夜明け前の帰宅
正規ゲートの入口に立って、天を見つめる。クレーナの工房から借りてきたライトで照らすと、ロープの端が闇の上方で揺れていた。
数キロの縦穴。降りてくるだけで三十分以上かかった道のりを、この腫れた指で登り返すことはできるのか不安になる。だが、やらなければならない。
「ナナハルト」
背後から声をかけられて、振り返ると、回廊の暗がりからクイルの長身が歩み出てくるところだった。
クイルの手には、修復を終えた鴉のブローチがあった。
「双方向通信を回復させました。以前と同等の精度で送受信が可能です」
差し出されたブローチを受け取ろうとして、指が閉じなかった。クイルが一瞬だけ間を置いてから、黙ってナナハルトの胸元にブローチを留めた。冷たい金属がコートの布越しに鎖骨に触れた。沈黙した赤い石が、そこにある。握り込めば、いつでも彼らと繋がる。
「ありがとうございます、クイルさん」
クイルは頷いた。そして、ナナハルトの背後の縦穴に視線を向ける。
「昇降機を起動します」
ナナハルトの足が止まった。
「……でも、昇降機を動かせば都市に負担がかかりすぎるって言ってましたよね?」
「把握しています」
クイルの声は静かだった。感情のない声が事実を続ける。
「一度の起動で、都市の定常供給の数パーセントを消費します。今のマザーには、決して軽くない負担です」
そしてクイルは、ほんの僅かに間を置いた。
「ですが、あなたの手では、この縦穴を登り返すことはできません。地上に帰還できなければ、夜明け前に王都に戻れず、正規ゲートの存在が露見する。それは都市にとって、数パーセントの消費より遥かに大きな損失です」
合理なのは間違いない。クイルは感情でこの判断を下したのではない。損失の比較計算の結果として、昇降機の起動を選択している。
だがナナハルトの喉は詰まった。エリの命を削る。弦を切って、これ以上エリを消耗させないと誓った、その同じ夜に。
「記録は続けます。何かあれば、こちらから」
クイルが回廊の壁に手を触れた。石畳に埋め込まれたエーテル回路が淡い青に灯り、縦穴の内壁を光の筋が駆け上がっていった。
低い振動が足元から立ち上がった。都市の奥底で、巨大な機構が目を覚ます気配。壁面の光脈が一斉に明度を落とした。ほんの僅かだが、確かに。エリュシオンの照明が、一段だけ暗くなった。
昇降機の床が、音もなく足元に浮き上がってきた。
クイルが一歩退いた。
「あなたのその手が都市の法則を断った事実を、私は記録しました。これは、エリュシオンからの対価です。朝までに、お戻りください」
「そうか。ありがとう」
昇降機に足を踏み入れた。壁も手すりもない、ただのエーテルで浮かぶ石の台座がわずかに浮き上がる。膝が折れかけたが、盾を床について身体を支えた。
浮上が始まった瞬間、内臓が一瞬だけ沈んだ。降りる時に三十分以上かけた縦穴が、圧倒的な速度で後方に流れていく。壁面のエーテル光脈が青い線になって視界を過ぎ、耳の奥で気圧が変わった。寒さも音もない。ただ光の筋だけが流れていた。
数十秒で、空気が変わった。
湿った地下の温もりが消え、氷点下の大気が肌を叩いた。頭上に、夜空が開いていた。石畳の隙間から吹き込む雪の粒が睫毛に触れた。
地上に到着した。外はまだ暗いが、東の空の底に灰色の気配が座っている。夜明け前だった。
雪は止んでいた。行きに刻んだ自分の足跡が、新雪の下に浅く残っている。朝までに降り積もれば消える。降らなければ、正規ゲートまで一直線に続く蹄の跡が、夜明けとともに誰かの目に触れる。
斜面を下った。膝が何度も折れかけた。弦を切った両手はもう握ることすらできず、腫れた指を体の前に突き出したまま、肘と踵だけで雪の斜面を滑り降りた。
麓の林に、馬はまだいた。
大樹の根元で雪除けの毛布に包まれたまま、白い息を吐いている。近づくと鼻面を押しつけてきた。その息だけが、この夜に触れた中で唯一温かいものだった。手綱を解こうとして、指が動かなかった。結び目に歯を立てて引き、口の中に麻縄の繊維と凍った雪の粒が散った。
馬の背に跨がるのに三度失敗した。腕に力が入らなかった。四度目に鐙に足をかけ、鬣を掴んで身体を引き上げた。腫れた掌に馬の体温が滲み、それだけで視界が滲んだ。
