「僕が弾けば弾くほど、敵の人間が死ぬ。僕が地上で聖遺物を使うほど、地下の彼女たちが削られていく。どっちに転んでも、僕の手が誰かを壊している」


 アデルベルトの呼吸が止まっているのが分かった。壁際の盾に向けていた視線が、ナナハルトの腫れた手に戻り、そこで釘を打たれたように動かなくなっている。拳を握った膝の上で、指の関節が白くなっていた。


「だから弦を切った。二度と弾かないために。二度と誰も、あんな風に殺さないために。彼女がいなければ動かないと王様には言ったけれど、存在していたら何かの拍子に発動してしまうかもしれない。……それが怖い」


 ナナハルトの声が途切れた。壁にもたれた頭が僅かに傾き、天井を見上げた。視線の先には何もなかった。灰色の漆喰と、油灯の影だけだった。


 どちらも黙った。壁の向こうで、作業場の時計が不揃いなリズムを刻み続けていた。


 アデルベルトが口を開いた。


「……俺は、あの戦場にいた」


 静かな告白だった。ナナハルトより少しだけ太い、だがまだ少年の声だった。


「光が降りてきた時、俺は敵の槍を受けていた。あの光がなければ、俺は死んでいた。周りの連中もだ。ロルフも、一般兵も。全員あの場で終わっていた」


 ナナハルトの視線の端に、アデルベルトの横顔が見えていた。


「それがお前の楽器の音だったとは思わなかった。だが、馬鹿みたいに浮かれて勝利だと思っていただけじゃない」


 アデルベルトの拳が膝の上で握られたのが見えた。


「荷車でロルフを運んだ時、お前が『人を霧にした』って壊れかけていたのは見ていた。それに、お前は嘘も下手だ。城の詰所でも顔が強張って、誰が見てもおかしかった。あれは全部を一人で抱え込める奴の顔じゃない」


 アデルベルトがこちらを向き直った。


「こんな状態で、お前一人で全部抱えていたら、追撃戦の前に潰れる。潰れたら、お前が守ろうとしている地下の連中も、何もかも終わりだ」


 ナナハルトはアデルベルトと向き合う。この部屋に入ってから初めて、しっかりと目を合わせた。


「お前の嘘に加担しろとは言わない。だが、黙って見ていることはできる。見ていて、お前が倒れそうになったら支える。それくらいは、させろ」


 ナナハルトの口が開いて、閉じて、もう一度開いた。


「……アデル」


「なんだ」


「ありがとう」


「ああ」


 アデルベルトの返事は軽かった。そのくらいが、ナナハルトには丁度良かった。

 壁際の盾を手に取り、寝台の脇に静かに寝かせてから、上に毛布を被せた。不慣れな手つきだった。弦を失った楽器の亡骸を、隠すように。


「寝ろ。おばさんが死んだように寝てると言ったんだ。少なくとも昼までは死んでいろ」


 寝室の扉に手をかけた。振り返らずに言った。


「手の腫れは、おばさんに任せておけ。俺は何も見なかった。ここには来なかった」


 扉が閉まった。店側でゲルダとアデルベルトが短い言葉を交わす声が壁越しに聞こえたが、内容までは聞き取れなかった。表の扉が開き、軍靴が雪を踏む音が遠ざかっていった。


 ゲルダが寝室に入ってきた。


 何も言わなかった。温かい濡れ布巾を持ってきて、息子の前に座り、赤く腫れた右手をそっと取った。


 布巾で腫れた手を包み込んだ。湯の温度が、凍えた指先にゆっくりと染みていった。皮膚の表面が熱いのに、骨の芯が冷たい。その境界を、母の手が布巾越しに撫でていた。歯車を修繕するのと同じ手つきで、一本一本の指を丁寧に確かめていく。機械油と真鍮の匂いが染みついた、職人の指だった。


 左手も同じように包んだ。爪の間の煤を拭い、ひび割れた皮膚に布の温もりを当てていった。


「何背負ってんのか知らないけどね」


 布巾越しの手の動きを止めないまま、ゲルダは誰にも聞こえない声の大きさで呟いた。


「あんたは優しくて素直な子だ。それにあの子もそうだね。いい友達だ」


 ゲルダは立ち上がる。


「寝な。あの子が何も見なかったって言ったんだ。あたしも何も見なかったよ」


 作業場に戻っていった。

 チクタクチクタクと、不揃いな時計の音だけが残る。


 窓の外で、雪が降り始めていた。枕元には弦のない盾が横たわり、胸元では修復されたブローチがある。腫れた両手は布巾の温もりの中にあった。


 目が覚ればすぐに、行軍だ。ナナハルトは目を閉じ、泥のように眠った。

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