帰路も暗闇だった。だが馬は、行きに自分たちが踏み荒らした雪の跡を覚えていた。手綱を握れない主の代わりに、崩れた轍を一歩ずつ正確に辿っていく。ナナハルトは馬の首にしがみつくことしかできなかった。凍った風が耳を削り、背中の盾が揺れるたびに、弦のない共鳴胴が空っぽの音を返した。
城壁の輪郭が闇の底に浮かんだ時、東の空はまだ暗かった。裏手の厩舎に馬を滑り込ませて毛布を元の場所に戻し、繋ぎ場の杭に手綱を結んだ。指では結べず、歯で麻縄を噛んで引いた。馬が小さく嘶き、振り返った額に鼻面を押しつけてきた。
裏路地の壁に手をつきながら早足で歩いた。空が白み始めている。早朝の配給に向かう下働きの女たちの声が路地の向こうから聞こえ始めていた。
家の裏口に着いた時、足が止まった。
扉の隙間から明かりが漏れていた。油灯の揺れる橙色。ゲルダがもう起きている。
盾とコートを置いてから、扉を開けた。表の時計店に続く扉だ。店から外に続く扉は閉ざされていた。店が開く時間にはまだ早い。
ゲルダが作業台の前に立っていた。小さな歯車を指先で摘まみ、ルーペを片目に当てたまま、狂いかけた時計の機構を覗き込んでいる。チクタクチクタクと不揃いなリズムが油灯の橙色の中に漂い、機械油と真鍮の匂いがそこに混じっていた。
ゲルダが顔を上げた。
ゲルダは、ルーペを外し、息子の髪の先から足元まで確認した。雪に濡れた髪。泥と煤と汗にまみれた顔。そして、赤く腫れ上がった両手の指先は、放電で焼け水疱で膨れて血が滲んでいる。
何も聞かなかった。
「座りな」
ゲルダはそれだけ言うと歯車を作業台に置き、後ろの棚から布巾を取り出して湯桶の湯に浸した。
ナナハルトは椅子に崩れるように座った。膝が笑っていた。視界の端が暗い。体温が奪われ続けた結果なのか、微熱が上がった結果なのか、自分でも判別がつかなかった。
ゲルダが温かい布巾で右手を包み始めた時、表の扉が激しく叩かれた。
「ナナハルト、いるか!」
アデルベルトの声だった。
全身が強張った。
ゲルダが動いた。息子の肩を押し、私室へ続く扉へ押し込んだ。小声で「部屋に戻ってな」と言う。
しばらくして、ゲルダが表の扉を開ける音がした。
「うるさいねえ朝から! あの子なら死んだように寝てるよ!」
ゲルダの声は完璧だった。朝の機嫌が悪い職人の女将が、騒々しい来客を追い払う時の声そのものだった。
「いつから?」
「昨日の晩にはもう倒れてたさ。騎士団は人使いが荒いねえ、あんたも同じ口かい」
「……すまない、おばさん。配給の干し肉を預かってきたんだが」
「あらそう。置いときな。起きたら食べさせるから」
「本当に大丈夫か? 顔だけでも」
「大丈夫大丈夫。死んでたら起こしてるよ。さ、行った行った。若い騎士がうちの前で長居してたら近所に噂が立つだろ」
扉が閉まった。
アデルベルトの足音が遠ざかった。雪を踏む音が小さくなり――止まった。
数秒の沈黙があった。
足音が、戻ってきた。
今度は、表の扉ではなかった。裏口に回り込む軍靴の音が、壁越しに聞こえる。濡れた雪を踏みしめる重い一歩が、建物の角を曲がって近づいてくる。
ナナハルトが帰宅した裏口。もしかしたら、閉め忘れたかもしれない。あるいは、雪の上に残った泥混じりの足跡が、この扉まで続いていたのかもしれない。
ナナハルトが慌てて裏口の扉を確認しようとしたその時、軍靴の音が止まり、裏口の取っ手が動いた。
冷気が流れ込んだ。夜明け前の凍えた空気と、雪の匂い。扉の向こうに、アデルベルトの赤い髪が見えた。
裏口の敷居を跨いで立ったアデルベルトの視線が、ナナハルトの足元から顔まで一息で走った。軍靴の泥と雪焼けした頬、それから両手。腫れた指を見た瞬間、アデルベルトの顎が引き締まった。
「……お前、何をしていた」
押し殺した声だった。問い詰めるより先に、身体のほうが動いていた。アデルベルトは裏口から中に入り、背後の扉を閉めた。冷気が遮断された。
「ここじゃ話せない。部屋に行くぞ」
断る暇はなかった。アデルベルトの手がナナハルトの腕を掴み、奥へ向けて歩き出した。足元に置いてあったコートと盾が目に入ったのだろう、一瞬だけ足が止まった。弦のない盾の表面を見下ろし、それからコートと盾を片手でまとめて持ち上げた。
ナナハルトの私室までは数歩だった。狭い廊下を抜け、扉を開け、押し込まれるようにして部屋に入った。




